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第三十七話・繰り返される悲劇

 オフィスを立ち上げた時からの顧客に、新しい依頼人を紹介してもらったと、宏樹が客の持ちビルの一棟へ視察に向かったのは15時少し前。保育園へのお迎えの時刻も近付き、優香はキリの良いところで作業を中断して、キッチンに残っている洗い物を片付けていた。事務スペースでは吉沢が左手で領収書の束を、右手でテンキ―を勢いよく叩いている。


 その時、オフィスの固定電話が前触れもなく鳴り始めた。


「はい。石橋会計事務所です」


 デスクで作業中の吉沢が、目の前の受話器を上げて対応する。アルバイトの経験があるだけあり、初日から躊躇いなく電話に出てくれるのは助かっていた。研修に来ているはずが、逆に優香の方が教えて貰うことも多いくらいだ。

 その吉沢が、柄にも無く電話口に向かって慌て始める。


「……えっ?! あ、あ、ちょっと待っていただけますか。優香さんっ、所長が救急車で運ばれたって……」

「え?」


 洗い終えたカップを棚に並べていると、吉沢が焦った声で優香へと伝える。受話器を握りしめたまま、保留にするのも忘れているから、電話の向こうの救急車両のサイレンが微かに漏れて聞こえてきていた。


「ど、どこの病院か確認しますっ。――あ、どこの病院で……はい、はい。分かりました。ご家族の方にですか? ……多分、大丈夫です。それはこちらから連絡を……はい、失礼します」


 布巾を握りしめたまま、吉沢のデスクへ駆け寄った優香は、彼が応対しながらメモ書きしていくのを黙って見ていた。通話を切った後、吉沢が動揺した声で優香へと報告する。


「お客さんのビルを出てすぐのところで、歩道を暴走していたバイクと接触したらしいです。救急車が到着した時はまだ意識はあったみたいなんですけど……あ、これ、運ばれた病院らしいです」


 走り書きでもかろうじて読めるメモ。そこに書かれた病院名を頭に入れると、自分のデスクからバッグとスマホを取ってオフィスの入り口へと向かう。この時間帯なら駅まで行けばタクシーが捕まえられるはず。後で思い返してみると、この時は意外と冷静に行動できていたことに驚いてしまう。同じようなことを以前にも経験したことがあるからだろうか。


「また何か連絡あるかもしれないから、吉沢君はここに居てくれる? 私も病院についたら連絡します」

「あの、所長のご家族への連絡は……?」

「お義母さんには、向かいながら電話するから大丈夫」


 こんな時でも普段と変わらない速度のエレベーターに苛立ちを覚える。ボタンを力強く何度押そうとも、無機質な機械が急いでくれる訳でもない。

 帰宅ラッシュにはまだ早いから、駅前のタクシー乗り場に行列は無かった。暇そうに運転席を降りて伸びをしていたドライバーへ、動揺を抑えながらなんとか行き先を告げた。


 後部座席でスマホを手に取り、優香はアドレス帳から義母の番号を検索する。小刻みに震える指先が思うように動かない。鼓動があまりにも煩過ぎて、スピーカーの声が聞こえ辛い。義母は嫁から息子の悲報を知らされるのはこれで二度目になる。どうして、また同じことを繰り返さなくちゃいけないのか……。


「救急で運ばれて来た、石橋宏樹の家の者です」


 救急病院の受付で名乗ると、集中治療室とかではなく通常病棟へと案内された。もう一通りの治療は済んだということなのだろうか。ナースステーション前にある個室の廊下には事故現場から付き添ってくれたという、年配の男性の姿があった。


「石橋のオフィスの者です」

「ああ、良かった。事務所の方と連絡が取れたんですね。河口です」

「はい。河口様の事務所からお電話いただいて……」


 商談後にビル前で見送るつもりでいた顧客の目前で、宏樹の事故は起こったのだという。混み合った車道を避けようと歩道に乗り上げて走っていたオートバイが、ビルのエントランスを出たばかりの宏樹に衝突した。


「救急車の中では気丈に話しをしておられたんですが、今は家族以外は面会謝絶らしくて私はここで待つしか無くて」

「そうですか……」


 河口へ付き添いの礼を言ってから、優香は向かいのナースステーションへと声を掛ける。面会が出来ないほどに宏樹の容態は悪いのだろうか。


 看護師へ義姉だと申告すると、優香はすぐに病室の中へ入ることを許された。入り口のスライドドアが完全に閉まっても、廊下から聞こえてくる足音や話し声。日中の病院は意外と騒々しい。そのざわつく空間の中、宏樹は白いシーツが掛けられた布団の上でとても静かに眠っていた。衝突時に頭を打ったらしく、頭部には包帯が巻かれ、布団に投げだされた右腕には点滴の管が繋がっている。


 全く同じ光景を、優香は以前にも目にしたことがある。個室のベッドで横たわり、いつまでも目を覚まさない夫、大輝。どんなに話しかけても、彼が答えを返してくれることはなかった。その目を開いて優香へと微笑んでくれることは二度と無かった。

 また、同じ思いをしなきゃいけないんだろうか……。


「ずっと傍に居るって言ったくせに……」


 ベッド脇に膝をつき、点滴と繋がる右腕にすがる。まだ温かいこの腕も、いずれは冷たく冷え切ってしまうのだろうか。どうして傍に居て欲しい人は、いつも自分の前からいなくなってしまうんだろうか。


「大丈夫。俺はそんな簡単には死なないよ」


 優香が握っていた手を力強く握り返される。はっと顔を上げると、宏樹が苦笑しているのが目に入った。笑いを堪えたような表情で、愛おしそうに優香のことを見ている。


「俺が結構しつこいタイプなの、優香ちゃんが一番よく知ってるでしょ?」


 身体を少し動かして、反対の手を優香の頬へと伸ばしてくる。いつの間に流れていたのか、涙でびしょ濡れになっていた頬を優しく拭っていく。


「俺でもいいって、少しは思ってくれるようになった?」

「私より先に死なないって約束してくれる?」


 優香の返事に、宏樹は少しだけ考える素振りをする。


「んー……確約はできないけど、努力はする。ほら、男女の平均寿命の差とかあるし、そもそも優香ちゃんの方が俺よりも若いからね」


 少し意地の悪い返しをすると、「でも」と付け加える。


「傍に居ていいって言ってくれるんなら、喜んでずっと居るよ。陽太が大きくなっても、優香ちゃんがお婆ちゃんになっても、ずっと一緒に居る」


 だから泣かないで、と頬を優しく撫でてくる手を、優香もそっと触れる。今、自分が一番欲しいと思っているのは、この温かくて優しい手だ。この手と一緒なら、きっとこれからも大丈夫。

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