月下の水杯……誰がどう見ても水ではない
月明かりの下で、無数の衝撃音が轟いていた。
振り下ろされた丸太の様に太い腕を、狼女は最低限の動きで回避した。
余裕があっての事とではない。相手の動きは鈍いとはいえ、次々と繰り出される打撃はどれも一撃で戦車も吹き飛ばすほどの威力を秘めている。万が一にも喰らってしまえば、機動性を重視している狼女の肉体は大きな損傷を負うことになるだろう。
対する亀男は亀男で、狼女の機動力に手を焼いていた。
もとより防御に重きを置いている亀男の肉体と戦闘服は、多少の事ではダメージを受けない。しかし、狼女の並はずれた敏捷性を以って懐に入られ、急所を狙われればそうも言っていられない。本来運用するはずの火器は多くが破損、もしくは弾薬の枯渇で使用不能だった。
「グァアッ!」
「フンッ」
体勢を立て直すべく、狼女は亀男の背中の装甲を思い切り蹴って距離を取った。亀男はその一撃に敢えて装甲を打ち付けて狼女の体勢を僅かに崩す。
人間どころか鳥や獣、虫の気配さえない荒れ果てた、不毛の山中、構えを解いて二人は向かい合う。
「……仕上がりはどうだ?」
「いい具合だ。貴様には到底及ばないが、それでもこの重装備でここまで動ければ僥倖だろう。そちらはどうだ?」
「素晴らしいの一言だ。性能は勿論だが、熱に浮かされずに済むというのはいいものだな。戦術を組み立てる悦びには、やはり冷静さが不可欠だ」
狼女は満足げに戦闘服に包まれた身体を見下ろし、亀男は四肢の動きを確かめるように手足をゆっくりと振り回す。
処置によって傷は癒え、細胞の暴走も抑制された二人は自身に漲る力を確認すると楽しげに笑う。
「どうやら、悔いを残す恐れはなさそうだな」
「うむ。組織の技術を簒奪し、どこまで力を手に入れられるかというのも、興味深くはあったがな。やはり奴……〈レッドストライカー〉に一泡吹かせたいという欲求は押さえ難い」
貧弱な設備と乏しい物資の中で、それでも無理を通して強化を重ねた二人の身体に残された時間はもはや長くない。戦闘態勢に入ったままなら数日、そうでなくても数か月の内に機能を停止するだろう。瞬間的な戦闘力の向上と引き換えに、肉体を維持させる力を失いつつある今、組織の技術を更に練り上げて高みを目指すという選択肢も失せている。
残る道は一つ。
人類の天敵である〈ブラックパルサー〉の天敵、〈レッドストライカー〉との戦いに全てを賭け、燃やし尽くすことだけだ。
「……問題は、奴がいつ出向いて来るかだが」
ふと表情を厳しくし、狼女は小さく唸る。その懸念は、亀男も抱いていたものだ。
「うむ。奴が逃げるとも思えんが、あまりのんびりと構えられていてはこちらから動かざるを得なくなる」
「その心配はなさそうだ」
突然背後から掛けられた声に二人が振り向くと、十メートル程離れた川辺に彼らの首領が立っていた。
「精が出るな。流石に何日も薬液風呂の中では気も滅入ったか」
「これはこれは。まだこの施設にいらっしゃったとは。てっきり不甲斐ない組織ごと見捨てられたかと思っておりましたが」
「組織が腐ろうが朽ちようが、それが残したものに利用価値があれば利用し倒すまで。貴様らとて言っていた事だろう」
ふと、亀男は小さく首を傾げた。
首領は屈みこんで川に両手を突っ込み、大きめのビニール袋を取り出した所だった。
「丁度いい。小休止を兼ねて少し付き合え」
〈メタコマンド〉である二人の優れた視力は、月と星しか光源のない状況でも、それがありふれた買い物袋であり、その濡れた表面に缶ビールのラベルが透けて浮き出していることを理解した。
「正直に言えば、意外でしたね」
剥き出しの岩に腰掛けた狼女は、大地にどっかりと腰を下ろしている首領を見下ろす形で言った。
「む?」
「私も同感に思う。あなたの趣味ではなさそうだと考えておりましたが」
何がだ、と言わんばかりの視線を返した首領に、今度は亀男が言う。首領にも狼女にも背を向けてぼんやりと月を眺めているが、〈メタコマンド〉の聴覚に頼るまでもないハッキリとした声だった。
「「あなたがビール派だったとは」」
声を合わせて言う二人の手にも、首領の手にも、よく冷えた缶ビールが握られていた。
「……まさか貴様ら、私が年寄りだからとそんな偏見を持っていたのか? 言っておくが先の大戦が始まる前、既に私の国にもビールは入って来ていたのだぞ?」
「そういうわけではありませんが……」
「率直に言って似合わないというのが、その、本音ですな」
