祈りは、水晶に映らない 〜聖地の下働き、いちばん小さな祈りを拾う〜
◆一 空の娘
聖都の朝は、鐘より先にパン窯のにおいで明ける。
テッサはまだ薄暗い厨房で竈に火を入れながら、今日も客のことを考えていた。三番の部屋の商人は昨夜ずっと寝つけずにいた。だから朝は薄い茶ではなく濃いのがいい。五番の老夫婦は二人とも歯が弱いから、パンの耳を落として蜂蜜を多めに。誰にも頼まれていないのに、テッサの手はもう蜂蜜の壺へ伸びている。
「テッサ、また先回りしてるね」
女将のマルタが呆れ顔で笑った。盆の上では、テッサが用意しておいた濃い茶が湯気を立てている。
「三番の旦那が頼む前から、なんであんたにわかるのさ」
「……なんとなく、です」
本当に、なんとなくなのだ。相手が口を開く前から、その人の欲しいものが胸のあたりにふっと届く。言葉になる前の、まだ形にもならない小さな望みが、なぜか自分のところへ流れ込んでくる。
気が利くと褒められるたび、テッサは少しだけ居心地が悪くなった。自分には何もない。人の望みを拾って渡しているだけで、自分の内側には何ひとつ残らない。物心つく前、この渡り鳥亭・聖都店の軒先に籠ごと置かれていた捨て子。軒の看板に彫られた、翼を広げた渡り鳥の意匠だけが、テッサの知っている生まれた家だった。
食堂では、巡礼帰りの親子が窓の外の大聖堂を見上げていた。幼い娘のほうが、高い鐘楼を指さして訊く。あの鐘はいつ鳴るの、と。
「あれはね」テッサは皿を置きながら答えた。「まことの祈りが神さまに届いたとき、誰も撞かないのに、ひとりでに鳴るんですって」
「ほんとう?」
「言い伝えではね。——もう百年、鳴っていないけれど」
母親が笑い、娘はつまらなそうに口を尖らせた。テッサも笑った。聖都の人間でこの言い伝えを本気にしている者は、もういない。
その朝の聖都は、年に一度の熱に浮かされていた。選定の儀。各家から選ばれた聖女候補たちが大聖堂に集い、聖教会の測定水晶に手をかざす。水晶がまばゆく光るほど、その身に宿した魔力が大きい証となる。いちばん強く輝かせた娘が、その年の聖女に選ばれるのだ。
昼過ぎ、店の前に伯爵家の紋章を掲げた馬車が止まった。
「ロザリンデお嬢さまだよ。光魔法の申し子、今年の聖女はもう決まりだってさ」マルタが声をひそめた。「高級宿がどこも埋まって、うちにお鉢が回ってきたらしいけど……ああいうお屋敷の方々は、うちみたいな宿を何だと思ってるか」
先に降りてきた侍女頭が、その言葉どおりの目で店の軒先を眺め回した。値踏みをして、はっきりと落胆した目だった。
「……街道宿ですか。よりにもよって、選定の前夜に」
続いて降りたロザリンデは、絹のように白い肌の美しい少女だった。背筋をまっすぐに伸ばし、非の打ちどころのない礼で女将に会釈をする。けれどテッサの目は、その美しさより先に、彼女の両手に吸い寄せられた。
この暖かい春の盛りに、ロザリンデは薄い絹の手袋を指の先まできっちりとはめていた。まるでその手を、誰にも見られたくないかのように。
そして、聞こえるはずのない声が届いた。
——こわい。
声ではない。ロザリンデの唇は優雅に微笑んだまま動いていない。けれど確かに、その胸の奥から細い糸のような呟きが伸びてきた。こわい。まちがえたくない。ああ、また手が汗ばんでいる。気づかれてしまう。
テッサは思わず一歩下がった。こんなことは初めてではない。けれどこれほどはっきり、耳もとで囁かれたように届いたのは初めてだった。
翌日、テッサはロザリンデ付きの下働きとして大聖堂へ同行することになった。伯爵家の侍女が足りず、宿から一人借りたいというだけの話。荷物を運び、控えの間で待つだけの役目のはずだった。
大聖堂は聖都でいちばん高い丘の上にある。色硝子の巨大な窓が朝の光を受けて燃え、広間の中央には乳白色の測定水晶が据えられていた。明日の本番を前に、候補たちが順に予備の測定を受けている。水晶が金色にふくらむたび、付き添いの家人たちがどよめいた。
