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第十六話・保育園からの電話2

 通っている保育園の契約医でもある小児科の荒木医師は、クリニックのイメージキャラクターのクマさんにそっくりのお爺ちゃん先生だ。丸い顔に優しい目で、いつも子供達にニコニコを笑い掛けながら診察してくれる。

 看板も壁紙もオリジナルキャラのクマのイラスト付きで、待合スペースはクマさんで溢れている。「クマ先生」と言えば、大抵の親子には通じてしまうくらい親しみやすい病院だ。


 診察用の丸椅子に座って優香は陽太を抱きかかえていた。まだ一人では座ることの出来ない子供は、親の膝の上で診察を受ける。看護師に手伝って貰いながら、息子の洋服を捲ったり、頭を固定したりと結構大変だ。


「まだ発熱したばかりだからね、もし明日も熱が続くようだったら検査した方がいいかもね」

「インフルエンザ、でしょうか?」

「まあ、熱もそこまで高くないし、どうだろうねー。これから上がりそうな感じではあるけど。来る時は夕方の診察にね、朝だとまだ反応は出ないから」


 今日のところは風邪症状の薬を出しておくから、と荒木医師は目の前のパソコンでカルテと処方箋を入力していく。

 医師のデスクの上には玩具がいっぱい置かれていて、陽太の興味はずっとそこに集中していた。壁一面にもいろいろなキャラクターの切り抜きが貼ってあったりと、診察室内は子供が飽きない工夫だらけだ。さすがに自宅ではここまで徹底はしてあげられないけれど、真似してリビングの天井に貼ったキャラクターのイラストは歯磨きの時に大活躍してくれている。


 診察後に受付前で会計を待っている間、優香は念の為にと貰った『インフルエンザに感染した場合』の注意書きプリントへ目を通していた。もし陽太がインフルだったら保育園は何日休まないといけないかと指を折って数えてみる。発症した後五日ということだけれど、今日は日数に含まないとなると来週まで登園は出来ない。


「インフルじゃないといいんだけど……」


 優香自身は仕事環境にとても恵まれているから、陽太の体調を理由にした休みは取りやすい。でも、そうじゃない家庭では一週間近くも自宅で子供を看病するのは大変なはずだ。優香と同じようにシングルで子供を育てている人も多いし、保育園に預けられないと困る人は多い。みんなはどう乗り切っているのかがいつも不思議だった。


 小児科から帰って来た後も陽太の様子は普段通りで、帰宅して早々でお気に入りのブロックの箱をひっくり返していた。

 でも、元気そうだから大丈夫かと安心していたが、クマ先生の予言通りに夜中には隣で眠っている息子がうなされ始める。その額に手を当てて、優香は慌てて体温計を取りに起きた。


「……お熱、上がってきちゃったね」


 熱冷まし用のシートを陽太のおでこに貼って、顔や首の汗をガーゼで拭う。顔を真っ赤にしながらうなされている息子に、それくらいしか出来ないでいることが辛い。こんな小さな身体でウイルスと戦っているのかと思うと、可哀そうで仕方ない。せめて少しでも深く眠れるようにと、陽太の身体を優しくトントンする。しばらくすると、普段通りのスースーという寝息に変わって、少しだけホッとした。


 翌日の朝も陽太の熱は引かなかった。けれど、三十八度を超えているのにご機嫌は良いらしく、風邪薬を混ぜたリンゴジュースを美味しそうにゴクゴクと飲み切っていた。


 電話で予約を入れた夕方の診察では、優香と看護師の二人がかりでガッチリと身体を抑えつけられて、荒木医師から細長い綿棒を鼻の奥に突っ込まれ、陽太は涙を流しながらウイルス検査を受けることになった。