首領と目を合わせないようにそっぽを向き、二人はグイと黄金色のアルコールを喉に流し込む。
「嘆かわしい。貴様らは己が戦闘担当だからと浮世離れし過ぎなのだ。確かに貴様らに潜入や工作活動は任せていなかったが、私はそうもいかんことぐらいは理解していて欲しいものだな。それとも、高級なレストランや料亭でワインや日本酒をあおっているとでも思ったか?」
図星なのか、二人は返事をせずにもう一度ビールを口に含む。
「まあいい。私も貴様らがあっさりと酒を受け入れたことが意外でもあったしな」
「それは無論、我らも組織に参入するまではただの人間でしたので。酒ぐらいは嗜んでおりました」
「確かに、組織に身を置いてからは嗜好品の類は口にしていませんでしたが。こうしてみると、味覚が残っている事には感謝すべきでしょうか?」
狼女はどこか懐かしげにビールのラベルを眺める。
〈メタコマンド〉は酒に酔わない。アルコールの類は改造された臓器にあっという間に分解されてしまう。だが、無茶な改造で様々な身体機能に支障をきたし始めているせいか、狼女の顔には微妙に赤みが差していた。首領からは見えないが、亀男も似たような状態かもしれない。
「して、先のお話ですが」
と、急に亀男が振り返った。狼女程ではないが、やはりどこかほろ酔い加減に見える。
「ん? ああ、〈レッドストライカー〉とやり合う件については、先程向こうから連絡……宣戦布告があった」
首領もグイッとビールを呷ると唇の端を歪めた。
「明後日、私は〈タイプα01〉が、貴様らは〈レッドストライカー〉が相手をしてくれるそうだ。あの街の住民は基本的には手を出さんそうだが、奴らに命の危険が及ぶと判断した場合は遠慮なく干渉してくるとのことだ」
「結構。つまり我々が事実上の勝利を収めるまでは邪魔は入らないということですな?」
「それで十分。横槍が入ったところでそれは〈レッドストライカー〉敗北の何よりの証。文無しでも、奴に勝利したという事実があれば、三途の川の船頭も二つ返事で彼岸に渡してくれるでしょう」
「地獄の沙汰も実力次第、か。面白い」
三人で静かに笑った後、首領は立ち上がって二人に問うた。
「もう少し組織が形を残していれば、更なる強化改造、訓練を経てから奴らと拳を交える機会もあったのだがな。諦めはついたのか?」
「……どこまでも強大な力を行使してみたい。その欲求が未だ燻っているのは事実ですな。そういう意味では、未練がないとは言えますまい」
亀男は天を仰ぎ、少しばかり無念そうに言った。
「しかし、先の戦いで受けた傷は、今の組織では十全な修復は不可能だったことはあなたもご存じの事実。もはや我々には、最低限の機能を最大限強化して奴に挑むよりなかった。仮に組織の技術を流出させたとて、それが実を結ぶ前にこの身は用を成さなくなっていたでしょう」
狼女も少しばかり悔しげに、しかしどこかあっさりと言う。亀男もその言葉に頷くのを見て、首領はそれ以上根掘り葉掘り聞くのを止めた。
「首領こそ、よろしいのですか? 確かにあなたは〈タイプα01〉にもご興味をお持ちの様でしたが、正直、〈レッドストライカー〉と比較してはあの小娘が相手では……」
「うむ。基本性能、カタログスペックこそ優れてはいるでしょうが、実力としては少々……」
「その懸念もあるがな。だが〈レッドストライカー〉めが、何の対策もなしに奴を戦いに出すとも思えん。この短期間では付け焼刃であることは否定出来んが、それでも奴は〈ブラックパルサー〉を滅ぼした男だ。〈タイプα01〉は何としても生還させるつもりだろう。そして、私を生かして帰すつもりはない。下手をすれば、貴様らを倒してからあの小娘に加勢することもあり得る」
首領は挑発的に笑うが、二人の〈メタコマンド〉も皮肉げな笑みを返す。
「残念ですが、それはありえないでしょうな」
「ええ。奴の首は私たちが落とす。仮にあの街に討たれようとも、奴を戦闘可能な状態で帰しはしない」
首領は、彼らの笑みにこれ以上ない満足を覚えた。
敵に不足はなく、部下……かつて部下だった者たちも、かつて自分が率いたことがあると胸を張って言える者たちの様だ。
「成程、覚悟は固いというわけか。ではもはや互いの無事も祈るまい」
狼女、亀男は、首領の言葉に立ち上がった。
「では諸君、言った通り、明後日が我々の最後の晴れ舞台だ! 思うさま楽しもうぞ!」
「必ず、勝利をこの手に!」
「冥土の土産に、奴らの首を!」
夜の静寂を裂いて宣言した三人は一気に残りのビールを飲み干し、空き缶を手の中で握り潰して放り捨てた。




