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ドウカ  作者: 名瀬ほのか
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第1話

 ある日の夕方。窓の方を見るや、わたしは、はっとして部屋から飛び出した。大きく突き出たお腹を抱え、もっと早く、ともどかしさを覚えながら玄関を目指す。


「はぁ、はぁ……」


 少し動いただけで、この息の上がりよう。二人分の重みと、残り少ないだろう自分の体力を感じる。わたしは、なんとか手すりにつかまり、息を整え、部屋から出てまで見たかった光景を目に入れた。

 真っ赤に焼かれた空。茜色? いや、これは、あの時と同じ色。


「あ、エリカ。ダメじゃん」


 ちょうど、仕事から帰ってきたあずさが、そんなわたしを見るなり駆け寄った。まだ、呼吸が乱れたままのわたしの背中をさすり、落ち着かせようとする。


「もう予定日近いんだし、あんまり――」

「見て、梓……」

「え?」

「見て……」

「……っ」


 背中をさする手が止んだ。言わんとすることが伝わったのだろう、梓も同じ方向を見て、言葉を失っている。

 決して、忘れていたわけではない。忘れられるはずもない。わたしにとって、いや、梓にとっても、この光景は特別だった。


 空は、いつでもどこでも、当たり前のように存在する。ふっと上を見ると、そこにある。それゆえ、特に意識をして見ることは少ない。が、あの日の夕空は違った。


 俺をみろ。


 そう主張していた。まるで誰かが、いや、きっと彼が、最期の最後に、わたしたちに見せたのだと思っている。形には残さない、という気づかいとは裏腹に、決して忘れさせやしない、という念が伝わった。彼の思惑通り、あの日の夕空は、わたしたちの記憶にしっかりと刻まれていた。


 炎のように強く、血のように真っ赤な色の夕空。あの日とそっくりな夕空が、今、目の前にある。ずっと心に住み続けている彼が、目の前にいる、そんな錯覚さえも覚えた。


「……ねぇ、梓。やっぱり、残すべきだと思う」

「それって、アンジュのこと?」


 わたしは、静かにうなずいた。梓が困ったように頭をかく。心なしか、苛立ったようにも見えた。それもそうだ。わたしはこのことを、もう、手で数え切れないほど、梓に訴えている。


「分からないな」


 一拍おいて梓が言った。


「アンジュが脅威だってことを、今の時代の人はみんな分かってる。ない方がいいものだって。けど、時代が過ぎて、脅威が薄れたころに、化学者たちが興味を持たないはずがない。また作るよ、きっと」

「でも」

「教訓を生かせるかもって考えなら、甘いよ。どの時代にも、自分が優位に立てるって分かったら、手段を選ばない輩が出てくる。過去にどんな残酷な結果を招いたか、なんて、お構いなしに。そうなれば、アンジュは最も理想的で、最も現実的な道具になる」


 梓の言うことは、正しかった。それはわたしにも分かっているし、何度も納得しては、自分の心に言い聞かせてきた。だが、この夕空を目の前にしたとき、なぜわたしがこんなにもこのことにこだわるのか、はっきりと分かった。


「アンジュは、憎むべきものじゃない」


 梓が息を呑むのが分かる。


「あの事件を招いたのは、わたしたち人間の愚かさのせいであって、アンジュのせいじゃない。わたしは、未来に残るアンジュの存在を、醜いものにしたくない!」


 わたしは叫ぶように言った。


 一連のあの事件。ツンと鼻につく、独特な、死の匂い。骨は、ゴミ箱と間違えてフライパンに入れ、焼いてしまった卵の殻のよう。ほんの少し力を加えれば、もろもろと壊れるそれは、丁重に扱われることなく、手慣れた手つきでザッとビニール袋に入れられる。そんな光景を招いたのは、アンジュのせいではない。


「アンジュは、美しく、人に寄り添えるものだった。何よりわたしが、それを証明したいの!」


 そう言いきったとき、下腹部がズキっと痛んだ。一瞬の痛みだったので、陣痛ではない。が、咄嗟に手で抑えたため、梓がそれに気づいたのだろう。肩を抱き、家に入るように促してきた。


