第32話 悲劇の予兆
それは、言葉として「教わる」のではなく、ミハイルの脳に刻み込まれた記憶を直接見ていると言った方が正しかった。
『君たちにある知識を授けよう』
そう言ったミハイルが水槽の中でわずかに自身を揺らした。
何本ものチューブやコードに繋がれているミハイルは、沼地に棲む得体のしれない生き物のように不穏な様子で、エイジには不安を、フローラにはときめきを与えながら赤紫色の光を表出させた。
それはミハイルが発しているのではなく、かといってミハイル自身が発光しているわけでもない。どこからともなく現れたその光は、ミハイルが生かされるために照射され続けるピンク色の光とはまったく別の色合いの、まるであのエンジェルの体内に包まれるような、太い胴体が爆ぜたときの緑色が、どろどろ流れてこんな赤紫色に変化したと妄想させるような、おぞましいほどの極彩色だった。
そして二人は、ミハイルからいくつかの情報を受け取る。
2050年の大量発生時にエンジェルが執拗に狙ったもの。人間の首と、人類の歴史を刻むために建立された建造物についてだ。
数億人という犠牲者を出した「2050年エンジェル大量発生」。その時のエンジェルの目的を、ミハイルはまだ完全には思い出せないといった。
エンジェルの存在意義、それは「人類を滅亡させる」ことだと、ミハイルとエイジが対面した会議の場で判明した。
人工殺戮兵器だというエンジェル。
ではなぜミハイルが語った「ある人物」は、もっと大量にエンジェルを造り、速やかに人類滅亡を成し遂げなかったのか。
2050年の時点では、まだそこまでの力がなかったというのだろうか。
ミハイルは、ゲンシュウらB.A.T.上層部には、思い出したことのすべてを語らずに隠すことがあっても、自分には本当のことを教えてくれるはずだ、とエイジはそう思い、フローラも同じように確信していた。
だからフローラは本音を言わず、自分の望む未来のためにも、ミハイルとエイジに協力する振りをすることにしたのだ。
フローラの望む未来とは、エンジェルによって滅ぼされようとする人類が、とうとうその終焉を迎える時、たった一人の、最後の人類としてエンジェルたちとともにこの地球に存在し、そしてエンジェルによって命を絶たれること。
それがフローラの理想の死に方だった。
自分一人の快楽のための世界になど、到底なるはずはないとフローラ自身もわかりきっている。
でもだったら、だからこそ、最後の一人になるまでエンジェルを見ていたい、そしてエンジェルによって人生を閉じたいと、フローラは切実に願っていた。
それから一ヶ月後の五月八日、この日は約半数のB.A.T.隊員の休日だった。
にもかかわらず、エイジはまたもフローラに呼び出され、本部のコンピュータを使って、エンジェルによる過去の被害状況などを調べていた。
過去に人類がどのような被害を受け、人口はどのように推移していったか。
これは訓練校でも学ぶため、一般人にも広く周知されている事実で、繰り返しにすぎないとエイジは思っていたが、フローラはなにか新たな発見があるかもしれないとやる気満々だ。
「フローラさん、明日に備えてそろそろ帰りませんか」
「うーん、やはり公に出来ない事件が隠されていそうね」
何度声をかけても無視され、いや、フローラは決してエイジを無視しているわけではなく、調べ物に集中するあまり、自分ら誘ったエイジの姿さえ目に入っていないのかもしれない。
だったらなぜ一人でやってくれないのだろうかと、エイジは顔に出さないように気をつけながら小さなあくびを飲み込む。
エイジも新人ながらに、フローラの噂は耳にしていた。
「エンジェルが大好きな変人だから気をつけろ」と、他の隊の先輩から忠告されたりもした。
そう、現段階で誰よりもエンジェルに近いのはミハイルだが、エイジがそのミハイルの息子であるから、こうしてことあるごとに付き合わされるのだと理解している。
エイジは訓練校での成績と、入隊テストでの実力を認められたために、希望したブリクサ班に配属されたのだ。
隊長に報告もせず、他の隊の女性隊員と行動を共にするべきではない。それもわかっているが、三軍でいちばん強い隊の副隊長という上官の「命令」なら、従わざるを得ないのもまた事実だ。
「あら? エイジ?」
静かなノックと共にドアが開き、入ってきたのはブリクサとラウラだった。
「ブリクサ隊長、ラウラ副隊長、お疲れさまです」
ただちに直立し、緊張に頬をひりひりさせながら敬礼するエイジに、ブリクサは無表情のままで応える。
「今日はお前もオフだろう。敬礼はいい」
すれ違いざまに言われたエイジは、いつものブリクサの素っ気ない態度に痺れつつ、「はい!」と力強く返事をしながら額にかざしていた手をおろした。
