後編
本を読み終えてしまった女子生徒は、カウンターを離れて、図書室の一隅へと足早に向かった。
そこには、この高校創立以来の卒業アルバムが年度順に並べられていた。
女子生徒が手に取ったのは、そのうちの一冊だった。
それは、あの本に記されていた著者の入学年の新入生たちの、卒業アルバムであった。
受付の仕事を放棄したままには行かないので、そのアルバムをカウンターに持っていって、中を見た。
まずは、卒業記念のクラスごとの集合写真を見ていった。
と、ページをめくりかけた女子生徒の手がギクリとして止まり、そのページの右上に、彼女の目は釘付けになった。
女子生徒は全身が総毛立つのを感じた。
そこに、たった一人、瞑い上目遣いのまなざしでこちらを見やっている、あの男子生徒の写真があった。
ページの下の方に、その生徒の名前が記されてあった。
しかしその名は、水納詩音ではなかった。それほど変哲のない、男子の名前だ。
「何してるの? ちゃんと仕事しなさい」
突如注意されて、驚いた女子生徒は手にしていた卒業アルバムを取り落とした。
新しく図書委員会の顧問になった女性教師がカウンターの前に立っていた。
女子生徒は、この件を説明しようか、一瞬ためらった。
前の顧問の先生が事故死した当初は、この本の件とそれを結びつけては考えていなかった。
だが時間が経ち、かつあの男子生徒の写真がこの昔の卒業アルバムに載っている事実を知った今は、ためらわざるを得ない。この女性教師を巻き込んでしまっていいものか…。
いや、そもそもこんな話をこの教師が信じてくれるものだろうか…。
考えが錯綜して、女子生徒はとっさに言葉が出なかったのだ。
しかし、女性教師はカウンターの上の黒い本を手に取り、中をペラペラとめくり始めていた。
たちまち、その顔色が変わったのには、女子生徒の方が驚いた。
「この本、どうしたの?」
女性教師の厳しい詰問調に、女子生徒はドギマギしつつ、ことのあらましを説明した。
「それで、その卒業アルバムを見ていた、という訳なのね?」
女性教師に云われ、女子生徒はうなずいた。
「そう…」
女性教師は瞑い顔になり、深い溜息をついた。今度は女性教師が何か云うのをためらっている様子だった。女子生徒は云った。
「何か、ご存知なんですか? 教えて下さい。教えてくれないと、私が安心出来ません」
女性教師は説明し始めた。あらましはこうである。
前の顧問の男性教師が亡くなった数日後、別の高校の男性教師から、この高校に電話があったそうだ。
その教師は、亡くなった男性教師の先輩で、かつてこの高校の教師をしていたことがある。
その時期は、まさにこの黒い本の著者がこの高校に通っていた時期に該当する。
その先輩教師は、亡くなった男性教師から、その時期に自殺した生徒はいなかったか、電話で問い合わせを受けたのだという。
そういう生徒は、いた。二年生の男子生徒が、学校の屋上から飛び降り自殺をしたのだ。
何故そんなことを訊くのかと、先輩教師は後輩に訊いた。亡くなった男性教師は、バカバカしい話でしょうが、と前置きして、黒い本の件を説明した。
先輩教師は、衝撃を受けた。後輩は、先輩が自分の話に衝撃を受けたことに、驚いた。
先輩教師は後輩に、当時のことを話した。
自殺した生徒は、遺書は残さなかった。だから自殺の原因は、不明だった。
しかし、遺書は意外な形で見つかった。
生徒が自殺して間もなく、その両親から、図書の寄贈の希望が寄せられた。百冊以上に及ぶ文学書、人文書、学術書は古いものも比較的新しいものもあったが、その中に、件の黒い本もあった。
当時まだ創立して日も浅かった高校側としては、図書の寄贈はありがたかったし、内容も問題はなかった。その、黒い本を除いては。
遺書めいてはいるが、自殺の動機は直接には書かれていない。
内容も、不気味である以前に、不穏当である。
だが何よりも不気味なのは、次のくだりだ。
「私は××××年×月×日、午前11時に××高校の屋上から、飛び下りて死ぬ。私は頭から下の硬いアスファルトの上に落ち、頭は砕け、脳が飛び散るだろう。飛び散った脳は校舎の壁に当たって、そこに赤い染みを作るだろう」
自殺した生徒の死に様は、まさにこの文章の通りであった。年月日も時間も、この通りである。脳が飛び散って、校舎の壁に赤い染みが出来たのまで、その通りだった。この染みは洗っても落ちず、ついにその部分を取り壊して壁を造り直したほどであった。
高校側は、この本だけは遺族に返そうとした。
しかし、遺族は「寄贈されるのが本人の希望だから」として、頑として返却を拒否した。