テッサは荷を抱えて壁ぎわを歩いていた。前を行く誰かがこぼした聖水で、石畳が濡れていた。気づくのが一瞬遅れた。足が滑り、荷が傾き、とっさに伸ばした手が——測定水晶に触れた。
広間が、静まりかえった。
水晶は、光らなかった。ふくらみも、ゆらぎもしない。人が触れていることにすら気づかぬように、乳白色のまま沈黙していた。
最初に笑ったのは、銀の髪の候補だった。侯爵家の娘で、ロザリンデに次ぐ本命と噂される少女。
「ごらんなさいな。水晶が黙りこくっているわ」歌うような声だった。「光るどころか、魔力のひとかけらも無いのね。空の娘だわ」
空の娘。笑いがさざ波のように広間へ広がった。付き添いの貴婦人たちが扇の陰で囁き合う。あれはどこの娘、渡り鳥亭の下働きですって、まあ、宿屋の。
「この、粗忽者が……!」
侍女頭が駆け寄ってきて、テッサの腕を掴んだ。爪が食い込むほどの力だった。
「伯爵家の連れが神器に触れたとあっては、お嬢さまの恥。ただで済むと思うな」
ごめんなさい、と言おうとした声は喉の奥でつかえて出てこなかった。頬が熱い。うつむいた視界の端で、ロザリンデが手袋の指を握りしめて立ちすくんでいるのが見えた。
そのとき、ひとりだけ顔色を変えた者がいた。
測定水晶の管理者、ベネディクト司祭。白髪の老司祭は着飾った候補たちには目もくれず、沈黙した水晶とうつむく下働きの娘とを、食い入るように見比べていた。
そして誰にも聞こえないほど小さな声で、呟いた。
「……まさか」
◆二 祈りが聞こえる
宿への帰り道は、遠かった。
噂は、テッサの足より早く丘を下っていた。市場を抜けるとき、井戸端の女たちの声が背中に刺さった。あれだよ、あの子だよ。水晶が黙りこくったんだとさ。まあ、触れたのに? 空っぽってことがあるのかねえ。露地では子どもたちが、もう新しい囃し歌を作っていた。からのむすめ、からのむすめ、いのっても、かみさまきこえない——。
テッサはうつむいて歩いた。聞きたくないのに、通りすがる人の胸の内まで届いてしまう。気の毒に。恥さらしだ。渡り鳥亭も落ち目だね。口に出される言葉より、出されない言葉のほうが、いつだって鋭いのだ。
軒先の渡り鳥の看板が見えたとき、テッサは初めて、この翼の下に帰るのが怖いと思った。
その夕方、渡り鳥亭の帳場で、侍女頭の声が響いていた。
「あの娘を辞めさせなさい。伯爵家に恥をかかせた娘を置いておく宿に、明日からどんな客が来ると思って?」
「テッサはうちの子も同然です。手前どもの落ち度なら、女将のあたしが詫びます」
「宿ごと詫びることになるわよ。聖都の商いが、教会と貴族のご機嫌ひとつで回っていることくらい、女将なら知っているでしょう」
廊下で盆を抱えたまま、テッサは動けなかった。聞くつもりはなかった。けれど侍女頭の胸の内から、声より先に本音が届いてしまう。潰せる、この程度の宿なら。
夜、テッサは女将の部屋の戸を叩いた。
「あの……選定の儀が終わったら、わたし、お暇をいただきます」
「馬鹿をお言い」マルタは繕い物から顔も上げなかった。「あんたを拾った日から、あんたはうちの子だよ。看板より子を取るのが親ってもんだ」
「でも、宿が」
「おだまり」
それきりだった。テッサは自分の屋根裏に戻り、膝を抱えた。ここにいていい理由が、ずっと欲しかった。なのに今は、自分がいることが宿の重荷になっている。空っぽの上に、厄介の種。目の奥が熱くなった。
戸を叩く音がしたのは、そのときだった。
階下に、ベネディクト司祭が来ていた。店の隅の卓で、老司祭はテッサと向かい合い、まず詫びた。昼間、皆の前で庇ってやれなかったことを。それから皺の刻まれた手を組み、ゆっくりと水晶の仕組みを語りはじめた。
「あの水晶はな、その者が己の内に溜めた魔力を映す道具だ。器に水を注ぐように、人は生まれてから少しずつ魔力を蓄えていく。水晶はその水嵩を測る。光が強いほど、深く溜まっておるということだ」
「わたしには、その水がないんですね」
