第3話 盟友のラボ
もうこれ以上は耐えられない。これ以上こいつの好きにはさせない。「うおぉーっ」という雄叫びとともに、ラウラは渾身の力を込めて両肘を張った。ゴムのようにまとわりついていた翅が少し破れ、拘束する力が緩んだ。その瞬間、足元に並んだ武器からパニッシュを取ると、これ以上ないほどの至近距離から敵の頭にそれを撃ち込む。反動でトリガーにかけた人差し指がわずかに震えた。次に起こる変化に備え、ラウラは上体を出来る限り反らして敵から離れた。翅による拘束はまだ解けていないのだ。
エンジェルの顔が歪んだように見えた。そしてそれがかすかに膨張する。その直後、黒く大きな眼の奥から髄液のようなものが滲んだかと思うと、じゅわっと洩れ出した。スポンジに含んだ水分を絞るように、やや粘度のある体液が目から洩れているのだ。それはやがて口吻の先端からも溢れるようにしたたり、ラウラのデビルスーツの胸を汚した。
「いやぁーっ!」
と悲鳴をあげたラウラは、デビルスウォードの柄を握りしめ、エンジェルの顔を滅茶苦茶に切り刻んだ。ラウラを拘束していた翅から力が抜け、赤い脚がだらりと垂れる。顔を失ったエンジェルは、ラウラの体温を惜しむように、その丸い膝に肛門付近を擦りつけながら落下していった。
墜ちてゆく敵をボードの上から見下ろし、ラウラは肩で大きく息をしていた。まだ心臓は激しく打っている。こんなに気持ちの悪い攻撃を受けたのは初めてだ。なんて汚らしい、なんてけがらわしい……。ラウラは両腕で自身の肩を抱き、このままでは収まらないという顔で下を睨みつけている。
「ラウラ副隊長、私が徹底的に跡形もなく焼き切ってやります!」
ラウラの叫び声を聞いたシアラが下から言う。たった今ラウラが処理したエンジェルが落ちてくるのを待ち構え、それを焼くつもりなのだ。シアラはラウラを動揺させたエンジェルが許せなかった。たとえ悪い意味だとしても、ラウラの気を引いたという事実を許すことは出来ないのだった。
すでに絶命している顔のないエンジェルを、シアラの炎が覆う。まったく反応のない、モノとなった敵であっても、灰になるまで処理しきらなければ憎くて仕方がない。シアラはラウラに心酔していた。
「ラウラ副隊長、大丈夫か。らしくないな」
まとわりついていた敵をすべて処理したイザークが、心配そうに寄ってきた。
「ごめんなさい。なんだかバカにされたような気がしてしまって。取り乱して悪かったわ。ブリクサが気づいてないなら、黙っていてね」
いつもクールで落ち着いていて、ブリクサをも諫めるようなラウラが、戦いの最中に叫ぶなど、ありえないことだった。きっと、過去にエンジェルと何かあったのだろうと、イザークはそれ以上はなにも言わなかった。
「これで終わりかしら? 他の班はまだかかりそう?」
周囲を見回し、ブリクサもエルも敵の処理が終わったようだと、ラウラはイザークにぎこちない笑顔を向けた。
大量のエンジェルの死骸で、足の踏み場もないほどだった。いや、処理の済んだ死骸などただのゴミだ。奴らの死体なんてゴミクソ以下だよ……。
倒れたエンジェルを踏み散らかし、ギラギラと瞳を輝かせながら、ギデオン班のカリタはまだ暴れていた。
戦いはもう済んだ。今回もB.A.T.の圧勝だ。だが、エンジェルを痛めつけ、ただ殺しただけでは気が済まない。カリタはわざととどめを刺さず、瀕死のエンジェルたちの首を縊り、翅を焼き切り、胴体を削ぎ切りにして踏みつけた。
「カリタ! もうやめなさい。過剰殺傷はルール違反ですよ。それに、時間と装備の無駄遣いです。敵といえども命あるものです。私たちはそれを奪っている。死んだものを冒涜するようなことはやめてください」
同じ班のアンがいつも注意するのだが、カリタは聞く耳を持たない。
「また優等生か。あんたはこいつらが好きなんだねぇ。それに、あんたの言うことは正しいけどつまんないんだよ。いつもいつも庇うようなこと言っちゃって。なんでそんな人がB.A.T.に入ったのさ」
アンに対して鼻で笑いながら、カリタが答えた。そうだ、こいつらが憎くないなら、なんであんたはここにいる?
