第二十八話・ないものねだり
普段通りに陽太を保育園の乳幼児用の保育室に預けた後、優香は職員室前の掲示板を眺めていた。育児に関わるお知らせなどを端から順に流し見していると、ふと一枚の掲示物で目を止める。
――ひとり親交流サークル?
シングルマザーやシングルファーザーを対象とした育児サークルの案内。保健センターが主催になっていて、開催日が近かったこともあり、少しばかり興味が湧いてくる。念の為にと、優香はスマホのカメラを向けてそのお知らせを画像に保存した。
交流サークルが開催されていたのは、妊娠中に母親教室で訪れたことがあるのと同じ建物だった。当時は長机とパイプ椅子が並んだ、ただの集会室のようだったが、子連れ参加が前提の今回の集まりでは机と椅子は隅に畳んで片付けられ、床の半分にマットが敷かれている。
「初めて参加させていただく、石橋です」
「では、お母さんはこちらの名札を付けていただいて、お子さんには背中とかの自分では剥がせない場所にシールを貼ってあげてくださいね」
初回参加者向けのお知らせの入った分厚い封筒と一緒に、親と子それぞれ用の名札を受け取ると、優香は保健師らしき女性の指示に従ってマットの上に腰を下ろした。託児室も用意されているらしく、隣の部屋からは陽太よりも大きな子供達のはしゃぐ声が聞こえてくる。
陽太を膝に乗せてユラユラと揺らしながら遊ばせていると、部屋の入り口で受付をしていた女性が参加者へと円になって座るように指示してくる。今日の参加者は優香を入れて五人。父親の参加は一人も無く、母親ばかりだ。他の参加者達で子供と一緒に待機しているのは一組だけ。ピンク色のふわふわしたベストを着せられた女の子の赤ちゃんを抱っこしたママ。他の人達は託児室に預かって貰っているみたいだから、少し大きい子達の親なのだろう。
「初めての方も居られますから、順番に簡単な自己紹介をしていただきましょうか。では、そちらの方からお願いして良いですか」
名前と子供の年齢など、他の育児サークルでもこんな感じで話し始めるんだろうなとは思ったが、今この場にいる参加者達はひとり親ばかり。シングルになった経緯まで話し始める人も何人かいた。
「子供が2歳になる前に、夫と離婚して」
「恋人と別れた後に妊娠が分かって。でも、子供はおろしたくなかったので一人で産みました。だから未婚の母です」
同じシングルマザーと言っても、人によって違う。ここに来れば同じ境遇の親子に出会え、気持ちを分かち合えるかもしれないと思っていたが、そうでもなさそうだ。彼女達は自分の意思で、自分で選んでシングルになっている。優香には選択肢なんて何も無かったのに……。自分で決めて、この場にいる訳じゃない。
「石橋優香と、息子の陽太です。子供が生まれてすぐ、夫が仕事中に事故死して――」
優香が自己紹介を始めると、参加者の一部が騒めいた。同情を含んだ嘆きが大半だったが、優香の左隣で未婚の母だと自己紹介していた女が、身を乗り出して問い掛けてくる。
「仕事中ってことは労災下りたんですよね? えー、いいなー。もしかして、家も持ち家だったりする? 旦那さん亡くなって、家のローンも無くなった?」
あまりの距離感の無い質問に、優香はぎょっとする。慌てた職員が制止に入ってくるが、未婚の母は優香に向かって「いいなー」を繰り返していた。
「子供一人育てるのに、こんなにお金が掛かるなんて思ってなかったんだよねぇ。ここに来たら、補助とかの説明して貰えるって思って来たんだけど」
何かそういう感じじゃないよね、とブツブツと呟いている。多分、彼女の場合は市役所の子育て支援窓口に行った方がいいんじゃないかと思ったが、優香は黙って目を反らした。優香の立場で口を挟めば、反感を買うのは目に見えている。彼女にとって、優香は夫の死でお金に不自由ない暮らしを手に入れた恵まれた女なのだから。
大切な人を突然失ってしまった優香は、本当に恵まれているのだろうか。失ったものの存在があまりにも大き過ぎて、よく分からない。
簡単な自己紹介が終わると、センターの人が中心になって子育ての悩みなどを打ち明け合う会へと変わっていく。子供がイヤイヤ期に入ったとか、食べ物の好き嫌いが多いとか、そういった一般的な育児相談が中心だったけれど、なかにはやっぱりひとり親ならではという話題も上がってくる。
「昼間は両親に見て貰ってるんですけど、親ももう高齢だから子供の体力についていけないって言われてしまうんですよね……」
参加者の中で唯一の男性が、ぽつりと漏らすように言った。彼は元妻の浮気が原因で離婚したと自己紹介で話していた。いきなり子供と一緒に戻って来た息子に、年老いた両親は困惑したことだろう。それでも受け入れてくれる実家があって、羨ましいなと優香は思わずにいられなかった。
優香の隣に座っていた未婚の母は、「えー、親が見てくれるんなら、いつでも一人で遊びに出れていいなー」と、また周りが引くような発言を繰り返していた。彼女は「友達と遊ぶ時に子連れだと、露骨に嫌な顔されてしまうんだよねぇ」と言っていて、他の参加者からまた白い目を向けられていた。
結局、勇気を出して参加したサークルでは自分と同じ境遇の親子に出会うことはできなかった。帰りがけにセンターの人から「毎回、参加する方は変わりますので」と声を掛けられたが、次また参加しようと思うかどうかは分からない。
でも、境遇は違っていてもどの親子も何かしらの悩みを抱えていて、余裕を持って子育てしている人なんて一人もいなかった。自分だけじゃないと思えたことが、少し心の支えになった気がした。