「いいや」
司祭は静かに首を振った。皺の奥の目が、まっすぐにテッサを見た。
「お前さんは、溜まっていないのではない。溜める先から、こぼしているのだ。——聞いたそばから、人の祈りへ明け渡している」
テッサは息を止めた。
「聞こえるだろう、テッサ。人が口に出さぬ願いが。胸の奥でだけ唱えられる、いちばん小さな祈りが」
なんとなく分かる、で済ませてきたもの。気が利くと笑ってごまかしてきたもの。それに初めて、名前がついた。
「祈り聞き、という。人の胸のうちの祈りを聞き取る耳だ。百年、いや、それ以上教会でも聞かぬ古い力よ。魔力を溜める器と祈りを聞く耳とは、同じ場所にある。お前さんの器に魔力が溜まらんのは、聞いたそばから他人の祈りのために明け渡してしまうからだ」
司祭は卓の木目を指でなぞり、遠くを見るように続けた。
「言い伝えにな、初代の聖女さまは、民の祈りを神に届けた方だとある。派手な光を放った方ではない。いちばん小さな祈りを拾うて、神へ届けた方だと。……わしは長いこと、それをただの美しいたとえ話だと思うておった。だが昼間、あの沈黙した水晶を見て——」
「聞こえても」
テッサは、司祭の言葉を遮ってしまった。声が思ったよりずっと震えていた。
「聞こえるだけで、何もしてあげられません。小さいころ、この店で働く子たちが夜中に泣くのが聞こえました。声じゃなくて、胸のほうが。お母さん、お母さんって。でもわたしは孤児で、その子たちに母親を返してあげることなんて、できなくて」
膝の上で両手を握りしめる。
「手を伸ばしても届かないものばかり聞こえるんです。それって、いちばん、つらいんです」
司祭はしばらく黙っていた。薬草茶の湯気が二人のあいだで立ちのぼっては消えた。それから老人は、とても静かに言った。
「聞くことが、すでに半分だ」
テッサは顔を上げた。
「人はな、誰かに祈りを聞かれた——それだけで少し救われる生き物なのだよ。返せなくてもよい。叶えられなくてもよい。この胸のうちの願いを、たった一人でも知っていてくれる。それがどれほどの慰めか。お前さんはその慰めを、名前も知らぬまま、ずっと人に配って歩いてきたのだ」
その夜、テッサは眠れなかった。
宿には選定の候補が幾人も泊まっている。目を閉じると壁を越えて、細い祈りがいくつも届いた。母に認められたい。妹より上でありたい。早く終わってほしい。着飾って胸を張っていた娘たちが、闇の中ではこんなにも心細い祈りを抱いている。
その中に、あの糸のような呟きがあった。こわい。まちがえたくない。手が、汗で。お母さま。——テッサは寝台の上で膝を抱えた。あんなに張りつめた祈りを、あの薄い絹の内側にずっと隠して。
気がつくと、テッサは温めた山羊の乳を盆に載せて、階段を下りていた。
頼まれてもいない。むしろ近づくなと言われている。それでも足が勝手に動いた。ロザリンデの部屋の戸を叩くと、長い間があって、細く戸が開いた。寝支度の少女は、それでも手袋をはめたままだった。
「……頼んでいないわ」
「はい。……眠れない夜に、母がよくこうしてくれたと、お客さまから聞いたことがあって。わたしには母がいないので、確かめられないんですけど」
ロザリンデは戸口で少し黙り、それから盆の上の湯気を見た。
「昼間の、粗忽な子ね。あなた、わたくしが怖くないの。うちの者が、あなたの宿を潰すと息巻いているのに」
「怖いです。でも、眠れないのは、もっとつらいので」
白い手袋の指が、ゆっくりと椀を受け取った。戸が閉まる間際、ありがとう、と言ったかどうか、声は小さすぎて分からなかった。ただ、戸の向こうの糸のような呟きが、ほんの少しだけ、ゆるんだ気がした。
翌朝、宿の前の通りで、テッサはひとりの老人と行き合った。
田舎の身なりの巡礼者だった。腰は曲がり、節くれだった杖にすがって立っている。大聖堂へ続く坂の下で、衛兵に追い返されたところらしかった。本日は選定の儀ゆえ、候補と関係者のほかは入れぬ、明後日また来い——遠ざかる衛兵の背に、老人は何度も頭を下げていた。
