姉の置き土産
クリスティンが創作活動に目覚めたそもそものきっかけは、姉メリッサが巷で流行っている恋愛小説の虜になった事に遡る。
メリッサは無事婚約者と結婚したのだが、三歳年上の婚約者は侯爵家の嫡男で、それはもう美の化身のような男性だった。身分、権力、美貌を兼ね備えた男の婚約者になったメリッサは、女性達の嫉妬を一身に受けたが、彼女はそんな事くらいではへこたれない強い心の持ち主だった。嫉妬に駆られて嫌がらせをしてくる相手は徹底的にやり返す。頭が切れて弁が立つメリッサは全戦全勝だった。
そんな姉にも弱点があってそれが恋愛小説だった。お姉様って意外とロマンティストなのねとクリスティンが言うと、これらは恋愛勝者を目指すために必要な指南書なのよとメリッサは笑った。
「なんだかときめきが足りないのよ。ジェラルディン様はそれはもう素敵な紳士よ。お顔だって美しすぎてキラキラと輝いていて眩しくて直視できないくらいなの。だけどなんて言うのかしら、殿方に強引に唇を奪われるような、胸の動悸が止まらないような、そんなときめきに憧れない?ちょっと危険な香りのする男に、女は惹かれるものなのよね」
「お姉様、そのような欲望に塗れた発言は誰が聞いているかわからないからやめた方がいいわ。しかもまだ13歳の妹に話す内容じゃないと思うの」
当時メリッサは17歳、ちょうど今のクリスティンと同じ歳だ。
「わかってるわよ、だからコレなのよ」
と、クリスティンの目の前にどんどん積んでいくのは巷で流行っている恋愛小説だ。
「ほら、わたくしは光り輝くジェラルディン様と結婚するじゃない?まあ言わば恋愛勝者なわけ。だからもう全く必要ないものなの。これ全部クリスにあげるわ」
「要らないわ。貰っても困るだけよ。未だ13歳のわたしには愛だの恋だ早すぎると思う。お母様が聞いたらきっとお怒りになるわよ」
などと妹が常識的な発言で暴走する姉を諌めたのが、姉はつまらないわと鼻を鳴らした。
「お姉様ってば。レディはそんなはしたない事しないのよ」
「いいのよ、クリスとわたくししかここには居ないじゃない。誰も聞いちゃいないわ」
メリッサはクリスティンに詰め寄ると、その美しい顔を近づけてきた。
「クリス、13歳はまだ蕾だけれど、これから爛漫に花咲かせる乙女なのよ?恋愛に憧れて当然なの!貴女はそろそろ恋のお勉強を始めなさい。そうしたらクリスにも、ジェラルディン様には見劣りしても、素敵な婚約者のひとりやふたり見つかるわよ」
「婚約者はひとりで充分だし、お父様が見つけて来てくださるからいいのよ。そもそもお義兄様のような美形が何人もいたら困るじゃない」
そんな攻防戦の後、多数の恋愛小説がクリスティンの部屋に残された。メリッサは置き土産をして嫁に行ってしまった。
あの自己肯定感が強く我が道を行く姉が虜になった愛小説を、折角だから読んでみようかしらとページをめくったクリスティンは、どっぷりとその世界に嵌ってしまった。姉の置き土産の本は、真面目と勤勉が取り柄だったクリスティンに大きな刺激を与えた。
「恋は人生を豊かにもするし貧しくもする、両極端だから匙加減が難しいのよ。
溺れて浮上できない恋もあれば、失恋が人生の道標となることもあるわ」
クリスティンは恋愛経験もないのに、既に悟りを開いた境地である。恋愛とは実に奥深い。家族への愛情が温かなミルクのようだとしたら、恋愛はお父様の好むお酒のようだわ。香り高く魅惑的だけれど、摂りすぎると身体に毒よ。
こうして客観的に恋愛を分析する少女、クリスティン・エマーソンが誕生した。そのうちに読むだけでは飽き足らず、自分でも書いてみようと思ったことで、クリスティンは更なる成長を遂げた。
美貌の姉と兄がいて、常に比較されて良いところなんて何にもなくて、下手をすると引き篭もりになっていたかもしれない。そこから掬い上げたのが姉の残した恋愛小説達だ。登場人物たちの喜びや悲しみを感じることで、他人は他人自分は自分、だから誰と比較しても仕方ない、わたしはこのままでもいいのだと思えるようになった。
メリッサにそんな意図はなかったけど、クリスティンに良い影響があったから結果オーライなのである。
「どんな人でも恋に振り回されるわ、恋は切なくて苦しいわ。だけど美しい思い出とともに色褪せる事はないの」
恋の経験もないのにたくさんの物語の恋を知ったクリスティンは、取り憑かれたようにノートに物語を書き綴った。そして、他人からの客観的な評価が知りたくなって、学院の友人に読ませて感想を聞かせて欲しいと頼んだ。
選んだのは短編だからすぐ読める量だ。休み時間にあっという間に読み終えた友人は、面白かったわ!これ貴女が書いたの?と、目を輝かせて食いついた。
このお話を他の方にもお見せして良いかしら?他にも作品があるなら是非とも読ませて貰えないかしら、と友人に頼まれて、クリスティンの書いた作品達は、あっという間に少女達の間で回し読みされた。
友人達の感想は概ね好意的で、同年代の少女が描く等身大の恋愛は彼女達の琴線に触れたようだった。
恋に夢みる乙女達は、クリスティンの妄想が生み出した切ない恋や胸躍らせる恋、美しい貴公子に美姫、失恋に嫉妬や溺愛といった物語に心を揺さぶられた。それは自分が恋愛小説に心を掴まれたのと同じだと思った。
貴族令嬢にとって、親の決めた婚約者と結婚するのは義務だけど、恋愛小説のヒロインに自分を投影して一喜一憂するその心は自由なのだ。
そして今、クリスティンは叶わぬ恋を弔うために自分をヒロインとした小説を書いている。
せめて作り話の中では幸せになりたい。だから登場人物の名前が似ているのはご愛嬌だ。
この作品の読者は自分ひとりだけ。そのたったひとりの読者の為に渾身の思いで筆を走らせるのだが、何故だか登場人物達は思ったように動いてくれず、クリスティンはスランプに陥っていた。
*
一方、結婚しない宣言を聞いたクリスティンの父親の様子は、あの夜から少々おかしい。
エバーソール伯爵家のみそっかすと揶揄されている娘が、心無い言葉に傷ついて将来を儚んでしまったのかと、父親は衝撃を受けていた。
「だからと言って公爵家からの申し込みをおいそれと受けるわけにはいかんだろう?だってクリスだぞ?可愛いクリスに次期公爵夫人などという激務を背負わせたくない。
どんな嫌がらせを受けるかもしれん。もしかすると婚姻は隠れ蓑で、愛人を囲うつもりかもしれんじゃないか。
言いなりになりそうな家格の家の娘だったら誰でも良いのだとしたら、そんな話を受け入れられるはずがないだろうが!」
保留しているのは相手が公爵家であるからで、エマーソン伯爵は相手から申し込みを取り下げてくれないかと願っている。
しかしそうなればそうなったで、うちの可愛いクリスのどこが気に入らなかったのだ!と激昂するのは想像に難くない。
そんな夫を慰めながら母は確信していた。
きっとクリスは公爵子息と結婚するわ。だってわたくしの娘なのですもの。
「旦那様、物事はなるようにしかなりませんわ。クリスティンの幸せを願うなら邪魔してはいけませんよ」
伯爵は美しく微笑む妻に力無く頷いた。