 結果は、インフルエンザ陽性。B型だった。


「今年はA型もB型もどちらも流行ってるからね……治った後も違う方にもう一度かかることもあるから」


 診断結果から新しい処方箋を作りながら、荒木医師がさらっと恐ろしいことを言ってくる。同じシーズンに二度も感染なんて悪夢でしかない。


「集団生活してると、誰か一人が感染したらあっという間だからね」


 そう、陽太は保育園で感染してしまった可能性が高い。勿論、それ以外の外出先でうつったのかもしれないけれど、一日の半分を過ごしている園では現にインフルが大流行中だ。保育園からは「感染拡大を防ぐ為、健康状態に問題ない子も可能な限り自宅保育してください」という前代未聞のメールが届いていたくらいだ。


 もし保育園に入れていなかったら、陽太はこんなに辛い思いをしなくても済んだだろう。自分が外で働きたい為に陽太を予定よりも早くから預けることになってしまったのが原因だ。何もかもが自分の我が儘のせいだと思えてきて、優香は自己嫌悪に陥っていく。


 帰宅後、薬局で貰って来た処方箋をダイニングテーブルの上に広げて、今日服用させる分を取り分けていく。

 保育園にインフルだったと報告の電話を入れた際、陽太のクラスでは他の子達も何人かが診断を受けたと聞いた。そして、出席停止期間のことをかなり厳しめに念を押された。中には診断が下っていても守らない人もいるってことなんだろうか? あまり考えたくはないけれど、先生の口調でそう思わざるを得ない。


 宏樹には病院で診断を受けてすぐにメッセージを送っておいた。長くお休みさせて貰うことになるから、随分と迷惑をかけてしまう。たいした仕事はしていないけれど、それでも雇って貰っている以上は責任感を感じずにはいられない。


「ゴミくらい、まとめてから帰れば良かったかな……」


 明日がオフィスのゴミ収集日だということを思い出して、ぽつりと呟く。処分する古いファイルがかなり溜まっていて、次の収集で出すつもりでいた。何もかもが来週まで持ち越しだ。


 そんな風に仕事のことを考えていると、キッチンカウンターの上に置いていたスマホが低い音を響かせながら震え始めた。液晶を覗くと、宏樹の名前が表示されている。心配して直接電話してくれたのだろう。


「もしもし、今、大丈夫?」

「うん。さっき帰ってきたから、もう家にいるよ。ごめんね、しばらくお休みさせて貰うことになっちゃって」

「ううん、それは全然いいよ。陽太、可哀そうだね……優香ちゃんも感染らないよう、気をつけてね」


 話し始めながら、宏樹が車のドアを閉める音がスピーカーから聞こえて来た。と、同じタイミングで家の前でもドアの閉まる音が聞こえた気がして、優香は「あれ?」と首を傾げる。

 そして、まさかと思いリビングの窓に近付き、カーテンを捲って外の様子を覗いた。


「ど、どうしたの……?」


 自宅の門扉の前で、宏樹がこちらに向かって手を振っているのが見えた。今まさにインターフォンを押そうとしていたところらしく、先に気付かれてしまったかと悪戯っぽく笑っている。


「差し入れのつもりで、適当に買って来たんだけど。陽太がインフルなら、直接会わない方いいかな?」

「ありがとう。でも、宏樹君までうつったら困るし……」

「うん、分かった。じゃあ、玄関の前に置いてくから、後で取りに出てくれる?」


 通話を切ってから宏樹が玄関扉前まで歩いてくるのを、優香は窓越しに見ていた。こちらを向いて優しく笑い掛けてくる宏樹は、手に大きなビニール袋を提げている。それを玄関にそっと置いていく姿を見送っていると、いつの間にか一緒に窓の外を覗き込んでいた陽太が、宏樹のことを呼ぶように窓ガラスを叩き出す。


「うん、今日は宏樹君とは遊べないの。陽太が元気になったら、また遊んで貰おうね」


 窓を叩いて呼び掛けてくる甥っ子に気付いたらしく、宏樹が大袈裟なくらいにブンブンと手を振って見せる。それに対して、さらに陽太が窓ガラスを興奮気味に叩き返していた。

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