テッサは湯気の立つ汁椀を持って駆け寄った。放っておけなかった。老人はトマと名乗った。胸には小さな布の包みを、両手で大事そうに抱えている。
「明後日じゃあ、いけないんですか」
「今日だけは、どうしても祭壇の前へ」
濁った目の奥だけが、まっすぐだった。テッサの耳に、その胸の祈りがそっと届く。それはこの老人自身のための祈りではなかった。誰か別の人のための、命を絞るような願いだった。テッサは、その古びた包みから目を離せなくなった。
◆三 選定の儀
選定の儀は、正午に始まった。
色硝子を透かした光が、大聖堂の石の床に色の池をつくっていた。祭壇の前に測定水晶。左右に純白の候補たち。見物席は聖都じゅうの人で埋まり、祭服の儀典長が錫杖を鳴らして開式を告げた。
テッサは末席の、下働きの立つ壁ぎわにいた。少し離れた人混みに、あのやせた背中があった。トマ老だ。人の流れに紛れて入り込んだらしい。包みを胸に抱いたまま、まばたきもせずに祭壇を見つめている。
候補が順に水晶へ手をかざしていく。金色の光がふくらむたび、歓声が上がる。銀の髪の候補の水晶はことにまばゆく、侯爵家の一団が誇らしげに胸を反らした。
やがて、ロザリンデの番が来た。
彼女は手袋を外さぬまま、絹の上から水晶に手をかざした。
光は、まばゆかった。
色硝子の光さえ霞むほど、水晶は白金色に燃え上がった。台座が震え、見物人がいっせいに息をのむ。手袋越しでこれなのだ。今年の聖女は決まった。誰の顔にもそう書いてあった。
けれどテッサの耳には、そのまばゆい光の裏側が聞こえていた。よかった。これでお母さまに。ああ、でも、これでほんとうに——祈りは途中で、ふつりと途切れた。
歓声の下で、広間じゅうの祈りが、いちどきにテッサへ流れ込んできた。
純白の列から。うちの娘はだめだった、ああ、帰ったら何と言えば。見物席から。孫の病が治りますように。店の借金が、どうか。あの人が振り向いてくれたら。——きらびやかな儀式の下は、小さな祈りで満ちていた。誰にも聞かれず、水晶にも映らず、ただ湧いては消えていく何百の祈り。神さまはこれを、ぜんぶ聞いているのだろうか。それとも、いちばん大きな光だけを見ているのだろうか。
そのときだった。
人混みの中で、トマ老が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
鈍い音。胸の包みが石畳を転がる。近くで小さな悲鳴が上がった。だが祭壇の奉納は佳境で、聖歌は止まらない。儀典長が眉をひそめ、錫杖の先で衛兵を招いた。
「巡礼者か。……つまみ出せ。神事の最中だ」
衛兵が二人、倒れた老人の両脇に手を入れた。引きずられる老人の指が、床の包みへ向かって伸びる。届かない。
——妻の、代わりに。この包みを、どうか、祭壇に。
テッサの胸に、祈りが飛び込んできた。声にならない、残った命のすべてを絞るような祈りだった。
足が動きかけて、止まった。
ここで走れば、どうなるかは分かっていた。渡り鳥亭の下働きが、二度目の狼藉。侍女頭の言葉がよみがえる。宿ごと潰せる。マルタの店に泥を塗る。拾われてから今日までの、たったひとつの居場所を失う。ここにいていい理由が欲しくて、ずっと息をひそめて生きてきたのに。
けれど。
聞くことが、すでに半分だ——司祭の声が胸の底で響いた。聞いてしまった。ならば、残りの半分は。
テッサは、走った。
人垣を縫い、聖歌のただ中を、まっすぐ祭壇へ。ざわめきが広がる。石畳の包みを両手で拾い上げたその腕を、鋼のような手が掴んだ。儀典長だった。
「昨日の空の娘か」低い声が広間に響いた。「魔力なき者が神前に立つことすら許されぬと知れ。神事を汚すな」
衆目が、いっせいにテッサへ突き刺さった。昨日と同じ嘲りの目。銀の髪の候補が扇の陰で笑う。ほら、やっぱり空の娘だわ。テッサの膝が震えた。声が出ない。腕が万力のように痛んだ。
そのとき。
「……お待ちください」