「エイジ、今日はフローラと調べもの? その後、なにか心配なことはない? 私たちはいつでも、出来る限りあなたをサポートするわ。小さなことでも、何かあったら遠慮なく、私でもブリクサ……はないわね。イザークにでも言ってちょうだい」
エイジとミハイルの脳がいきなり大勢の前で対面させられてから、すでにひと月が経っている。
その間ラウラは、ことあるごとにエイジを気遣ってきた。
あのシェルターでミハイルが犠牲になったのは自分のせいだと、まだ思っているのだろうか。
あの日、エイジはミハイルを助けられなかったとラウラを責めた。だが、あの時エイジはシェルターで暮らす一般人だったのだ。
いまは違う。今のエイジは、もうブリクサ班の一員だ。
「ラウラ副隊長、ありがとうございます。自分はもう本当に大丈夫ですから」
ぎこちない笑顔を作るエイジは、もうラウラに自分を責めてほしくはないと思っている。
副隊長としての激務をこなすラウラは、ただでさえ考えなければならないことがたくさんあるのだから。
『自分はあの時……、会議室に運ばれてきた脳が父のものだとわかったとき、そしてそれがまだ生かされていると知った瞬間、あらゆる感情が沸き上がってきて発狂しそうでした。その場で総指揮官に抗議してくださり、会議が終わってもまだフラフラしていた自分を励ましてくださったのは、ラウラ副隊長でした。自分は父から情報を引き出し、真実を解明し、エンジェルを絶滅させるその日まで、もう逃げません』
会議の翌日、エイジにねぎらいの言葉をかけたラウラに、少年は力強く言った。
その時に向けられた真摯なまなざしを、ラウラは時々思い出している。
目の前で養父が惨殺されたにも関わらず、すぐにB.A.T.入隊を決意し、その場でそれをブリクサに宣言したエイジなら、これからどんどん経験を積み、現場でも重要な戦力になってくれるだろう、と頷いた。
適当な席に着き、先にコンピュータを起動させたものの、なにから始めればいいか首を傾げているブリクサの横からラウラが画面を覗きこむ。
「ブリクサ隊長とラウラ副隊長も、なにか調べものですか?」
エイジの問いに、ブリクサとラウラは顔を見合わせ、しばしのあいだ沈黙した。だが数秒後、B.A.T.隊員としては、各々の持つ情報を共有し、助け合ってこそ未来に繋がるのだというように、ラウラが口を開いた。
と、何か言おうとしたラウラの言葉をかき消す音量で、緊急アラームが鳴り響く。三人の心は不安に翳ったが、もう一人、アラームの大きな音にも動じずに検索を続けているのは、もちろんフローラだ。
『緊急出動要請、緊急出動要請。第一シェルター付近に約千匹のエンジェル襲来。一軍から四軍まででそれぞれ八人の班を編成し、計八班で出動せよ。繰り返す。第一シェルター付近に約千匹のエンジェル襲来。一軍から四軍までで八人の班を編成し、計八班で出動せよ』
怖れていたことが現実になったと、ラウラは思った。一ヶ月前の出動時も、何の成果も得られないばかりか、エイジと同期のルーキーが惨殺された。
その衝撃を、ユキムラはまだ引きずっているかもしれない。殉職した彼が使用していたパイオネーターの破片はドローンがすべて回収済みで、現在あらゆる可能性を視野に入れて解析を急いでいるが、知能を持つエンジェルがその記憶を引き継ぐことが出来るかもしれないとなると、これまでに培ってきたB.A.T.の戦闘力では歯が立たなくなる日も近い。
「チッ、そうか……休みの奴もいるからか」
約半数の隊員が休暇をとっているこの日に大量のエンジェルが急襲したとなると、急ごしらえの班ではチームワークもままならないと、ブリクサは舌打ちをする。
作戦会議をしている余裕もなく、フォーメーションを生かすこともできない。
放送では一軍から四軍まで八人で、と言っていたが、その編成の指揮は誰がとるのだ。
どの班がどの装甲車を使い、現場ではどう配分すればいいというのか。
指揮系統が乱れれば、犠牲者が出る危険性が高まる。
「総指揮官、聴こえるか? 第一軍のブリクサだ。今の放送じゃ隊員は動けねえぞ。班の編成はあんたがやってくれ。現場でどう動くべきか、総合的な指揮を執ってくれ」
コンピュータ横に置かれたマイクを握って、ブリクサが叫ぶ。数秒間、天井のスピーカーを睨みつけていたが、ゲンシュウからの応答はない。
「クソッ」
ブリクサ班の三人とは違い、フローラは落ち着いてモニターを見つめている。どうやら臨場する気はなさそうだ。直接対面するよりも、ここでエンジェルの資料を漁る方が楽しいのか。
「ブリクサ、先月と同じ場所よね……?」
囁くようなラウラの呟きに、ブリクサが頷く。
「一度やったとこなら、もう失敗しねえよな」
エイジに向けて言ったブリクサは、すでに走り出していた。エイジも黙ってその背中を追いかける。
この一ヶ月の訓練の成果を見せたい、ブリクサ隊長に見てもらいたいと張り切るエイジはまだ幼く、この出動が更なる悲劇のはじまりになろうとは、まったく想像することもなかった。