そうこうするうちに、遺族は何処かへ転居してしまい、まったく連絡が取れなくなった。
高校側は困ってしまった。教師たちの中には、この本を蔵書とすることに拒否反応を示す者もいた。逆に、死んだ生徒と遺族の意思を尊重すべきだ、という意見ももちろんあった。
生徒たちには、この件が決着するまで本の存在そのものが、知らされなかった。
ある教師が、とりあえずこの本を供養してもらおう、と提案した。
その教師の知り合いの寺に、本が持ち込まれた。
だが、結果を云えば、その寺は直後に原因不明の出火で全焼し、住職は焼死した。
黒い本は行方不明になった。一緒に焼けてしまったものと、思われた。
そして、十年以上の月日が経ち…。
高校に電話をかけて来た先輩教師は云った。
「その本が、その時の本とまったく同じものであるかどうかは分かりません。しかし、自殺した生徒の遺族の話を信じるとすれば、その本はたった一冊しか印刷しなかった、とのことです。どうにも信憑性の薄い話とは思いますが、今となっては確かめようがない。ともかく、その本は何か人智を超えた危険なものがあります。慎重に取り扱うことを、お勧めします」
女性教師は話し終えた。
女子生徒は、話を聞いている間に、あることに気付いていた。彼女はそれを女性教師に云った。
「もしかして、問題の解決は、案外簡単なんじゃないですか? この本の最後には、この本がこの図書室の蔵書になることを望むって、書いてあるじゃないですか。話だと、この本はまだ一度も正式にここの蔵書になったことがない。蔵書にすれば、災いも収まるんじゃないですか?」
女性教師は呆れ顔で女子生徒を見た。そして云った。
「こんな気持ち悪い内容と、いわく付きの本を蔵書に出来るはずないでしょう? この本の件は私たちの方で処理するから、あなたは他の生徒には黙っていなさいね。あなたが安心出来ないっていうから、特別に話したんだから。大丈夫、安心しなさい」
女性教師は、女子生徒に話をしたことで、逆に自分の方の薄気味悪い気分は、晴れてしまったもののようである。
女性教師は黒い本をペラペラめくり、最後のページを見ながら、云った。
「それにしても気味悪いペンネームよね。ミンナシネ、だって」
女性教師は黒い本を持って、図書室を出ていった。
その後のことを、女子生徒は知らされることはなかった。
結果を云うなら、また同じことが繰り返された。
女性教師はそれから五日後、車にはねられて死んだ。
黒い本の行方はまたわからなくなった。
女子生徒は、このことをもはや口外しなかった。
云っても誰も信じてもらえそうにないからである。
ただし、あの男子生徒の姿を見ることも、二度となかった。
そしてこの件を秘したまま、女子生徒は高校を卒業した。
私がその人からこの話を聞いたのは、その人に私が愛を告白した時のことだった。
とあるレストランでのことだ。
彼女は淡々と私に上記の話をして、さらに付け加えた。
「その後、高校を卒業して間もなく、私の家のポストに、例の黒い本が、そのままの形で放り込まれていたんです。もちろん、驚きましたけど、私は中を開きました。中身はほとんど変わっていませんでした。ほとんど、というのは、一か所だけ変わっていたんです。…それは最後の一文です。この本が××高校の図書室に所蔵されることを望む、っていうような文章だったのが、この本を××××さん、つまりこの私に謹んで、深い愛情と共に献呈する、に変わっていたんです」
私は思わず訊いた。
「…で、その本はどうなったの?」
「仕方ありません。今も持ってます。供養しようとすれば、かえって他に迷惑がかかりますから」
彼女は淡々とそう云うのだった。
「その男子生徒は、あなたの前には…?」
「いいえ。一度も現れたことはないです。でも、何となく、いつも気配は感じています。今だって…」
私は思わず周囲を見回したが、もちろんそんなものは見えない。
彼女はうっすら微笑み、淡々と続ける。
「ですから、もし私とお付き合いされるなら、その彼もいっしょに付いて来るって訳です。それでよろしければ…ということなんですが」
言葉を失って呆然としている私に、さらに彼女は云う。
「ちなみに、あの本にあった名前の人が今どうなっているか、私は調べていません。そんなヒマも気力もなくて…。だから、代わりに誰か調べてくれれば、とは思っています。調べて下さいます?」
この時にはもう、私はすっかり戦意喪失していた。何と返事をしたのか、覚えていない。
「じゃ、これで。ここのお代、私の分は払っておきますね」
そう云って彼女は微笑みと共に席を立った。
以後彼女には二度と会っていない。