震える声がした。祭壇の前、白金色の余韻の中で、ロザリンデが手袋の指を固く組み合わせて立っていた。
「その方は、わたくしの宿の……いいえ」少女は一度言い直した。「その方の、なさろうとすることを、見とうございます」
儀典長が眉を寄せる。その一瞬の隙に、静かな声が割って入った。
「通しなさい」
ベネディクト司祭だった。老いた司祭は水晶の管理者の錫杖を床に一度突き、儀典長をまっすぐに見た。
「祈りを運ぶ者を止める作法は、聖典のどこにも書かれておらん」
腕を掴む手が、緩んだ。
テッサは倒れたままのトマ老のそばに膝をつき、布の包みをそっと開いた。中から出てきたのは、古びた木の札。聖都のすべての聖跡を巡り終えた者だけが授かる巡礼札だった。ただし真新しくはない。何十年も誰かの手のひらで握られ、撫でられ続けて、角の丸くなった札。文字は指の脂で半ば消えかけていた。
トマ老の唇が、かすかに動いた。
「妻が……ずっと、来たがっておった。若いころからの願いでな。病で、叶わずに逝った。だから、わしの足で、あれの分まで……」
テッサは札を両手で包み、立ち上がった。
もう誰も止めなかった。広間の何百の目が見つめる中を、下働きの娘はゆっくりと祭壇へ進み、古い巡礼札を聖なる卓にそっと置いた。そして深く、頭を垂れた。
声には出さなかった。老人の胸から聞き取った祈りを、そのまま自分の胸を通して、上へ手向けた。この人の奥さんの祈りが、どうか届きますように。この小さな札に何十年も込められてきた願いが、どうか。
——鐘が、鳴った。
誰も撞いていない大聖堂の鐘が、高い鐘楼でひとりでに、ひとつ鳴った。ごおん、という深い音が色硝子の光の中を波紋のように渡っていく。百年、誰も聞いたことのない音だった。
聖歌が止まった。祭壇の司祭たちが鐘楼を仰いだ。見物席の老婆がひざまずき、隣の男が続き、それは波のように広間じゅうへ伝わった。銀の髪の候補の扇が、音もなく下りた。笑みの消えた白い顔が、祭壇の前の小さな下働きを見つめていた。壁ぎわでは侍女頭が、身を縮めるように柱の陰へ下がった。
まことの祈りが神に届いたとき、鐘は撞かれずして鳴る。
子どもだましと笑われてきた言い伝えの中に、大聖堂は静まりかえっていた。その静けさを、ベネディクト司祭のよく通る声が破った。
「水晶は魔力を測る。だが聖女の器を測る道具を、我らはまだ持っておらん」
◆四 いちばん小さな祈り
その年の聖女には、ロザリンデが選ばれた。
制度は制度だった。聖女は名を連ねた候補の中から選ばれる。テッサは候補ですらない。それでいい、とテッサは思っていた。トマ老は介抱を受けて息を吹き返し、妻の巡礼札は祭壇に納められた。あの鐘はいっときの奇跡として、いつか忘れられていくのだろう。
けれど数日後、ベネディクト司祭がふたたび渡り鳥亭を訪れた。
「祈り聞きの修道女見習い、という席を教会に設けることにした」
皺の奥の目が、少年のように輝いていた。
「百年以上、空いておった席だ。いや——初代聖女さまの時代から、ずっと空いておったのかもしれん。わしらは水晶ばかりを磨いて、耳を持つ者をそばに置くことを忘れておった。来てくれるか」
テッサはうまく返事ができなかった。ここにいていい理由が欲しい。物心ついてからずっとそう願ってきた。その願いがこんな形で差し出されるとは、思ってもみなかった。
帳場の陰で洟をすする音がした。マルタだった。女将は袖で乱暴に目もとを拭うと、テッサの荷造りを手伝いながら、憎まれ口を叩いた。
「まったく。うちの看板娘が、神さまに取られちまった」
そう言って、ぎゅっと抱きしめた。その腕は少し震えていた。テッサは、この人の胸の祈りをわざわざ聞かなかった。聞かなくても分かるものは、ちゃんとある。
伯爵家からは、詫びの品と口上が届いたという。侍女頭は二度と店に現れなかった。マルタは詫びの品の上等な茶葉を、さっそく三番の商人に濃く淹れて出した。
トマ老は、国もとへ発つ前に宿へ寄ってくれた。すっかり血色の戻った顔で、深々と、いつまでも頭を下げた。
