第37話 臨海シェルター
臨海地区にあるこの巨大なシェルターにも、エンジェルが襲来する以前からの商業施設やマンションなどが立ち並び、居住者の数はおよそ二十万人にのぼる。その周辺地域への群れの襲来がなにを意味するのか。
昨年エンジェルに侵入され、ミハイルという「犠牲」を出した等々力シェルターの件と、何か繋がりがあるのではないかと、ブリクサはあの日の様子を思い出す。
そしてギデオン、イマヒコと意見を交わすと、上空に張り巡らされたアウターウェブに異変はないかと、ドローンを飛ばして調査を開始させた。
『こちらイマヒコ。たった今、出動したドローンの半数を飛ばしたわ。それぞれがアウターウェブに接近するまでが約一分。そして対象を確認するのにさらに一分程度かかると思う。わかり次第報告します』
イマヒコからの通信を聞き、ブリクサとギデオンは顔を見合わせる。ふたりの頬に緊張が走るのを、すぐ横でラウラは見ていた。
「もしもアウターウェブに異常が見つかったら、また一般人が襲われる事態になるかもしれない。そうしたら、すでに殉職者も出している私たちは圧倒的不利になる。奴らがこれから増える可能性もゼロではないわ。今こうしてバラバラになって戦うよりも、シェルターの安全を守ることにシフトした方がいいんじゃないかしら」
ボードの振動のせいなかのか、ラウラの声は微かに震えている。やはり、ミハイルという「犠牲者」を出してしまったのは自分のせいだと、いまだに心を痛めているのかもしれない。
仲間が操作する火炎放射器から、地獄の業火のような炎が放出されると、第四軍のヨウヘイ班に配属されてから、もう何年も戦っている隊員が炭のように黒焦げになった。
同時に焼かれた彼のボードや武器と共に落下してゆく死体を見て、炎を乱射していた隊員は正気に戻ったが、自分がしたことを現実として受け止めきれず、絶叫しながら彼の名前を繰り返した。
日々の鍛錬など、今の彼には何の役にも立たない。自身の上空から翅を立てた六匹のエンジェルが急接近してくるのにも気づけないのだから。
その様子を少し離れた場所で戦っていたカイトが見つけ、同じ班のジンと共に急行する。
彼めがけて襲来してくるエンジェルを挟み撃ちにし、至近距離から火炎弾を乱射すると、六匹のエンジェルはすべて絶命し、体中に開いた黒い穴から煙を出しながら、地上を目指していった。
だが、助かったはずの隊員は蒼ざめ、ボードの上に膝をついてそれを拳で叩いた。
「くそっ! くそっ、どうなってんだよ!」
空中でボードを並ばせたカイトが、彼の肩に手を置いて問いかける。
「落ち着け。周りをよく見て答えろ。ヨウヘイ班で残っているのはもうお前だけか?」
カイトに訊かれ、マチルドは呼吸を整えてからゴーグルを装着した。周囲を見回すが、目視できる範囲に同班の隊員はいない。メモリを切り替えて各所で戦っているはずの仲間の信号を確認すると、生体反応は一点だけだった。
「……いえ、ジローが九時の方角で戦っている模様です」
疲弊しきった声でマチルドが答えると、カイトは肩に置いた手にぐっと力を込めた。
「そうか。一人でも生きていてくれてよかった。マチルド、お前は今から俺の、カイト班として戦え。奴らの目を見ちゃならないのは知ってるな。もう失敗するんじゃねえぞ」
「はい!」
この日、この一帯に発生したエンジェルのすべてが「人の脳を操れる新種」というわけではい。
人間を操作できる個体とそうでない個体があり、見た目では判別できないというのが、ゲイザーからの通信で確認できたことだ。
五人からいきなり二人になってしまったゲイザー班を援護するため、ヘスティア班の隊員四人が飛んでいった。もっとも、カイト班の四人も今日はヘスティア班と合流し、ヘスティアを隊長として出動しているのだが、やはり元より自分の班の隊員と連携する方が、当然やりやすい。