「わたくしは、大切な人たちを守りたいからですわ。もう一度、エンジェルのいない世界を取り戻したいからです」
胸を張って言うアンを見つめ、カリタは括ってあったエンジェルの死骸をアンの方に投げた。
「カリタ!」
怒りを露わにするアンを、駆け付けたギデオンがなだめる。
「アン、いつもカリタを心配してくれてありがとう。きみたちはとても優秀な隊員なんだ。こんな揉め事さえなければね」
ギデオンのやさしい笑顔は、尖った気持ちをやわらかくほぐしてくれる。アンとカリタ、ふたりの肩を同時にぽんぽんと叩き、「撤収するぞ」とギデオンは言った。
「はーい、撤収、撤収!」
エンジェルを括ったワイヤーを回収しながら、カリタは投げやりに言う。そんなカリタに副隊長のツヨシが近づいてそっと話しかけた。
「カリタ、今日もやりすぎだったな。家には帰ってるのか? メシはちゃんと食ってるか? たまにはうちに食いに来いよ」
アンとはそりが合わないのか、小さな揉め事が絶えないふたりを、ツヨシはとても気にしていた。特に、家族仲が良くお嬢さん育ちのアンとは対照的なカリタは、誤解されやすいのだ。本当は寂しがりでやさしいということを、ツヨシは良くわかっていた。
「はい、大丈夫です。家に帰っても居場所はないから」
哀しそうな笑顔のまま背中を向けたカリタを、ツヨシは複雑な思いで見つめていた。
各国のB.A.T.戦闘部隊では、もっとも優秀な戦闘力を持つ隊員で構成された第一軍から、第二軍、第三軍とその能力の評価は下がる。しかし第四軍までの隊員はみな、厳しい訓練によって高度な知識と技術を体得し、入隊テストに合格した者だ。彼らだけが、B.A.T.のバッジを着けることを許されている。
各軍はそれぞれ八人編成の八つの班から成り、一軍から四軍の三十二班、計二百五十六名が正式な隊員として登録されているが、それぞれの班にはもちろん、常時補欠要員が数人ずつ控えている。また、エンジェルとの戦闘に特化して新たに創設されたB.A.T.以外の、従来からの陸海空軍も援軍として常に出撃体制を整えていた。
前回の戦闘から四日後の四月五日。この日は新人の入隊式が行われた。
ちょうど一年前、安全なはずのシェルターで暮らしていた民間人が、突如飛来したエンジェルの大群に襲撃され、一名の犠牲者を出した。その男を養父として生活していた少年・エイジは、その直後B.A.T.入隊のための訓練校へ進み、一年間の厳しい訓練に耐え、入隊試験に合格した。そして、あの日ブリクサに宣言した通り、エイジはエンジェルを全滅させるという強い意志を持ち、ブリクサ班への編入を志願したのだ。
新人たちは入隊式のあと、B.A.T.の全体集会に臨む。上官の訓示、各自が配属される班の発表、先輩隊員との顔合わせを済ませると、すぐに班ごとの訓練へと移る。そしていつでも出撃できるように心身を整えるのだ。
入隊式の間、隊員たちは制服を着けて新人を迎える準備をする。しかし、肝心のブリクサはブリクサ班の控室にいなかった。
「エル、ブリクサが見えないんだけど、どこにいるか聞いてる?」
「聞いてはいないが、おそらくクラウスのところだろう」
クラウスは、元はB.A.T.の戦闘員だったが、ある時の任務で怪我を負い、それ以降は隊員が使用する武器や装備等を開発・研究する技術部に異動し、現在はトップの位置にいる。三百名近い隊員の戦闘力や個性に合わせた武器を作成し、個人的な趣味からおよそ軍用とは思えないデザインのものを作り出したりもする、少々変わった男だ。ブリクサとは古くからの友人であり、班のメンバーよりもブリクサのことをよく心得ているといえる。その変わり者のところにいる時のブリクサは、ラウラやエルにも見せない表情をすることもあった。