「ばあさんの札が、祭壇にある。……あれからな、不思議と夢に出てこんのだ。四十年、毎晩のように出てきたのに」老人は目を細めた。「届いたんだな、と思うことにしたよ。お嬢さん。あんたは、わしの祈りを拾ってくれた。あの日、わしの体より先に、祈りのほうを助けてくれたろう。……ああいうのを、聖女さまと言うんじゃないのかね」
「わたしはただの、下働きです」
「そうかい」トマ老は笑った。「なら神さまは、いい下働きをお持ちだ」
道すがら、大聖堂の前で候補たちの一行とすれ違った。銀の髪の候補がいた。目が合うと、彼女は扇を上げかけ、やめた。それから黙って半歩、道の脇へ寄り、わずかに頭を下げた。すれ違いざま、その胸から細い声が届いた。ごめんなさい。ほんとうは、うらやましかった。——テッサは何も言わず、同じだけ頭を下げて通り過ぎた。聞いたことは、誰にも言わない。それがこの耳の、たったひとつの作法だ。
大聖堂へ移る前の日、テッサはロザリンデを訪ねた。
新しい聖女は、聖堂に近い館の窓辺にひとりで座っていた。誰もが羨む地位を手にした横顔は、水晶に手をかざしたあの日と少しも変わらず、細く張りつめていた。
「あなた、あの空の娘ね」
棘のある声ではなかった。ただ、ひどく疲れていた。
「妙な子。魔力もないのに、あんなに堂々と祭壇へ行って。……わたくし、あのとき初めて、脚本にないことを口にしたの。お待ちください、って。心臓が止まるかと思った」
「あのお言葉が、なかったら」テッサは首を振った。「わたし、あそこで立てませんでした」
ロザリンデは小さく笑い、それから窓の外へ目を逃がした。テッサはしばらく迷った。人の胸の祈りを本人に告げるのは、覗いてはいけないものを覗く罪のような気もした。けれど、聞くことが半分なら、残りの半分は届けることだ。聞いてしまった者の、せめてもの務めだ。
「ロザリンデさま。ひとつだけ、お伝えしてもいいですか」
テッサはまっすぐに彼女を見た。
「あなたの祈り、聖女になりたい、じゃなかったんです。——聖女になりたいんじゃない。お母さまに、一度でいいから『よくやったね』と言われたい。そう聞こえました」
ロザリンデの肩が、びくりと震えた。
白い顔から、こらえていたものがあふれ出した。彼女は両手で顔を覆おうとして、その手を途中で止めた。それからゆっくりと、指を一本ずつ引くようにして、絹の手袋を外した。
現れたのは汗ばんだ、細い、ただの少女の手だった。
「……ずっと、この手が恥ずかしかったの。聖女ともあろう者が、緊張のたびに手汗なんて。母にみっともないと言われて、誰にも見せられなくて」
「わたしは、綺麗な手だと思います」
テッサはそっと右手を差し出した。ロザリンデは素手のまま、おずおずとその手を取った。ふたりの手のひらが、はじめてじかに触れ合った。冷たくて、少し汗ばんでいて、確かに温かかった。
「よくやったね、って」ロザリンデは涙の中で小さく笑った。「今あなたが、言ってくれた気がした。……初めてよ。この手のまま誰かと手をつないだの」
その日の夕暮れ、テッサはひとり、大聖堂の高い窓辺に立っていた。
沈む日が色硝子を透かして、床に色とりどりの光を落とす。遠く、聖都の家々から夕餉の煙が立ちのぼる。あの一つひとつの屋根の下に、口に出されない祈りがある。母を恋しがる子。認められたい娘。妻の分まで歩いた老巡礼者。誰にも聞かれないまま闇へ消えていく、いちばん小さな祈りたちが。
テッサはそっと目を閉じた。
もう自分を空っぽだとは思わなかった。器が空なのではない。溜めず、こぼさず、聞いたそのまま上へ届けるための耳。自分はそういう形に生まれついた。ずっと欠けていると思っていた場所に、ほんとうは、いちばん大切なものが置かれていたのだ。
いちばん小さな祈りを拾う耳が、いちばん神さまの近くにいる。
どこか高いところで、また鐘がひとつ、鳴った気がした。誰かの祈りが、いま届いたのかもしれなかった。




