第九話・訪問客3
陽太の保育園への入園準備でバタバタしていた時だったから、夫を亡くしてから丁度半年になる頃だ。先にメッセージアプリ経由でこちらの都合を確認して貰っていたし、優香はその来客を心からの笑顔で出迎えた。
「お久しぶりー。わぁ、みんな大きくなったねー」
チャイムが鳴ると同時に慌てて飛び出した玄関先には、きょろきょろと周囲の景色を物珍しそうに眺めている女性が二人立っていた。どちらも大きなマザーズバッグを肩から掛け、手には手土産らしき紙袋を下げていて、お腹には抱っこ紐を使って陽太と同じ生後半年ほどの乳児を抱きかかえている。
「ほんと、久しぶり。優香ちゃんとは一カ月健診以来だよね」
「陽太君はお昼寝中? ごめんね、タイミング悪かったかも……」
「ううん、陽太はもうすぐ起きる時間だから平気。マリちゃんもナオ君も、すごく顔がしっかりしてて、ビックリ」
「どうぞ、上がって」と優香は二組の親子を家の中へと招いた。マリの母親の伊崎愛理が先立って入ると、その後ろにナオの母親の長瀬胡桃が遠慮がちに付いていく。二組が家に遊びに来るのはこの日が初めてだったから、優香は少し照れたような笑みを浮かべながらも迎え入れる。
二人とは出産でお世話になった産院で知り合った。陽太と一日違いで生まれた二人とは産後の四日間を同じ病院の新生児室でベッドを並べていた仲だ。優香達の病室は完全な個室だったけれど、産後の夕食は体調が良ければ部屋ではなく食堂で病院スタッフや他の患者と一緒に食べることもでき、沐浴指導などで一緒になったり、授乳室で顔を合わせることも多く、二組が退院していく頃には連絡先を交換するくらいに仲良くなっていた。
年齢も出身地も、職歴も全く違う三人だったが、初めての子供が同じ時期に同じ産院で生まれたという一点で繋がっている。夜中に薄暗い廊下で、寝不足な顔で赤ちゃんを抱っこしてすれ違った仲。自分自身ではなく息子が繋いでくれた縁は退院した後もメッセージアプリを通して近況を送ったりして続いていた。
退院後、二人と再会したのは産後一カ月が過ぎた時の健診でだ。でも、あの時はお互いに付き添いで母親や夫を連れていたし、次々に診察室へ呼ばれてしまうからそう話し込めるような時間は無かった。だから外出許可が下りた後、どこかに集まってゆっくりお喋りしようと約束して別れた。
――でも、その健診の翌日に大輝が……
夫が亡くなったことは、二人にはすぐに伝えることができなかった。しばらく放心状態が続いていた優香には、そんな余裕はなかった。何とか生き続けて、陽太のお世話をするのがやっとで、あの頃の自分がどう過ごしていたのかを今はもう思い出すことが出来ないくらいだ。今日こうして笑顔で二組のことを迎え入れられるようになったのが不思議だ。あの落ち込んだ日々が延々に続くものだと、当時は疑っていなかったのに。
陽太が生後三か月を過ぎた頃に、「児童館に乳児専用の時間帯があるらしいから、みんなで行ってみない?」という愛理から誘いのメッセージを受け取った時に、ようやく自分の家族に襲った不幸を伝えることができた。その時はまだ心の整理が不完全だったから、迷惑を掛けてしまうのが心配で、会うことはしなかった。長めの里帰りができ、育児に協力してくれる旦那様がいる二人。彼女らとの境遇の差を目の当たりにはしたくなかった。でも、それでも変わらずメッセージのやり取りは続けていた。
「これって首が座ったって言っていいのかな?」「うちも今そんな感じだよ」「今の月齢だとこんなものなんじゃない?」まだ微妙に安定しない子供の首を心配して、互いに動画を送って確認し合った。初産同士、悩むポイントはほとんど同じだったから、二人の存在はとても心強かった。
ただ、夫を亡くしたばかりの優香とはやはり連絡し辛いらしく、二人だけで連絡を取り合って頻繁に会っているのはグループメッセージの雰囲気で何となく察してはいた。それは優香が逆の立場だったとしても仕方ないことだと分かっている。
「あれ、陽太君も保育園に入れるの?」
ソファーの上に置きっぱなしになっていた入園グッズに気付いた愛理が、トーンを落とした声で聞いてくる。和室に敷いた子供布団では陽太が少し寝汗をかきながらも静かに眠っていた。
数日前に縫い終わったばかりの絵本バッグや上靴入れをソファーから退けて、優香はママ友達に席を勧める。二人は慣れた手付きで抱っこ紐を外して子供を縦抱きしたり膝の上に座らせてあやし始めた。
「うん、マリちゃんも六カ月から入れるんだよね?」
「あー、うちはまだ保活中……近くの園には乳児の空きが無いらしくて」
「え、愛理さん、育休あまりないって言ってなかった?」
ナオに歯固めの玩具を手渡しながら、胡桃が驚き顔で聞き返す。
「保育園が見つからなければ延長もできるんだけど、復帰後のことを考えるとね……」
「確かに、休みが長いと戻りにくそうだよね。そっか、うちはどうしようかなぁ。妊娠が分かってすぐ辞めちゃったし、しばらくは専業主婦のままかな」
母親達の話し声に目を覚ましたのか、和室の方から陽太が小さくグズり始める声が聞こえてくる。優香は慌てて駆け寄ると、汗でじっとりと湿った小さな額をガーゼで拭った。
「ほら、ナオ。陽太君、起きたって。久しぶりーって」
「わ、陽太君、めちゃくちゃ背伸びてない?」
子供を抱っこして駆け寄って来た二組に、陽太は不思議そうに目をぱちくりさせていた。子供布団の上に三人並んで座らせると、優香達はスマホで我が子の写真を撮り始める。まだ安定感のないお座りはそう長くは続かず、思い思いにハイハイしたり転がり出す子供を追いかけながら、優香は声を出して笑う。こんなに笑ったのは、いつぶりになるんだろう。