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第三十八話・迷い4

 氷を入れたグラスに麦茶を注ぐと、優香もそれを持ったままソファーの隅っこに座った。亡き夫の身体に合わせて大きめのサイズを選んだから、大人が二人座ってもまだソファーには余裕がある。消音にしたテレビ画面ではちょうど夜のニュース番組が始まったところ。全国各地で起こった自分とは関係のない事件の映像を何とはなしに並んで眺めていた。

 週間天気予報の映像が流れ始めた時、宏樹が思い出したように優香を振り向いて言う。


「そうだ。来週後半に出張が入ることになりそうなんだった。吉沢君も同伴させようと思ってるから、折角だしオフィスは休業にして優香ちゃんは休みを取ってくれていいよ」

「そうなんだ。来週のいつ頃?」

「木金、だったかなー」


 スマホのスケジュールを開いて日付を確認しながら、宏樹が「場合によっては土曜にもズレ込むかもしれないなぁ」と抱えている案件を思い浮かべて眉を寄せている。少し時間が掛かりそうな仕事なのらしい。


「そっか……来週の木曜日から、宏樹君いないんだね」

「うん、だから優香ちゃんもたまにはゆっくり過ごして」


 陽太は保育園に預けて一人時間を楽しんでと宏樹は言ったつもりだったが、優香は手に持っているグラスへじっと視線を落として黙り込んだ。

 確かに、吉沢が来たおかげで今は事務仕事に滞りはない。会計士の宏樹が不在中にオフィスを開けるほど急を要する作業は思いつかず、優香が休みを取れるチャンスではあった。

 宏樹はきっと優香がいつも陽太の理由以外では休みを取ろうとしないから、あまり頑張り過ぎないでというつもりで休暇を勧めてくれたはずだ。けれど、優香はもう一度、溜め息混じりに呟いた。


「そっか……」


 本来は喜ぶべきところなのに、なぜか寂しいという感情がこみ上げてきて、胸が締め付けられそうになる。宏樹は休暇の提案を喜んで貰えなかったことに意外だと首を傾げている。


「優香、ちゃん?」


 麦茶が半分入ったグラスを見ているようで、どこか別のところを見ている優香の瞳を、宏樹が上半身を伸ばして覗き込んできた。明るい反応が返ってくると思っていたのに、逆に塞ぎ込んでしまった優香のことを心配そうに見てくる。


「どうした?」


 腕を伸ばしてソファーテーブルの上にノンアルビールの缶を置いてから、優香の真横に座り直す。互いの腕同士が触れ合いそうな距離になっても、優香は俯いたままじっと動かない。宏樹の言葉にかろうじて少しだけ首を横に振って返すだけ。


「……もしかして、寂しいって少しくらいは思ってくれた?」


 「なわけないか」と自虐的に台詞を付け足しながら、宏樹はおどけた風に自分の後頭部を手で掻いた。きっとその後は普段通りに「ふふふ」と小さく笑って何ともない顔をされると思っていたのだろう。優香が黙って頷き返したことに、宏樹が目をぱちくりさせて驚く。


「え、本当に……?」


 再び優香がこくんと頷き返すと、宏樹は左手で自分の目を覆い隠して、ソファーの背凭れにどかっと身体を倒した。しばらくその体勢を保ちながら、ふぅっと大きく息を吐いて気持ちを落ち着ける素振りを見せる。


「何かごめん。嬉し過ぎてちょっと、言葉にならないっていうか」


 優香に対して言ったのか、独り言なのかも区別がつかないような、漏れ出る本音。思いがけない優香の反応に、普段見せていた余裕さを失っている。

 嫌われていないことは分かっていただろうけれど、優香が宏樹のことを受け入れようとしないことも分かっていたはずだ。だから、初めて優香が伝えてきた本心に、宏樹はどう反応して良いか分からず、ただ隣で大きく深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けようとしている。


「うわー、マジかぁ……」


 ただ優香が寂しいと感じてくれただけで、宏樹はまるで十代の学生のように舞い上がっている。永遠に一方通行だと思っていた想いが、報われた瞬間。それはまだまだ一方的で大きく差があるのかもしれないけれど、自分へと向けられたものが少しでも存在することに心が浮かれる。