自分はヘスティアに嫉妬している、それを他者にも悟られていることを、カイトも自覚していた。
そして、自分はたとえ腕力ではヘスティアに勝てたとしても、彼女の方が戦局を見極める冷静さを持ち合わせているし、作戦の立て方もうまい。隊員たちからの人望も厚く、優れた戦士であるということも。
だからなおさらカイトは、今回の出動をきっかけに自身を鍛え直そうとしていた。
だが、現状はこのありさまだ。自分の班の者しか守ることもできず、マチルドは憔悴しきっている。
もちろん、臨場した以上は自分の身は自分で守り、戦う意志を失うということは、すなわち自身の死を意味するのだが、一軍から四軍まで各八班、たった三十二人の「隊長」に選ばれた、誰かの上に立てる人物だという自負があるからこそ、マチルドを励ましてやりたかった。
「カイト隊長」
ふたたびマチルドの肩を叩いて元気づけようとしたそのとき、横からジンが声をかけてきた。副隊長のジンは、カイトが冷静さを失っている時のストッパーのような存在で、状況判断力にも長けている。
「先にアンリとルカをジローの援護に向かわせました。我々三人でこの区画の奴らを処理してから合流したいと思いますが、隊長のご判断はいかがでしょうか」
ジンがカイトの下についてから、すでに数年が経っているが、現場ではいつまでもこんな口調で話す。もっと普通に話せと何度言っても、この緊張感が好きなのだと笑っていた。
「そうだな……。あいつらが無視させてもくれないらしい。なかなか分が悪いが、ここで死ぬわけにもいかねえよな」
マチルドにはっぱをかけ、カイトが首元の通信機に向かって声を張る。
『こちらカイト。ジン、アンリ、ルカ共に無事だ。ヨウヘイ班のメンツが奴らに操作され、マチルドとジロー以外がやられた。いまからマチルドとジローの二人を俺の班に入れて、計六人体制を取る。ヘスティア、そっちはどうだ』
ヘスティアはすぐには返答しなかった。数秒間ノイズだけが聴こえる中、カイトは焦れてヘスティアの名を叫ぶ。
『おい、ヘスティア! 無事なのか? 応答しろ』
ゴオッと強い風のような音がしたあと、やっとヘスティアの声が聴こえてくる。応答出来ないほどの戦闘中だったようだ。
『こちらヘスティア。ゲイザーとスピカは無事よ。こっちも合流して六人で戦ってる。数十匹の群れが絶えず襲ってくるけど、今のところ操作する個体とは遭遇してない。カイトたちも、とにかく奴らとの距離に気をつけて。以上』
やや荒い息遣いではあったが、仲間の声を聴くことが、こんなにもありがたいと思ったのは初めてだった。
カイトはヘスティアの言葉を噛みしめるように一瞬だけ目を閉じ、マイクに向けて力強く言う。
『了解。ヘスティア、死ぬんじゃねえぞ』
『カイト、あなたたちも』
通信を切ると、カイトは猛スピードで突進してくる数匹のエンジェルから目を逸らし、それぞれのボードの縁に寄ってジンと背中を合わせた。
カイトの専用武器・ティアブレードは、大型のサバイバルナイフのような形状をしており、その体格と剛力も相まって、カイトは接近戦ではかなりの実力者だ。
だが、「奴らの目を見てはならない」今日の戦いで圧倒的に不利なのは言うまでもなく、逆にジンは適任だった。
「よーし、お前らきちっと整列してろよ」
ジンが好んで使っている武器は、アサルトライフルのような銃身から電撃を放つレールガンだ。銃口はやや広めに設計されており、その特性から、火薬を使う火炎弾よりもかなりの高スピードかつ、中距離からの攻撃が可能だ。
ジンはレールガンを肩に載せると、数キロメートル先で群れをなして飛ぶエンジェルめがけて発射させた。
被弾した奴らの身体は瞬時に破裂し、どろどろとした青い体液をぶちまけながら落下してゆく。
レールガンでとらえきれなかった個体は、カイトとマチルドが火力を最大まで上げた火炎放射器で焼くと、まるで初めから奴らなどいなかったように、そこに青空が広がった。