「とりあえず、中に入ろう。落ち着いてから、話をしよう」


 低い声で梓が言った。

 夕日はもう半分ほど姿を隠し、いつも通りの夕焼けに変わっていた。先ほどまで赤かった頭上の空は、闇が包もうとしている。

 わたしは梓に誘導されるまま、自分の部屋へと帰った。



 ドンッ、コツン、と部屋に不細工なノック音が響いたのは、夜が深まる十時ごろ。


「ごめん、開けてくれない?」


 鍵をかけているわけでもないのに、梓はそう言った。不思議に思い、そっと扉を開けると、そこにはファイルや本など、大量の資料を持った梓が立っていた。


「え? な、なに」

「何って、エリカが言ったんじゃん。まだ車に積んでるから、ここ開けてて」


 梓は、無造作にそれらを床に置くと、その中からファイルを一冊引き抜き、はい、と手渡してきた。


「これは?」


 もう一度、梓に聞こうとしたが、彼はもう玄関へと戻っていた。


「なんだろう」


 ファイルの側面を何気なく見ると、考えるよりも早く、手が勝手にファイルをめくり始めていた。

 馴染み深い、懐かしい紋章。桔梗の花をモチーフにしたこの紋章は、アンジュの証だった。

 またバタバタと廊下を駆けてくる音がすると、さっきよりも多いのではないか、と思うほどの資料を、両手いっぱいに抱えた梓が部屋に入ってきた。


「これで全部だ。あとは燃やしちゃってもうない」


 梓は、子供がいたずらに成功したかのように得意げに笑った。


「これ……梓、これ……アンジュの。アンジュに関する資料は、全部焼却処分されたって」

「あー、それね」


梓がにこっと笑う。


「嘘」


 もう隠すことはない、と彼は続けた。


「残った重要人物の中で、一人くらい、上手いことしちゃう人いただろ?」


 頭に浮かんだのは、梓の言う通り、たった一人だった。立ち回りが上手く、周りがよく見れ、頭の切れる人物。


「渡さん?」

「そう」


せいかーい、と梓が人差し指をこちらに向けた。


「ったく、やってくれるよな。今は国の偉い人が管轄してる図書館の、閲覧禁止区域ってところに置かれてる」


 ということは、嫌な予感がする。


「持ち出すの、ちょっと大変だった」


 大変だ、と言ってるわりには満足げで、達成感で溢れた顔つきになっていた。どうやら、内緒で持ち出してきたらしい。


「それ、良くないんじゃ……」

「かもしれないね」


 そう言って梓が笑う。


「でも、出来事をちゃんと書くには、資料が必要だよ。あれから七年。記憶してるつもりでも、欠けていたり、都合のいいように美化されていたりする。本気であの出来事を残すつもりなら、ちゃんと、残そう」


 ちゃんと残す。それは、隠しておきたかったことも包み隠さず、全てを残す、ということだと理解した。でも不思議だ。あれほど頑なに、梓はアンジュの資料などは危険だからと、資料を残すことを許してくれなかった。それなのに、今度は全てを残そう、と言う。


「どうして急に、残していいって言ったの?」


 すると、梓は決まり悪そうに着ていたパーカーの襟元を掴み、口元を隠した。


「怒らないで聞いてほしいんだけど」


 そう前置きをしてから、梓が続ける。


なつめのことを残したくて、アンジュアンジュってうるさく言ってるんだと思ってた」

「え」

「だから! なんて言うか……エリカを見くびってた。言われて気づいたんだ。俺も、アンジュが好きだったから! 後からこんな薄っぺらい資料だけ見て、何もしらない未来の奴らにガッカリされたくない」


 梓は、もういいだろ、と顔を見られないようにするため、大して散らかっていないファイルを整える。


「わたしがまだ棗を追いかけてるって、思ってたんだ」


 少しからかいたくなって、わざと煽るように言ってみる。


「当たり前じゃん」


 返ってきた言葉は真剣だった。


「まだ棗を想ってるって言われても、怒れない。ちょっと嫌だけど」

「梓……」

「分かったら資料見返して書く! 一刻も早くばれないうちに返すから! じゃないと俺のキャリアが危ない。まだこの家、ローン残ってるし」

「は、はい!」


 わたしは資料の中でも一番古いものを手に取り、読み始めた。渡さんが厳選して残しただけあり、規模は最小限だが、とんでもなく濃い情報量が、そこに詰まっていた。渡さんも渡さんなりに、アンジュを必死に守ろうとしてくれていたのだと思うと、今からわたしが語ろうとしていることを、許してくれている気がして、心強い。


 そういうわけで、わたしは深夜に、ペンを取った次第だ。


 どのようにして、あの事件を残そうか。迷ったが、やはり、わたしの実体験を書くことにする。渡さんが残してくれた資料をもとに、わたしが見たままを書いていくつもりだ。ただ、資料があるから、といって本当に正しい事実を描くことができるか、それは分からない。というのも、あくまでわたし自身が見たもの、その解釈にすぎないからだ。もちろん、歴史に残す、という責任の重さを理解し、真摯に机に向かいたいと思っている。

 この文献は書き上げた後、梓がファイルとともに、閲覧禁止区域に戻す手はずになっている。うまくいけば、数百年はもつだろう。そしてあるとき、この文献が誰かの手によって見つけられ、やがては歴史秘話、というような形で展示される日が来る、かもしれない。そのとき、アンジュをどう思うだろうか。わたしたちの行いを、どう思うだろうか。そして、わたしたちの時代に比べて、これを見る人々の時代はどう変わったのか。分かる日が来るのだろう。


 もう、夜も更けた。さっきまで一緒に資料を読み、出来事を確かめ合ったりしていた梓は、疲れてしまったのか口を開けて眠ってしまっている。幸い、彼は滅多にいびきをかかない。腹の子も、今日は大人しく眠ってくれている。


 静かで、一人だけの夜。

環境は整った。


 それでは、始めよう。


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