第4話
それからアンジュ学校に入学するまでの二年間、義父母が営む病院でアンジュを酷使する日々を送っていた。
語るとすれば、義母に叩かれ、蹴られる毎日で、体の至るところに痣があったことくらいだろう。というのも、当時のわたしはアンジュの使い方が大変下手くそであったため、患者の治癒を上手くできないことが多々あったのだ。義母が腹を立てたのも、分からなくもない。
だから、特別ここに記す話はない。
それでも、ひとつ。エピソードとして書くには主観すぎるので割愛するが、どうしてもここで紹介しておきたい人物がいる。わたしがアンジュ学校へ入学する際、義父母を説得し、入学の手引きをしてくれた、当時、生徒会長をしていた的場千秋。そして、副会長だった渡優だ。彼らのおかげで今のわたしはある、と言っても過言ではない。
「睫毛がある」
そう言って、泣きながら抱きしめてくれた、千秋。
「深海魚以下かよ」
七歳のわたしに、容赦なく言った渡さん。
心から深く感謝している、そんな言葉が陳腐に思えるほどに、わたしにとって、大きな存在だった。後に彼らのことも書くが、前もって、ここに二人の名を記載しておく。本当に、二人にはお世話になった。
だが、それと同時に、複雑な思いも少しはある。もし、彼らのそばにいなければ、わたしはあれほどまで強くならなかった。強くならなければ、平凡で、どうってことのない生活を送れていたかもしれない……
話を戻そう。
アンジュ学校は、都心のすぐ近く、ヤヨイ国にも近い場所に位置している。拉致がどうだ、とかを気にしているわりには、それほど国の内部ではない。だがそれを知ったのは、わたしがアンジュ学校を退学してからだった。アンジュを持ち、入学すると、アンジュ学校からは出られない。しかし、これといって不満を持つ生徒はおらず、皆、楽しそうに暮らしていた。学校の快適さゆえに、完全無欠な世界に住んでいると、信じて疑うことがなかったのだろう。それゆえ現状の生活に満足し、外の世界を知る必要がなかったのだ。また、知る機会も与えられていなかった。
アンジュ学校の敷地、すべての面積はおよそ二千万平方メートル。ホノカ国の面積が二万平方メートルで、そのうち半分が森などの自然であることを考えると、かなりの面積であることが分かってもらえるだろう。
アンジュ学校には、年齢によって幼児部、初等部、中等部、高等部と分かれており、それぞれ校舎も別々に建てられてある。幼児部と初等部は近接して建てられているが、中等部と高等部は、それぞれ寮から、かなり歩かなければならない。
ホノカ国は自然が多いため、学校内にも大小さまざまな森がいくつかある。幼児部の頃には、授業内で森林浴をしに森に入ったりもした。だが、一つの森だけ、決して入ってはならない、という不気味な森、境弥の森があった。
他の森と違って、森が生きていない。太陽の光を浴びても、決して緑が輝いて見えない、どこか気持ちの悪い森だった。初等部と中等部の真ん中あたりに存在し、教室の場所によっては、その森を上から見ることも出来た。そこから見るに、いつも暗い雰囲気を醸しだしているため、禁止されなくとも入ろうだなんて、思いもしないような森だ。しかし、中には興味本位で侵入しようとする輩もいて、それを防止するため、森を囲むように、触れると電流が流れる電気柵が置かれていた。
「……それで、森の中には何があったと思う?」
上級生の銀が、読み聞かせでもするように間を取り、わたしたちを見回す。
「ギン兄、実際に見たの?」
続きを待つのがじれったくなり、訊いてみた。
「んなわけねぇじゃん、エリカ。あの森は入っちゃダメってことになってるんだぞ」
「でも梓、ギン兄は嘘、言わないよ」
「なんだよ。いっつもギン兄ギン兄って」
梓は不機嫌そうに眉を寄せていった。
「だって」
「おい棗。お前もなんか言えよ」
腹に据えかねた梓が、棗を呼んだ。棗は、廊下側の壁にもたれかかって座っていて、話に巻き込まれた、と言わんばかりにうっとうしそうな顔をする。
「別にどうだっていいよ」
「なんだよお前。いつもすました顔しやがって」
「あっくん、年下に喧嘩ふっかけてどうするの」
胸ぐらをつかみに行く勢いで立ち上がった梓の足を、楓が両手でつかんで阻止する。
「はーなーせーよ、楓」
「え、ちょっと、なんでそう……」
「エリカ、ほっとけほっとけ。いつものことだよ」
銀が少し離れたところで、呆れたように、小さくため息をつく。
「なんで棗、いつもあんななの?」
「同じクラスのエリカが知らねーのに、オレが知ってると思うか?」
梓と楓の攻防はまだ続いていて、今度は梓が反撃しているところだった。棗のことはもうすっかり忘れている。
「棗が入学してきたのって、つい最近だったよな?」
「うん、二カ月くらい前かな」
「十一歳で入学か。それまで一般人として過ごしてたわけだし、学校の強制入学を良く思ってない、とかが原因なんじゃないの」
「そうかな」
簡単なことなら自分で判断できる年頃になってからの入学は、そう多くない。親がわが子を渡すまいと逃げ惑っていたか、突然変異でその年頃にアンジュを持った、というのとの、どちらかだろう。
「そーいえば、最近学校の外に出て課外学習したんだって?」
「あ……うん」
その話か。わたしはそのことを、あまり思い出したくなくて、曖昧に返事をする。
「どんなことしたんだ?」
