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片翼の悪魔  作者: 紀國真哉
第二章 エンジェル
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第35話 赤と紫の密談

 室内には人間の息遣いが静かに響いている。

 やや大きく深い呼吸をしているのは、それなりに年齢を重ねた男のものだ。

 そしてもうひとつ、耳を澄まさなければ聞こえないほど微かな、まるで子どもの寝息のように呼吸をしているのは、若い女と思われる。


 静謐だが不穏な空気に満ちたその部屋は、赤や紫、プラムのような濃いピンク色の光が重なり合うようにしてミハイルを照らしている。

 良質な酸素を充分に吸い込み、機嫌の良さそうなミハイルは、傍らに立つ男の独り言のような問いかけを繋がれたコードを通して聴いた。


「しかし、君は大した男だ。あの日あの瞬間に自分の役割を理解し、こうしていま、B.A.T.の管理下にいるとは。もっとも『管理下』とは便宜上、君の置かれた状況をあらわす言葉にすぎないがね。今後B.A.T.隊員たちは、君が小出しにする情報に翻弄され、真実を知ることも叶わず命を落としていくだろう。君は『ある人物のクローン』だが、人類滅亡を望んでいるわけではない……ひとまずは、そう印象付けることに成功した。感謝するよ」

『勘違いするな。君たちとは単に利害が一致しただけだ。私を含めたある人物のクローンは、いま地球上に存在するほとんどの人間を殺すことを目的としている。それは君も例外ではないんだぞ……ククク。それはそれとして、その目的のためにはB.A.T.の内部に入り込むことが最良だった、ただそれだけのことだ』


 ミハイルは、やはりゲンシュウを好きではないらしい。ゲンシュウの言葉に素直に返答はせず、必ず毒を含んだ物言いをする。


「会議の場で君とエイジを対面させたのは正解だった。君と私のやり取りを見て、まさか我々が同志だと疑う者はいないだろう。しかし、いいのかね? 君の息子はB.A.T.のトップの隊に配属された。彼には生きていてほしいのではないのか?」

『……エイジや下の子どもたちのことは、今でも心から愛している。それは本心だ。だが、私たちの崇高な決心は硬く揺るがない。エイジが人類の未来のために戦うのなら、いずれ対立する運命にあるだろう』


 ゲンシュウがミハイルを見つめる。外見の一切を失い、剥き出しの脳だけになったミハイルだが、ゲンシュウには、彼の生前の姿が目に浮かぶようだった。

 本当の家族を失ったエイジの、たった一人の理解者であろうとしたミハイル。

 一年前のあの日、シェルターに侵入したエンジェルから逃げ遅れた少女を助けようとコロニーの庭に出た、記憶喪失のやさしく正しい養父が、命が失われる瞬間に自らの使命を思い出し、裏でB.A.T.を支配するために進んでエンジェルに刎ねられるべく首を差し出したなどと、エイジは想像もしないだろう。


 何がそれほどまでにミハイルたちを急き立てるのかと、ゲンシュウは未だミハイルを警戒したままだが、彼が鍵を握る以上、無碍にはできないのが現状だ。

 それどころか、ミハイルの機嫌を損ねるようなことでもあれば、自分の思惑さえ呆気なく崩壊してしまう恐れもある。

 ミハイル以外のクローンは、どこに棲息しているのか、その数は。そして彼らは「どちら」なのか。

 ミハイルがさらなる情報を持っているなら、まずは信頼関係を築くことが先決だ。


「あれの潜入も無事に成功したようだ。本日の出動でも、おそらく十名以上の殉職者が出るだろう。バランスを崩したB.A.T.を叩くのには、申し分ないタイミングだと思うがね」

『ああ。エンジェルと戦える者が減れば、そのぶん余計に人間が死ぬだろう。ようやく我々の計画が陽の目を見る時が来たのだ』


 水の中でたゆたいながら、ミハイルは別の想いに囚われていた。

 記憶が戻ったのは、必然だったのだ。私たちは死に瀕したとき、必ず本来の目的通りに行動するようプログラムされている。しかし、それが幸か不幸か、それは私には判断しかねる、と。



 自身を発光させながら、ミハイルは水槽の中で細かな泡を無数に放出して歓喜しているようだ。

 だが、ミハイルはわかっているはずだ。こんな姿になり果ててしまった以上、仮に地球上に生きるほとんどの人間をエンジェルによって排除できたとしても、ミハイル自身はそれを直接目にすることは叶わない。

 五感が失われていないとしても、どこへでも自在に意識を飛ばせるとしても、ミハイルの肉体はもうどこにもないのだから。

 ゲンシュウはそれを哀れに思ったが、本人が現状を嘆く様子はない。

 だからゲンシュウは、ミハイルが怖ろしいのだ。いつか、誰かの身体を乗っ取り、脳だけになった身で生き永らえるのではないかとさえ思うのだ。


『そうだろう、レイ』

「はい」


 ミハイルが反対側に自身を傾かせると、ゲンシュウからは死角になっていた位置から小さな声が聞こえた。

 誰か女がいるとは気づいていたが、ゲンシュウはミハイルが突然自分以外の者に声をかけたため、驚きで心臓が跳ね上がった。

 レイが一歩前に出ると、その顔をミハイルが浴びているピンクの光が照らす。

 漆黒の瞳に光が反射し、幻想的な色合いは美しいが、生気がない。


『敵を欺くにはまず味方からだ。レイ、心の準備は出来ているな』

「はい。私は、人類を滅ぼすために生まれてきましたから」


 いつもの無表情で、レイはミハイルに応えた。感情のないロボットのようなレイは、ミハイルよりも古くからB.A.T.内部に入り込んでいるスパイ、ミハイルと同じクローンだ。


