第二十二話・元カノ3
フロア中に響きそうなくらい大きな音を立てて閉まったドアを、宏樹が苦笑を漏らしながら鍵する。防犯の度に毎度ロックするようにはしていたが、今はそのガチャリと鍵が閉まる音に優香は動揺してしまう。
オフィスで宏樹と二人きりなのはいつものことで慣れているはずだった。でも、明らかに口説き文句と取れる台詞を聞かされた後では、普段通りにしろというのは無理な話だ。
勢いでいろんなことをぶちまけてしまったと、宏樹も困惑した顔で頭を掻いていた。商談スペースに残された二客分のティーカップを引き上げてきて、優香は簡易キッチンで自分のコーヒーカップと一緒に洗い始める。
「なんか、ごめん。変なとこ見せちゃって」
洗剤を流し終えた食器を布巾で拭いている優香へ、宏樹が申し訳なさそうに声を掛ける。
どさくさに紛れて必要以上にぶちまけて去って行った元カノとは、お互いの利害が一致したから付き合っていた、いわゆる都合のいい大人の関係のはずだったと説明してくる。瑛梨奈にとって宏樹は周囲にマウントを取る為の見栄えのいい彼氏で、宏樹にとって瑛梨奈は後腐れなく関係を持てる女――要はセフレでしかなかった。だから、瑛梨奈が他の男に乗り換えることにしたのなら、あっさりと身を引いた。無理して引き留めたいと思うような相手でもなかったから、と。
どんなに一途に想っていようが、宏樹だってまだ二十代の男だ。聖人君子でも修行僧でもない。据え膳食わぬはとつまみ食いくらいしたくなるだろう。それがたまたま瑛梨奈だったばかりに、こんな騒動にまで発展してしまったのだが……
「謝られても、私は別に……」
優香の立場からは何と言えばいいのかが分からない。宏樹が誰とどんな恋愛をしてようが、自分には全く関係ないことなのだから。さっきはちょっとビックリしたけど、それだけだ。
拭き終わったカップを棚に戻し終わると、優香は何事も無かったかのように平然と振り返った。――つもり、だった。
「……優香ちゃん、顔真っ赤だよ?」
「えっ⁉」
ぱっと両手を広げて、慌てて顔を隠す。何も気にしてない、平然とした態度を取っているつもりだったのに、と宏樹から身体を背け、もう一度キッチンの方に向きを戻す。動揺丸出しの反応をしてしまい、恥ずかしくてもう二度と宏樹と顔を合わせられない。絶対に今は平然としていなきゃいけないはずなのに……
「そんな反応してくれるなんて、嬉しいな」
「ち、違うの……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。俺のことを優香ちゃんが少しでも気にしてくれるようになったのが、ただ嬉しいだけなんだから」
小さなキッチンの狭いシンクを見下ろして、優香は必死で呼吸を整えようとする。今すぐ気持ちを落ち着けないと、取り返しのつかないことになる。そんな気がした。
それなのに、顔中に帯びた熱はなかなか引きそうもない。冷静になろうとすればするほど、宏樹の言葉が頭の中を反芻する。彼の発する言葉はいつも直球過ぎて、どう受け答えしていいのか分からなくなる。
「前にも言ったけど、ずっと好きだった」
背後から伸びてきた腕に優香の上半身が包まれる。後ろから抱き締められて感じる、宏樹の体温。振りほどいて、今すぐ離れなきゃいけないと、頭では分かっている。宏樹も無理強いするような強さで拘束してきている訳じゃない。なのに、優香はその場から少しも動けないでいた。自分でも、どうして逃げないのかと不思議だった。
今、自分のことを優しく抱き締めているのは夫の大輝じゃなく、その弟だということが頭ではしっかりと分かっているはずなのに。
宏樹の吐いた吐息が、優香の首筋に掛かる。さらに熱をもって真っ赤になった細い首に、宏樹の唇がそっと触れる感触。耳元で囁かれる「愛してる」の言葉に、優香はその場から完全に動けなくなる。だけど、その熱っぽい囁きに返す言葉を自分は持ち合わせてはいない。
抗う気配のない優香の身体を、宏樹はさらに少し力を込めて抱き寄せ直す。髪や首に優しく落とされていく彼の唇の感覚を、優香は瞳を潤ませながら静かに感じていた。
「何があってもずっと、愛してるから」
耳のすぐ真横から聞こえてくる甘い言葉に、優香の瞳に溜まっていた涙が一筋零れる。同じように優香の欲する言葉を囁いてくれていた夫は、もうこの世にはいない。
ずっと張り詰めていた心が、背中から大きく包み込んでくる温もりに、じわじわと絆されていく。
「大輝が、いないの……もう、どこにもいないの」
「……うん」
「私、ずっと心細くて……陽太も、可哀そうで……」
「うん、そうだね」
顔を覆い隠していた両手の指間から、涙の雫が滴り落ちていく。こんなに泣いたのは、病院で夫の遺体と対面した時以来だ。陽太の前では弱音は吐けないと、ずっと我慢し続けていた。平気なフリをし続けていれば、いつか本当に平気になるのだと信じていたけれど、いつまでも辛いままだった。
宏樹は優香の肩に手を触れて、そっとその身体の向きを変える。そして、改めて正面から優香のことを抱き締め直した。片腕で身体を包み込み、もう片方の手では優香の髪をゆっくりと撫でる。まるで幼い子供を宥めるかのように、優しく穏やかに。慈愛に満ちた温もりのおかげで、ようやく弱音を口にすることができた。
「ごめんね、なんか私、情けないね」
「そんなことないよ。――今日はもう上がってくれていいよ。いろいろと疲れただろうし」
送って行こうかと声を掛ける宏樹へ、優香は黙って首を横に振る。一旦家に帰って、この泣き腫らした眼を冷やしてからでないと、保育園へお迎えに行けそうもない。
心配で見てられないとビルのエントランスまで見送りに出て来た宏樹には、照れ笑いを浮かべながら手を振ってみせる。沢山泣いたおかげだろうか、以前よりも随分と気持ちが楽になっている気がする。