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第三話・自立

 大輝との思い出が詰まった自宅を売り払えという梨乃の言葉に、優香は茫然とする。実家を頼ることが、大切な我が家を手放すことに繋がってしまうなんて、想像もしていなかった。ほんの少しの期間だけ、里帰りさせて貰えたらというつもりだったのに……。産院で会った他のママ達で、入院中に連絡先を交換し合ったうちの何人かはまだ里帰りを続けているみたいだし、陽太の月齢ならまだ実家を頼っていてもおかしくはないはずなのに……。

 それくらい、義姉にとって自分達親子は歓迎されていないということだ。


「ごめんなさい。一人で、大丈夫だから……」


 和室で眠り始めた息子をそっと抱き上げ、ソファーの上に置きっぱなしにしていたトートバッグを手繰り寄せ、優香は俯きがちに部屋を出る。顔を上げてしまえば一気に涙が零れ落ちてしまいそうで、踏ん張るように口をキュッと結んだ。


「あら、残念だわ。賑やかになるかと思ったのに」

「優香、困った時はちゃんと言うのよ」


 梨乃と母の声が後ろから聞こえてはいたが、振り返らずに実家を出る。もうここは自分が気軽に戻って来れる実家じゃなくなっているのだ、仕方ないと諦めるしかない。母の言う通り、睡眠不足が続くのも今だけで、大変なのは陽太が大きくなるまでのほんの一瞬だけなのだから。

 もう少しだけ頑張れば大丈夫だと、自分自身へ無理矢理に言い聞かせる。


 おくるみに包まれて気持ちよさそうに眠っている息子。大輝が残してくれた家をこの子に残せない未来なんて、考えたくもない。この子の為にも、甘い考えは捨てないといけないのだ。


 大通りまで歩いて出ると、優香はタクシーを捕まえて乗り込んだ。客が大切に腕に抱えているのが赤ちゃんだと分かると、初老の運転手は目尻を下げて「ゆっくり走らせていただきますね」と控えめに声を掛け、それまで流れていたFMラジオを切った。ぺこりと頭を下げて礼を言うと、タクシーは宣言通りに静かに走り始める。


 妊娠中から注文を開始していた生協の宅配は、乳飲み子を抱えたシングルマザーにとって何よりも心強い存在だった。勿論、どうしてもすぐに必要な物は抱っこ紐やベビーカーを使って子連れで買い足しに行ってはいたが、まだ小さな陽太を連れて歩いていると、心無い声を掛けられて落ち込むことが度々あった。


「あら、こんなに小さいのに連れ回したら可哀そうよ」

「ママの都合で出掛けなきゃならないなんて、赤ちゃんも大変よねぇ」


 ベビーカーの中に頭を突っ込んで覗かれたり、ちょっと余所見している隙に知らないお爺ちゃんに勝手に抱っこされていたりと、驚くようなことにも遭遇した。世の中、あのタクシー運転手さんのような気遣いをしてくれる人ばかりじゃないのだ。


『何か困ってることない? 必要な物があれば買っていくから言って』


 三日と空かずに届く宏樹からのメッセージ。世帯主の死亡に伴う手続きを任せきりにしていることもあり、義弟と直接顔を合わす機会も一気に増えていた。夫が生きていた頃はそこまで親しくしていた訳じゃなかったけれど、今は一番頼りになる存在だ。


『大丈夫。ありがとう』


 徒歩圏内に大型スーパーがあるから、わざわざ宏樹に買い物を頼むようなこともない。

 子育てに慣れてきたこともあり、少しずつだけれど優香も今後のことを考える余裕が出てきた。陽太は元々からよく眠る子だから、睡眠不足を感じる日が減ったのは大きい。


 ――このまま、大輝が残してくれたものにすがるだけの生活ではダメ。


 あと数か月もすれば、陽太も保育園に預けることができる月齢になる。市役所で貰ってきた資料を眺めた後、優香はスマホで求人情報を検索していた。とりあえずはパートでいいけれど、いずれは社員登用してもらえるのが理想だ。でも、そんな都合の良い仕事は全く見つかりそうもない。


 そもそも、優香は何の資格も技術も持ってないし、大輝と結婚してからは専業主婦をしていて、社会経験もほとんど無い。いくら初心者歓迎と記載されてようが、20代後半の子持ち主婦よりも、もっと若い人材を優先して採用されるのは目に見えている。


 むぅっと不機嫌に口を尖らせていると、玄関チャイムが鳴り出した。インターフォンのモニターを覗いてみれば、仕事帰りらしい宏樹がスーツ姿で立っている。背の高い彼にはカメラの位置が低すぎるのか、やや下からのアングルで見る義弟は大輝ととてもよく似ていて、亡くなったはずの夫が帰って来てくれたのかと勘違いしそうになる。


「今、開けるねー」


 インターフォン越しに声を掛けてから、パタパタとスリッパを鳴らして玄関へと向かう。一通りの書類は出し終わったと聞いていたのに、今日は何だろうと思いながら鍵を開ける。

 ガチャリと音を立てて開いた扉から、黒のスーツに身を包んだ宏樹が一抱えある花束を差し出して言う。


「兄貴の月命日だから」

「あ、そっか。今日は6日だったね。ありがとう――どうぞ、上がって」


 一瞬で玄関中に甘い香りが広がる。薔薇を中心にカスミソウで可愛くアレンジされた花束はピンクのリボンまで付けられていた。優香は受け取った花束が仏壇用の割に華やか過ぎることに軽く首を傾げた。仏花というよりはお祝い事の方が向いていそうなのだが……。


 ――買う時、お花屋さんにお供え用だって言わなかったんだね、きっと。


 大輝と同じで肝心なところが不器用だなぁと、心の中で微笑む。5月生まれの妻へのプレゼントを購入する際、夫からは何も伝えていなかったせいで、母の日用のラッピングにされてしまったことがあった。「ちょっとした手違いがあって……」と照れくさそうに笑いながら渡された、カーネーションの造花付きプレゼント。中身の腕時計は今でも優香は大事に使っている。


「陽太は?」

「起きてるよ。さっきミルク飲んだばかりだから、今はご機嫌で一人遊びしてるよ。最近、自分の手の存在を知ってしまったらしくて、デザート代わりに味わってる」

「……手がデザート?」


 意味が分からないと困惑の表情を浮かべる宏樹に、「見たら分かるよ」とリビングに設置しているベビーベッドの中を指で示す。仰向けに寝転びながら、自分の右拳を口いっぱいに頬張っている甥っ子が目に入ると、宏樹は大きく噴き出していた。


「味わうっていうか、これはちょっと口に入れ過ぎじゃない?」

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