「えっと……火事の現場に行って、ケガ人の手当した」
「火事? マジか」
銀が目を丸くした。
「いきなり実習? 治癒のアンジュみんな?」
「ううん。わたしだけ。先生に人が足りないから来てって言われて……」
「俺が小五のときは、ただの病院見学だったのに。そんなに人足りねぇのかな」
そう言った銀の声は、意外だ、というよりは、何かひっかかることがありそうだった。
「先生って、誰?」
銀の声が低くなる。
「それが……」
わたしは首を横に振った。
「知らないやつだったのか?」
「うん」
「そんなやつに、のこのこ付いて行ったのか?」
銀の質問は、まるで問い詰められているみたいだ。普段の銀とは違う。彼を敵に回したような気分になる。
「……ごめんなさい」
「あ! 違う違う! ごめんな、イライラして」
どこか気負ったような銀はそこで姿を消し、慌てていつもの銀になる。
「男? 女?」
もう質問攻めは終わりだと思っていたが、それでも銀は訊いてきた。
「男の先生だったよ。若くて、なんかちょっとだけチャラってした」
「やっぱり……」
「なにか、あるの?」
その問いかけに対して、銀からの返事はなかった。聞こえていなかったのかもしれない。これほどまでに何かに執着し、真剣に考える銀は、あまり見たことがなかった。
銀は長い睫毛を伏せ、組んでいた腕を入れ替ると、また一点を見つめたまま動かなくなった。しばらくそうしてから、やっと気づいたようにこちらを見た。
「あ、えっと……ちょっと気になってることがあってさ。ほら、オレこう見えても生徒会長だし」
彼が何かを隠しているのはバレバレで、何のことか、知りたい気持ちはあったが、そのときのわたしは、突っかかることをやめた。口調は優しくなっても、目は何も聞くな、と言っている気がしたからだ。
何か違う話題に変えようと、頭の中を探す。
「あ、森! 森の中に何があったの?」
さっき銀が言っていたことを思い出して、訊いてみる。
「あー、それは」
さっきの火事の話など、なかったかのような銀が、答えようとして辺りを見渡す。梓と楓は、いつの間にか戦闘ごっこに発展しており、銀の話を聞きそうにない。銀はそれを見てから続けた。
「でっかい館だよ」
「でっかい館?」
「そう、ここから見えてもおかしくないくらい、でっかい館。ちょっと古臭くて、王様とかが住んでそうな、むかーしの建物って感じの」
わたしは窓の方を見る。初等部から、境弥の森は一望できる。が、銀のいう館は見えない。
「そんなのないよ」
「そう、ないんだ」
見た、というのに、ない、という銀に首をかしげる。
「森に入ったの?」
銀が頷いた。
「どうして? ギン兄、あの森は入っちゃダメって先生が」
「千秋を追いかけてたんだ」
わたしはもっと意味が分からなくなって、今度は反対側に首を傾けた。
「千秋はもう卒業したから、学校にいないんじゃないの?」
「そう、そうなんだけどさ。いたんだよ。渡さんも一緒にさ」
「ワタるんがどうかしたの?」
千秋と渡、という名前を聞いて、梓と楓がもとのポジションに戻って来た。楓は誰にでも愛称を付けて呼んでいたが、渡さんのことまでも、ワタるん呼びするブレない姿勢は、やはり強者だ。それも、彼の溢れる愛嬌から許される行為なのだろうが。
今聞いたことを二人にも伝えると、二人とも目を丸くする。
「でも、森に入るには柵越えなきゃじゃん」
「千秋と渡さんが入って行った柵には、電流が通ってなかったみたいで。オレも無傷だった」
「銀くんは、話しかけなかったの?」
今度は楓が訊く。
「周りを警戒してるみたいだったし、話しかけれるような雰囲気じゃなくてさ」
「それで、どうしたんだ?」
「気になって跡をつけてみた。そしたら突然、館が目の前に現れて。千秋の姿も見失ったし、何がなんだか分からなくなって、怖くて逃げた」
そこで終わりだ、と銀が告げると、納得のいかない顔をしたのがわたしを含めて三人。
「その館ってなに?」
「しかも元生徒会長の千秋と元副会長のワタるんも関わってるのは、なんか臭うね」
「銀、ビビりだかんなー」
「おい、オレの悪口混ぜるなよ」
銀が梓の鼻を掴もうとしたが、梓はその手を、ひょいっと避けてみせる。
「なあ、森に探検しに行こうぜ」
「僕も行く!」
すかさず楓も言う。
「え、ダメだって。学校でも禁止されてるじゃん。な、エリカ」
こちらに助けを求めてきた銀だったが、わたしの目を見るなり、最後の砦である、もうひとりに熱い視線を送る。
「やめろよ」
棗がそう言ったのを聞いて、銀はほら見ろ、と言わんばかりに満足げな顔をする。
「いや、そうじゃなくて」
棗の訂正に、銀がキョトンとして彼を見た。
「俺も、興味ある」
この一言で決まった。
銀は誰も味方を得ることが出来ず、やっちまった、とでも言いたげに頭を抱える。その様子とは裏腹に、調子に乗った梓と楓が、棗の傍へ行くなり、軽くパンチを食らわせるフリをする。
「やるじゃん」
もちろん、そういうじゃれ合いをあまり得意としない棗は、それらの手を嫌そうに払いのけようとする。が、二人のほうが一枚上手で、棗はじゃれつかれたままになった。数の問題かもしれないが。
「森の話なんてするんじゃなかった」
後悔している銀に追い打ちをかけるように、梓が言った。
「決行はあしたの夜九時! こっそり寮を抜け出して、初等部と中等部の間の、馬の像前集合!」