昨日のない少女……私はだあれ?
そこが暗闇の中であると、目覚めても直ぐには気付かなかった。
目が開いているのかどうかも、意識が戻ってしばらくは分からなかったほどだ。闇の中、冷たい床の上で横になっていた身体を起こす。
だが、手足に力が入らない。そう感じてからようやく、全身に感覚がないことを理解した。
何故、自分はこんなところにいるのだ。何故身動き一つできないのだ。
不安と焦燥に駆られそうになった時、さらに衝撃的な事実に気付いてしまう。
そもそも、自分は誰だ?
自分がここにいる理由を思い出そうとして、とんでもない事実に行き当たった。この暗闇以外に、一切の記憶がない。一瞬の混乱の後、今度こそ強烈な不安と焦燥感が押し寄せてくる。
おかしい、そんなはずがない。そんな馬鹿なことがあり得るものか。こんな異常な状況がそうそう存在するはずがない。
否、待て。おかしい。
何故そんなことを考えている? この状況は異常なのか? 自分はもっと違う状況にいたことがあるのか?
思考がぐちゃぐちゃに渦を巻き、理性が形を失っていく。
恐慌状態に陥りそうになったその時、世界に光が差した。
目の前……横になっているのだから頭上と言うべきか。とにかく、暗闇の中に光が浮かんだのだ。赤黒く明滅する光に目を細めると、声がした。
『おはよう、■■■■。ようこそ、〈ブラックパルサー〉へ』
あなたは誰だ、■■■■とは、自分の事なのかと問う。舌がもつれて上手く喋れなかったが、どうにか言葉にはなった。
『怯えることはない。私は君を導く者、その不安と欠落を埋める術を伝える者だ』
導く者、という言葉の意味は分からなかった。言葉の後半、不安と欠落を埋めるという表現に、完全に気を取られ、疑問にさえ思わなかった。
『何も恐れることなどないのだ。君は不浄な過去から解き放たれ、大いなる高みに向けて歩みだす、その一歩を踏み出したに過ぎない』
言葉の意味はよくわからなかった。そんなことはどうでもよかった。
気が触れそうなこの恐慌、えも言われぬ不安を埋めるという言葉の意味を問う。
『記憶の欠落は、即ち立つべき大地を失ったに等しい。さぞや不安だろう。ならば、その欠落を埋め尽くせばいい』
埋め尽くす、とはどういうことだろうか。
『そのままの意味だ。君はこれから〈ブラックパルサー〉の勇敢な戦士として戦う。戦いでその不安と欠落を塗りつぶすのだ』
話の内容は、ほとんど理解できなかった。〈ブラックパルサー〉とは何か、戦いとはどういうことか、全くわからなかった。わかるのは、この不安から逃れるためには、この声に従うしかないということだけだ。本当に、何もわからない自分にはそれしかない。
どうすればいい、と問うと、声は微かに笑ったようだった。
『まずは、新たな名を名乗れ。α01、これが新たな戦士の名だ』
「おーい、01! いるんだろ!? 返事しろって!」
薄暗いながらも、どうにか照明が生きている狭い通路。〈レッドストライカー〉は声を張り上げながら進んでいた。
ひびが入り、一部が崩落した壁。瓦礫や資材が放置された床。配管から漏れた水滴の滴る天井。半死の状態ではあったが、その構造は間違いなく〈ブラックパルサー〉のアジトの物だった。
「あいつ、ちゃんとここにいるんだろうな……?」
〈レッドストライカー〉が意識を取り戻したのはアジト最下層の動力室だった。主機関は修復不能なレベルにまで破壊されていたが、予備の物らしい小型の超伝導炉が稼働していたことから、01が根城にしていたというアジトである可能性は高い。しかし、肝心の01の姿がない。次元の壁を超える際すぐそばにいたのだから、〈レッドストライカー〉と同様に空間境面は超えたとは思うのだが。
「まさか取り残されてるとか、やめてよね?」
軽口を叩きながら、内心ではかなりの不安があった。
〈ブラックパルサー〉が運用しているとはいえ、彼らの口ぶりからするとまだかなり新しい技術のようだ。それをかなり無理矢理に使ったのだから、どんな不都合が生じても決しておかしくない。自分だけがこのアジトに飛ばされ、01は未だにあの採石場ということもあり得ない話ではないのだ。
「あんにゃろー、心配ばっかりさせやがって……」
足早にアジト内を捜索する。もし01が上手くここにいたとしても、あの体調では無事である保証がない。さっさと血液浄化に入っていればいいが、その前に倒れていたりすればそのまま窒息死だ。
「くそっ、電話は無理でも無線くらい持たせるんだった」
ぶつくさ言いつつまたフロアを一つ昇った時だった。
「む」
感度を上げていた聴覚をいくつかの音が刺激した。
早鐘のように忙しなく響く心音と、苦しげな呼吸音。床に倒れているのか、何かを引きずるか、あるいは擦るような音。
「01……!」
慌てて駆け出し、音源を探す。
荒れ果てた通路を突っ切り、突き当りにある部屋の扉を乱暴に開いて飛び込んだ先に01はいた。
「おい!」
駆け寄って01を抱き起し、〈レッドストライカー〉は口をきつく結ぶ。
01の顔色は真っ青だ。意識があるのかないのか、力なく瞳は閉じられているが、口は釣り上げられた魚のようにぱくぱくと開閉し、浅く早い呼吸を繰り返して必死に酸素を取り込もうとしている。