「帰ってきたら、お土産持って会いに来てもいい?」


 宏樹の問いに、優香は黙って頷き返す。


「いや、やっぱり出張を取りやめれば――」

「それはダメだよ」

「……だよね、うん。分かってるよ」


 暴走しかけた宏樹を優香は冷静に制した。分かっていると言いながらも、冗談とも思えない真剣な口調でスマホを確認し始めたから、慌てて顔を上げて宏樹を見る。そして、その瞳が真っ直ぐに自分へと向いていて、熱い熱を帯びているのを直視し、優香はそのまま動けなくなった。

 いつも通り、ううん、いつも以上に熱くて優しい視線が余所見もせずに自分へと向けられている。この人以上に自分のことを大切に想ってくれている人は、きっとこの世には存在しない。


 ――でも……


 いつも優香を踏み止まらせる、躊躇いの気持ち。後ろを振り向けば、一年前に亡くなった夫の遺影が視界に入ってくる。自分はまだ大輝のことを変わらず愛しているし、それに偽りはない。


「私が大輝のことを忘れることは、絶対に無いと思う」

「うん」


 優香がゆっくりと言葉にしていくのを、宏樹は優しい瞳で見つめて聞く。静かな室内で、グラスの中の氷が解けてカランと小さく音を立てた。


「死んでしまっても大輝が好きなことに変わりはないし、私は今も彼の奥さんだと思ってる。それは、どれだけ年を取っても、ずっとだと思う」


 たとえ戸籍上は独身に戻っていても、自分は大輝の妻で、彼への想いは生涯消えることはない。この先、どんなに宏樹への想いが膨らんでいったとしても、優香の中には必ず大輝への想いも存在し続ける。


「だから、私じゃダメなんだよ……宏樹君には、相応しくない」


 宏樹に与えて貰うのと同じだけを、優香から返してあげることはできない。全力で想ってくれている人に対して、それはとても失礼なことだ。

 そう伝えながら、優香は自分の頬に一滴の涙が筋を作っているのに気付き、慌てて手で拭った。


「どっちもなんて、そんなズルいことは考えちゃいけないのに……大輝のことが好きなままなのに、宏樹君に傍にいて欲しいって思うなんて、絶対にダメだって分かってるのに……」


 掠れた声に嗚咽が混ざる。頭の中で整理しないまま喋っているから、小さな子供が我が儘を言っている風にしか聞こえなかっただろう。泣きじゃくりながら肩をひくつかせる優香の手から、宏樹がそっとグラスを取り上げた。そして、それをテーブルの上に置き直した後、優香の髪へ手を伸ばして撫で始める。ゆっくりとまるで陽太を寝かしつける時のような優しい仕草。手の平を通して愛おしいという気持ちがダイレクトに伝わってくるようだった。


「優香ちゃん、おかしなこと言ってるの気付いてる? 俺、兄貴のことが好きな優香ちゃんしか知らないんだよ」


 優香と初めて出会ったのは兄の大輝が家に連れてきた時。宏樹が惹かれた時にはすでに、優香は大輝の恋人だった。それでも宏樹は優香のことを好きになり、優香が義姉になってもその想いが色褪せることはなかった。

 優香が大輝へと抱いている想いなんて宏樹にとってはデフォルトでしかない。なんなら、兄へと好意を寄せてくれるような女性だから優香のことが気になり出したのかもしれないとまで言い切ってみせる。


「俺も兄貴のことは今でも好きだし、優香ちゃんが兄貴のことを好きで居続けてくれるのは嬉しいと思ってる。それで良くないかな?」

「でも……」

「でもじゃないよ。そりゃ、ちょっとは悔しいとは思うけど、全然別の男と比べられるよりはマシだし、兄貴の代わりに優香ちゃんと陽太を守っていきたいってのが本音」


 そう言って宏樹は髪を撫でる手を止めて、優香の頬を拭う。大きな手の温もりに優香はホッとしたように笑みを漏らし、宏樹の手に自分の手を重ねる。優香が自分から宏樹に触れたのは、これが初めてだ。

 宏樹の顔を見上げて、優香は懇願するように確認する。


「宏樹君は、私達を置いていなくなったりしない?」

「するわけないよ。俺はずっと傍にいるよ、ずっとね。だから難しいことは考えないでいいよ」


 当たり前だろと言いながら、宏樹は優香の頬に触れたまま、その唇に口付ける。短く優しいキスは、優香の瞳からまた別の涙を誘い出した。

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