泥と嫉妬と鉄の意志
一旦、俺は家に帰ることにした。
今の会社を辞めないといけないからだ。
まあ――退職代行を使う予定だけど。
「……あれ高いんだよな。金無いのに」
皮肉な笑いを漏らしつつ、濡れた夜の道を歩く。
リナの部屋を出た今も、まだ胸の奥で熱が脈打っていた。
心臓じゃない。魔石だ。
ドクン。ドクン。
人間のリズムじゃない、何かの鼓動。
「……くそ。普通でいたいだけなのに」
普通じゃない自分を、普通だと誤魔化すにはもう遅い。
その時だった。
「オトォォォ……こォォ……」
背中に、湿った声が絡みついた。
振り返る。
雨の中、男が立っていた。
脂っぽい体型。湿った土と甘ったるい香水が混ざった異臭。
ギラついた目。血走って、焦点がどこにも合っていない。
「リナ……どこだ……?」
……誰だコイツ。
「悪い。俺は帰るとこだ。営業なら別の日にしてくれ」
振り返り歩き出す――その瞬間、
「みたぁ……ぜんぶ、みたァ……キス、してたよなァ……!?あいつは……ボクの天使なのに……なんでオマエなんだよぉッ!!」
男の叫びが弾けた。
雨粒が破裂したみたいに散る。
空気が、変わった。
地面が――溶けた。
いや、沼になった。
足が沈む。
冷たく、ヌメっとした泥が足首に絡みついた。
「なっ……!」
男の口角が裂けるように上がる。狂気の笑顔。
「リナは天使……ボクは毎日見てた……夜も……ずっと……守ってたんだ……」
守ってた、じゃねぇ。盗撮だ。
背筋に冷たいものが這う。
「てめぇ……変態野郎が……!」
「リナはボクのものだぁぁ!!」
泥が蠢く。
腕の形をとり、無数に伸び、蛇のように俺に絡む。
ドガッ!
泥の拳が腹を殴り、膝が折れる。
肺の空気が一気に抜けた。
「ぐっ……!」
胸の魔石が暴れる。
だが、魔法なんて使えない。
「沈め……苦しめ……死にかけたリナを慰めるのは……ボクなんだ……」
終わってる。頭も価値観も全部腐ってる。
泥が首に巻き付き、締め付ける。
息が……できない。
(やべぇ……!)
視界が歪む。
雨と泥で顔がぐしゃぐしゃになった。
男はうっとりとした目で俺を見下ろす。
「愛って……こういうことだろ……?ねぇ……」
どこがだ、ボケ。
頭の奥で何かが切れた。
「……それで守ってるつもりかよ……?」
「ボクだけが……リナを理解してるんだアアア!!」
狂気の声が夜に響く。
俺は泥の中でもがき、腕を動かす。
指先が、固い何かに触れた。
鉄の……棒。
多分、工事用のやつだ。偶然か?運命か?
どっちでもいい。
(俺には……魔法はいらねぇ)
胸が熱くなり、泥の束縛が軋む。
ギリギリと筋肉が捻じ切れそうになる感覚。
腕が、抜けた。
鉄棒を握る。
雨の冷たさが手のひらを痺れさせる。
顔を上げる。視界は泥だらけ。
でも、敵だけははっきり見える。
「……俺の邪魔すんな」
声が低く濁る。
男がピクリと震えた。
「なにそれ……棒?ハッ……魔法も使えないのに……笑わせるなよ……!」
「十分だ。魔法なくても――」
俺は泥を蹴り、立ち上がる。
「俺は、俺の手で守る」
雷鳴が空を裂いた。
鉄棒に稲光が反射し、男の顔が青白く照らされる。
次の瞬間。
泥を切り裂いて、一歩踏み出した。
この世界に魔法がなくても。
心臓が魔石でも。
誰に何と言われようが。
俺は――折れない。
鉄棒を握りしめ、牙を剥いた。
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