『こちらカイト。ヨウヘイ班はマチルドとジローを残し、他隊員は残念ながらやられました。カイト以下三名は、ヨウヘイ班の二名と合流し、奴らが海上に逃亡しないよう処理します。ブリクサ隊長、そちらの状況を知らせてください』
ブリクサの名を呼び、カイトは緊張に頬をヒリヒリさせなから応答を待った。数秒ののち、低く抑えた声でブリクサがマイクに向けて言う。
『……こちらブリクサ。全隊員に告ぐ。目視できるクソ共を処理し次第、臨海シェルターの西門付近に集合してくれ』
臨海シェルターは、このエリアに近接している大型シェルターだ。その門付近への招集と聞き、各隊長たちの表情が深刻なものになる。
語りかけたカイトが聞き返す言葉を探していると、ブリクサの通信は切れ、すぐにラウラがいつになく早口で話しはじめた。
『こちらブリクサ班のラウラ。みんな、落ち着いて聴いてちょうだい。昨年春にエンジェルの侵入を許した等々力シェルターと同様、この臨海シェルター上空のアウターウェブに、ひびのような箇所がみつかった。加えて、現時点においてもいまだ指令室との通信は不能。シェルター内の住民に避難を呼び掛けている時間はない。そこがエンジェルに破られるかどうかは不明。でも、一年前のアウターウェブがなぜ破られたのかも、まだ解明されていない。奴らが入ってくるとは考えたくないけれど、念には念を入れて、この場所を死守したい。一人でも多くの戦力が必要よ。みんな、自分の命を守って。そして、大至急集まって』
必死に訴えるようなラウラの言葉に、誰もがごくりと唾を飲み込んだ。
等々力シェルターに出動しなかった隊員も、その日のことは聞いている。一般人を守りながらエンジェルと戦うことの難しさは、訓練だけではわからない。
『……了解』
『了解!』
仲間たちの死を悲しむ暇もなく戦い続けなければ、人類に明日はない。出動した全員が、思い出したように恐怖を顔に貼りつける。それでも、敵は待っていてはくれないのだ。
「うおあぁぁぁぁ!」
喉が裂けそうなほど叫びながら、エイジが天使を焼く。
焦っていたせいで、その炎は大部分が空中に無駄に放出された。だが、その中の一匹の胴体が重い音とともに爆ぜたとき、イザークの動きがぴたりと止まる。そして、エルの腕を捩じり上げていたことに気づくと、自分を振り向いているエルと目を合わせた。
「エル、俺は……」
「俺なら大丈夫だ。もう少しで腕がもげそうだったけどな」
肩を付け根からゆっくり回し、エルが顔をしかめながら言う。
「エルさん、イザーク。無事ですね!」
エイジはふたりのボードに接近すると、泣きそうな顔で言った。そして今ので確信できたと、首元のマイクに向けて話す。
『ブリクサ班のエイジです。みなさん、人を操作するエンジェルを殺せば、操られていた人は元に戻ります。だから、少人数での行動はやめた方がいいです』
遠慮がちに言葉を選ぶエイジの背中を叩き、エトワールを拾ってきたカルマは大げさに肩をすくめた。
「エイジ、もっと自信持ちなよ。いまのはいい動きだったよ。それより、ブリクサとラウラからの通信は聴こえてた? シェルターの西門付近に集合だってさ」
自己を失っていたせいで、イザークはそれを聞き逃していた。エルの耳にはかろうじて届いていたが、気が遠くなるほどの痛みで、細部までは頭に残っていない。頭に血がのぼっていたエイジは、もちろん何のことだかわからない。
「アウターウェブにひびが見つかったんだって。シェルターに侵入されないよう、死守するつもりらしい」
カルマの頬にも緊張が走る。イザーク、エルも厳しい顔で頷いた。
エイジの脳裏には、エンジェルの翅で刎ねられたミハイルの首が、芝生の上にごろりと転がった残像が甦り、脳だけになった今の姿とはなかなか重ならなかった。