血液の劣化は、既に危険な所まで進行している。ぐったりとした身体が、時折身悶えする他には、力もほとんど入っていない。
「ぐっ……」
痛ましい姿だった。
特殊合金で形成された頑健な骨格、それをとりまく強靭な人工筋肉。人間など比較にならないほどに高性能な人工臓器。それらを制御する精密な神経系。そう言えば聞こえはいいが、要するに殺戮兵器として、無理矢理に機械と肉を接合しているに過ぎない。
この華奢な少女は、肉体の殆どを失い機械に繋がれてようやく生命を維持しているのだ。
「待ってろよ……!」
〈レッドストライカー〉は室内を見渡し、そこが血液浄化を行うメンテナンスルームだと気付いた。浄化機器を兼ねた円形の寝台がいくつか並び、使い捨ての器具が収められた保管庫がその脇に備えられている。
もとより細身の01を改造された肉体で軽々と抱え、寝台の上に寝かせる。機器と01をカテーテルで繋ぐため、両手のグローブを脱がせて血管を探ろうとした〈レッドストライカー〉は、そのまま息を詰まらせた。
「っ!? お、おい!」
グローブを脱がされた01の右手が、〈レッドストライカー〉の首を鷲掴みにして締め上げ始めたのだ。
「こら、ちょっ離せ!」
慌てて01の手を引き離すが、01は苦しげに宙を掻き、何かを締め上げるような動作、あるいは振り払うような動作を始めた。混乱に陥りながら、〈レッドストライカー〉はさらに焦った。
こう暴れられては、処置を施すことが出来ない。
髪に染み付いた硝煙の匂いを、むせ返るような返り血の臭いが塗り潰す。
あまり心地の良くないその臭いをシャワーで洗い流しつつ、タイプα01は唇を真一文字に結ぶ。
満たされない。
01としての稼働を始めてから数週間、いくつかの戦闘を経験した。しかし、自分が得たものは何だ。闇の中で目覚めた自分を導いた声は、戦いで欠落を満たせと言ったが、それに何らかの意味があったのか。
戦いに身を投じて感じるものに、01は価値を見出せずにいた。否、そもそも自分が経験しているものが、戦闘だとも思わなかった。
無数の弾丸を掻い潜るのは、01にとって困難なことではなかった。発砲炎を見てから回避することも出来たし、そもそも鋭敏な感覚は、敵の存在を見落とさない。撃たれる状況に立つ前に接近し、排除することが当たり前になっている。これでは戦闘とは呼べない。只の作業だ。相手の首を捻じ切り、心臓を握りつぶすだけの行為が、どうしてこの不安を埋めるというのだ。ただ不快な感触と臭気が、手と鼻に残るだけではないのか。
ふと疑問に思う。
この作業を戦闘と形容することに違和感を覚えるのは何故だろう。自分は戦闘とはどういうものか知っているのか?
わからない。
01は既に、あの導きの声に不信感を抱いていた。〈ブラックパルサー〉という組織そのものにも、これといって何の感情も抱いていない。その活動に共感するところもない。空ろな自分を埋めてくれるものは何一つなかった。
いつまでこんな状態でいればいいのだ。そう考えた01の脳裏に、つい先ほどこなした作戦の光景が蘇った。
自ら破壊した敵兵の残骸と、敵に撃破された戦闘員の残骸。
血と臓腑をまき散らし、地面に転がったその姿に、01は強い嫌悪感を覚えた。理由は分からないが、とにかく不快な光景だ。初めてその臭気を嗅いだ時には、胃の内容物が口までせり上がってきたほどだ。
もしかしたら、自分もいつかああなるのではないか、という不安もないわけではなかった。
自分の身体の仕様については、組織の技術者から説明を受けている。いくら敵が脆弱でも、その装備と状況によっては、自分が破壊される可能性もあった。
欠落を埋めるどころか、余計な不安を抱えていることに気付き、01は目を鋭くした。
「ちっ、この馬鹿……」
暴れる01を寝台に押さえつけ、〈レッドストライカー〉は途方に暮れる。
酸欠状態に陥っているせいか力は常人以下なので、押さえるだけなら苦労はない。だが、流石に暴れまわる人間を押さえつけながら血管に針を突き立てるのは難しい。〈レッドストライカー〉とは言えども、腕は二本しかないのだ。
「ったく、暴れただけ酸素の無駄使いだってのに!」
動けなくなるまで待つということも考えたが、それは即座に却下する。
既にかなり危険な状態だ。すぐにでも処置しなくては危ない。血液浄化には時間が掛かる。針を注射して終わり、というものではないのだ。
「畜生、どうすりゃいいんだ……」
〈メタコマンド〉でも眠らせる特殊な麻酔も存在はしているはずだが、この場に都合よく用意されてはいない。ほんの十秒ほどじっとしていてくれれば、それで済むのだが。
なんということだ、と内心で呻くが、それで01が大人しくしてくれるはずもなかった。
転機が訪れたのは、その翌日だった。
実戦評価試験を終え、十分な戦力として判断されたα01は正式に対〈レッドストライカー〉戦に投入されることが決定した。後発の要員は、01の仕様を元に今後製造されてくるらしいとのことだった。
01は戦闘から一時離れ、〈レッドストライカー〉の戦力分析に参加することを命じられた。大勢の技術者や〈メタコマンド〉に紛れ、〈レッドストライカー〉の記録映像を視聴した瞬間が、欠落が埋まり始める時だった。




