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第二十六話・空虚感

 夫が亡くなった後も、彼の私物の大半はまだ手付かずだった。衣類は勿論、その他の細かい遺品も生前のままで、将来の子供部屋にするつもりの二階の一室には、大輝が愛用していた筋トレグッズがまとめて置いてある。何もかもに夫との思い出があり、それらを手放すことなんて全く考えられない。


 ただ唯一、真っ先に処分したのは夫の愛車。彼が通勤にも使っていた黒色のワンボックスカーは、あの事故の日からずっと会社の駐車場に停めっぱなしになっていた。バタバタして完全に忘れていたけれど、連絡を貰った後に宏樹が引き取りに行ってくれた。


「優香ちゃんが運転しないのなら、早めに処分した方がいいね。もうすぐ車検もあるし」


 他の遺品とは違い、車は保有しているだけで維持費が発生してくる。優香も免許は一応持ってはいるけれど、もう何年も運転していないからペーパードライバーだ。例え運転するにしても、いきなりワンボックスカーというのはハードルが高過ぎる。

 とは言え、車は全く乗らなければすぐに傷み始めるし、必要以上に置いていてもしょうがない。そう言って、宏樹は中古車屋を数社回って買い取りの見積もりを出して貰い、一番条件が良かったという店で売却の手続きをしてきてくれた。


 優香の妊娠が分かってから買い替えたワンボックスカー。それ以前の夫はシルバーのセダン車に乗っていた。お腹の子が男の子だと判った時、「いつかテントを買って、家族でキャンプにでも行けるといいな。あ、シートをフラットにして車中泊ってのもいいかも」とアウトドア専用のネットストアを楽しそうに眺めていた大輝のことを思い出す。


 保育園のお迎えまでの時間、一人で買い物へ行っていた優香は、家の門扉に手を掛けながら、真横にあるガランとした駐車場を眺める。本来なら夫の愛車が停められていたスペースには、今は優香のママチャリが隅っこに遠慮がちに置かれているだけだ。以前も大輝が出掛けていて車が無い時もあったけれど、あの頃にはもっとスペアタイヤや洗車グッズなんかのカー用品も置いてごちゃごちゃしていたはず。


 ――ここって、こんなに広かったっけ……?


 ここまで広く感じるのは、新築でまだ引っ越して来る前以来かもしれない。あるべき場所にあるべき物が存在しないのは、寂しさというよりも不安を感じてしまう。駐車場に感じた広さは、夫がいなくなってポッカリと空いてしまった心の穴の大きさなのだと錯覚しそうになる。


 空いているスペースを近所の人へ貸し出すという案もあったが、我が家の敷地に他人の車が停められるのもどうかと、それは保留にしてもらっている。だから今は、家へ訊ねて来た人達が停めていく、来客用でしかない。


 大輝の死後、物足りなさを感じるようになったところは、駐車場だけじゃない。洗面台の収納スペースだって、お風呂や冷蔵庫の中にだって、なんとなく大輝が陣取って物を置いていた場所がある。髭剃り用のシェービングクリームやメンズの洗顔料、筋トレ後に飲んでいたプロテインの粉末。使用期限や賞味期限のあるものはどうしても処分するしかなかった。夫専用の物は彼の死後、少しずつ少しずつ家の中から消えていった。


 大輝の物があった場所はどこだって、車が無くなった駐車場と同じでガランとしている。そこにあった物を使う人はもう居ない。二度と帰って来ないのだと思うと、胸がきゅっと強く締め付けられる。

 ここは彼の家なのに、彼が戻って来ることはない。


 ああ、あれらを使っている大輝の姿を見ることはないのかと思うと、二階の部屋のドアもあまり開けられずにいる。筋トレグッズだって誰かが使わなければ、その内に傷んだり錆たりしてしまうはずなのに、いつまで経っても処分できずにいた。彼が大切にしていた物だと分かっているから、ただのゴミにはしたくない。


「……どこかに引き取って貰わないと」


 独り言のように呟いてはみるが、なかなか行動には移せない。リサイクルショップの出張買取のサイトを眺めても、実際に連絡するまではできないでいた。また今度にしようと先延ばしてしまう。手放さなければいけない期限なんてない。だからこそ、いつまで経っても踏ん切りがつかない。


 この家から夫の私物が消えていくことが、まだ耐えられない。ダンベル一つにしても、大輝との思い出が詰まっている。それを見る度、記憶が蘇る。


「ごめん、あと2セット終わってからね」


 二人揃って外出する前、すでに用意の済んだ優香が、いつまで経っても降りてこない夫の様子を見に部屋を覗くと、大輝はまだ上半身裸のままで両手に一個ずつ持ったダンベルを上下していた。顔と身体を赤らめながら真剣な表情で天井に見上げて、リズミカルに腕を動かしていた。


「え、なんで今?」

「こういうのはさ、毎日欠かさずやることに意味があるんだよ」


 妻を散々待たせた上で、しれっと悪びれずに言ってくる。喋りながらも、腕は止めようとしない夫に、優香は呆れた溜め息を漏らした。そうだ、こういう人だった、と。


 「筋肉は裏切らない」と大輝はいつも言っていたが、優香だって思っていたことはある。「大輝は決して裏切らない。ただし、待たされることは頻繁にある」

 家の中にあるもの全てに、夫との思い出がある。

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