「またクラウス……。あの変人に捕まるとブリクサはなかなか戻ってこないのよ。もう全体集会が始まる時間なのに。仕方ないわね、気が進まないけど呼んでくるわ」
「全体集会の時間を忘れるわけはないだろうが、まあ呼びに行く方がラウラは安心だな」
頬に手を当ててひとつ溜め息をつくと、ラウラはエルに背を向けながら礼を言い、技術棟へ向けて歩き出した。
周囲のどこに視線を巡らせようと、機械以外にはないクラウスのラボにいるとき、なぜかブリクサはくつろいだ表情を見せる。
「先週、テストしただろ? あん時よりも威力は上がってるぜ」
黒く艶めいたブリクサの左腕は、持ち主の身体を離れ作業台の上に横たわっていた。クラウスがリモコンで操作すると、その指は瞬時に三倍ほどの長さに伸び、鋭利な刃物のような状態になった。しかも、その状態で指先から発射されるのは、鉛弾、レーザー光線、火炎弾、液状の化学物質と、自在に選択できるのだ。
「……クラウス、お前、ふざけすぎじゃねえか」
「そんなことねえよ。どんなに過酷な現場だろうと、冷静な判断を下せるお前だからこそ作ってみたんだぜ。ちょっと着けてみろって」
右手を伸ばし、黒いそれをつかんだブリクサは、目の前でしげしげと眺めたあと、無言で作業台に戻した。
「なっ、また気に入らねえのかよ。今度はなんだ、理由を言え」
「……ダサい」
「お前なぁ……!」
「それぞれの指ごとに仕掛けなんかなくていい。そんな小賢しいことを現場でやるのは好きじゃねえ。それにこれは、いらん機能を詰め込まれて太すぎる。俺の手じゃねえよ」
「いや、お前の言い分もわかるよ。わかるけどな! お前はもっと真剣にエンジェルのことを考えていいと思うぜ。奴らだって、いつまでも同じ生態のままだとは限らないだろう。俺は、次に奴らがどこかに現れた時、前と同じようにいかなくても対処できるようにだな!」
クラウスが大きく息を吸い、何かを言おうとしてはっと言葉を呑みこんだ。その顔を見上げると、ブリクサは瞳の色のトーンを落として曖昧な表情をする。
「悪り。そんなことは言われなくてもお前がいちばん良くわかってるはずだよな」
「お前の言うことは間違ってねえよ。あれは、俺の判断ミスだった」
「そっ……まだそんなこと思ってんのか。そうじゃねえだろ、あれはリョウスケが」
クラウスが言いかけた時、ラボの扉が開く音がした。ふたりがそちらを見ると、ラウラが頬をひきつらせながら近寄ってくる。
「ブリクサ」
「ああ、わかってる」
クラウスはすでにブリクサの左腕を装着し始めていた。肩を回し、動きを確認するブリクサ。
「じゃあな、クラウス。もっとクールなやつを作っといてくれよ」
片手を上げ、ブリクサはラウラの後を歩き出す。少し離れた場所でボードのメンテナンスをしていたコタロウは、ふたりが出ていくと気になったことをクラウスに訊ねた。
「師匠、ブリクサさんは過去に何かあったんですか? それはあの人が単独で行動することと関係があるんですね」
ブリクサの大ファンを自認するコタロウは、出動した際のブリクサにかかる負担をできるだけ軽減させるために、自分に出来ることは、と常に考えている。だが、クラウスはそんなコタロウの頭にぽん、と手のひらを置いて微笑む。
「お前に心配されるようなあいつじゃねえよ。だが、その気持ちは失くさないでくれな」
いつか、コタロウにも話してやる機会があるだろうかと思いながら、クラウスは閉じた扉の向こうのブリクサに手を挙げた。