「作戦については理解しているな。ブリクサ班の隊員とは、実に頼もしい」


 ゲンシュウがレイに歩み寄り、握手を求めた。

 レイは不思議そうな顔をしてゲンシュウの手をじっと見つめたあと、その手を掴んでゆっくりと頷いた。

 エンジェルの遺伝子から造られたレイだが、その姿かたちは人間とそっくりそのまま、誰にも見分けることは不可能だろう。

 生まれながらの身体能力の高さから、訓練校をトップの成績で卒業し、ブリクサ班へと配属されて今日こんにちまで成果を出し続けているレイ。

 レイには人間のような感情の起伏が存在しない。だからエンジェルを処理するのにも適正だった。

 感情があるように見せることは出来る。同じチームのメンバーと過ごすとき、ある程度は人間らしい表情を作ることはプログラムされていた。

 だがレイは、知ってしまったのだ。仲間との絆、ぬくもり、大切な人を守るために戦うということを。


──レイちゃん、レイちゃんがB.A.T.に入ったのはどうして? 


 いつかシアラに問われたこと、シアラの笑顔が脳裏にちらつく。幼女のような十九歳の妹を守ろうと、いつも必死になっているシアラ。

 レイは、初めて自分の中に芽生えた気持ちを理解できなかったが、その気持ちは自らの生命も危ぶまれるほど、危険な兆候だということだけを察して、ただ慄いた。

 誰にも弱みを見せることなく常に無表情で、ひたすら自分に課せられた任務をこなすはずだった。それなのに、いまこの胸が苦しいのはなぜだろうと、レイは混乱していた。



「そこにいるのはわかっている。入ってきたまえ」


 ゲンシュウがドアの方を睨みつけながら、突然言った。

 自分についてぼんやりと考えていたレイは、はっとしてそちらに目を遣る。ドアの隙間から細い影が伸びており、誰かがこっそりとこの部屋での密談を盗み聞きしていたことがわかった。

 おずおずとドアを押し、背中を丸めながら入ってきた女は、ゲンシュウに敬礼することも忘れ、水槽の中に浮かぶミハイルを呆然と見上げた。


「貴様に与えられた選択肢は二つだ。我々の傘下に入り、人類滅亡を達成するための駒となるか。それとも、この場で殺されるか。どちらかを選ばせてやる」


 冷たく硬い銃口が、女のこめかみに突きつけられた。

 その感触を味わうように肌を粟だたせながら陶然とした笑みを口もとに浮かべた女は、わざとらしく両手を顔の横に挙げ、まったく動じない様子で語り始める。


「私は、美しいエンジェルを間近で見たいがため、そしてその身体を裂いてあらゆる実験をしたいがためにB.A.T.に入隊しました。人類をエンジェルの脅威から守る意志など、初めから持ち合わせていません。私を総指揮官のもとで使ってくださるなら、仲間として共に戦ってきた誰をも欺くのは容易いことです。私は私の夢に忠実でありたい。それが総指揮官とミハイルの意思と同じであるなら、こんな嬉しいことはありません。最後の人類としてエンジェルに殺されるならなお幸せです」

『君ならそう言うと思っていたよ、フローラ』


 くっくとミハイルが笑い、水槽に当てられたフローラの手のひらに向けて自らを揺すってみせる。


「ふん、そういうことか。なら話は早い。君はレイと協力して、まずはB.A.T.隊員の数を減らすように現場で動くのだ」


 やっとフローラのこめかみに当てた銃を下ろし、彼女を上から下まで値踏みするように眺めまわしたゲンシュウが言う。

 フローラは、「夢」といえば聞こえの良い自らの欲望のために。

 レイは自身が生まれてきた意味や理由のために、このチームで密かに働いてゆくのだ。




 エンジェルと同じ、真っ黒なモスアイをした隊員が、急旋回しながら火炎放射器を乱射していた。それはB.A.T.に襲いかかろうとするエンジェルに向けられたのではなく、どこを狙っているのかまったくわからない、見当はずれの中空に放たれている。


「おいっ! なにやってるんだ、しっかりしろ!」


 近くで戦っていた第四軍の隊員が叫ぶが、黒い眼をした隊員は聞く耳を持たない。

 やがて自分に向けられた声に気づいた黒い眼の隊員は、声のする方に火炎放射器を向け、仲間の身体を焼き切った。



 ゲンシュウとも管理室のキョウカとも通信不能になり、ますます混乱する現場では、今もなお隊員たちの命が奪われ続けているが、それを密会する四人が知るのは、もうしばらく後のことだった。

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