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第一話・大輝との結婚生活

 普段はどんなに短くても三時間は寝てくれる息子が、昨晩は三十分置きに目を覚ましては泣き出した。布団に寝かしつけてみても、すぐに起きてグズって泣き始める。抱っこしたまま、ミルクをあげた後もリビングのソファーに座って一晩を過ごした。

 途中、何度も時計を確認して、窓の外が明るくなっていくのを静かに眺めた。


「あれっ、おはよう……陽太、昨日はずっと泣いてたね。優香も寝れてないんじゃない?」

「おはよう。下ろした途端に起きるから、ずっと抱っこしたままだよ……」


 授乳で夜中に何度も起きることになるからと、一人で二階の寝室で寝ていた夫にも、夜中の息子の泣き声が聞こえていたらしい。リビング隣の和室に敷いたままの布団へと、優香は恨めし気に視線を送る。結局、昨夜は一度も横になって眠ることはできなかった。

寝不足と疲労感が全身を気怠く襲い、窓から差し込んでくる朝日に目を細める。


「昨日、病院に連れていったの、怖かったのかなぁ……?」

「なんでだろうなー。とにかく、優香も眠れそうな時に寝るようにして」


 夫である石橋大輝の優しい言葉に、優香は分かったと頷き返す。寝不足で顔色の良くない妻の前にホットミルクが入ったカップを置いた後、大輝は部屋着代わりにしていたTシャツを脱ぎながら洗面所へと向かっていく。その鍛え上げられた背筋と広い肩幅を眺めつつ、優香は大きな欠伸を漏らした。


 昨日は息子、陽太の一か月検診があった。実家への里帰りはせず、週に何度か母親に手伝いに来て貰うという形で乗り越えた産後。ようやく産院からも外出の許可が下りたとホッとしたのも束の間、病院での診察が引き金になったのかは分からないが、昨晩は泣いてばかりで全く寝てくれなかった。


 母乳が足りないのかと粉ミルクを足してみてもダメで、夜中には子供を抱っこしたままリビングの中を何度も歩き回った。歩く振動が心地良いのか、目を閉じて静かな寝息を立て始めても、布団に置いた途端にカッと覚醒してしまう。まるで背中にスイッチでもあるかのような反応だ。ひたすら、それの繰り返しだった。


 廊下を挟んだバスルームから、夫がシャワーを浴びている音が聞こえてくる。筋トレが趣味な大輝は起床後すぐ、寝室の床で腕立て伏せやスクワットをして身体を動かすのが日課だ。そのかいた汗を流して初めて一日が始まるのだという。


 大学時代に友達から誘われて入ったバスケットボールのサークルで、夫とは出会った。いわゆる飲みサークルとは違い、公式の部活に匹敵するくらいのガチなサークルで、大学近くのレンタルコートが主な活動場所だ。三つ上だから一緒に在籍していた期間は短いが、バスケは中学以来だった優香の面倒を一番よくみてくれた先輩が大輝だ。


 お互いに当時は全く別の彼氏彼女がいたし、まさか将来結婚することになるなんて想像もしていなかった。ただの先輩後輩でしかなかったのに、今は夫婦になって子供まで生まれている。世の中は予想も出来ないことで溢れている。その高校時代から付き合っていた彼氏の浮気が発覚して別れた夜、チェーン店の焼き鳥屋で生中片手に管を巻いている時、背後から半笑いで声を掛けられた。


「おう、塚田、久しぶり。なんか荒れてんなー?」


 五年ぶりに再会した大輝は、以前よりもさらに筋肉マンになっていて、あまりにもスーツが似合ってなくて。名前を呼ばれて振り返った瞬間、優香は声を出して笑ってしまった。それまではもう完全に泣く寸前だったにも関わらず。


 「筋肉は裏切らない」というよく聞くフレーズを口癖のように言っていた大輝は、前彼とは違って優香のことを裏切るようなことは一度も無かった。ただ、筋トレを優先して後回しにされることはしょっちゅうだったけれど……


 二十五歳の誕生日にプロポーズされ、その二年後にはマイホーム購入と妊娠、出産と慌ただしくも順調で、傍から見ても幸せな結婚生活を送っていた。仕事で出産には立ち会うことはできなかったが、初めての我が子を大きな手で抱き上げた時の、夫の潤んだ顔は忘れることはない。あの顔を見たら、難産で辛い思いをしたことなんて記憶から一瞬で吹き飛んだ。この人の子供を産むことができて良かったと、産後の疲弊していたはず頭の中が幸せに満ちた。


「食べたい物とか買ってきて欲しい物があったら、メッセージ入れといて」


 じゃあ、行ってくるね、と優香が抱っこしている子供の頬を人差し指で突いてから、妻の頬には優しく口付けていく。名残惜しそうに眉を歪めた夫の頬を、優香は片手を伸ばして優しく撫でて「頑張ってね」と笑ってみせる。そして、リビングを出ていくスーツ姿の夫の背中へ「行ってらっしゃい」と声を掛けて見送った。後ろ手を振って出て行く夫の様子は、いつもと何一つたりも変わらなかった。


 夕方、二階のベランダから取り込んできたばかりの、まだホカホカと温かい洗濯物を畳んでいると、普段は静かな固定電話が鳴り出した。夫や友人からの連絡はほぼ携帯に掛かってくるから、家の固定電話が鳴るのは滅多にない。何となく嫌な予感がした。虫の知らせというやつだったのかもしれない。

 呼び出し音に驚いて、「ふぇっ」と小さく声を上げ始める息子を急いで抱き上げる。そして、赤子を片腕に抱っこしたまま電話に出た。


「はい。石橋です」

「あ、石橋大輝さんの奥様でいらっしゃいますか?」


 聞き覚えのない、男性の声。少し慌てているようで、早口で一方的に話をし始める。背後に聞こえてくるのは、徐々に遠ざかっていく救急車のサイレンの音。ざわついた周囲に、何かあったんだと察するしかない。


「あの、私は石橋さんの同僚で金子と言います」


 夫の勤める建設会社の同僚だと名乗った金子は、大輝が担当する建設現場で資材の落下事故が発生したと告げる。そして、夫が高さ五メートルから落ちてきた鉄材の真下にいて、たった今、救急搬送されたのだと。


 その後、電話の向こうの金子が何を言っていたのかははっきりとは覚えていない。ただ、病院名をメモした紙を握りしめて、息子を抱きながら部屋着のままタクシーに飛び乗ったことは覚えている。

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