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片翼の悪魔  作者: 紀國真哉
第二章 エンジェル
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第29話 遺体なき対面

 遠慮がちなノックのあとドアが開き、入り口に二人の男の姿が見えた。中央に置かれたローテーブルの向こう側、庭を背にした椅子に掛けて刈り込まれた低木を眺めていたマドカは、はっとして振り向くと目尻の涙を拭い、立ち上がりながら礼をした。


 ゲンシュウとユキムラは頬を緊張させた神妙な面持ちでマドカに頭を下げ、顔を上げるよう促す。


「D16F-1109-8755、マドカです。このたびは……」


 しっかりと挨拶ができるようにと、心を落ち着かせてきたつもりだったが、ゲンシュウたちの顔を見ると、ここでの弟の様子が目に浮かぶようで、うまく呼吸ができなくなってしまった。

 マドカは両手で顔を覆うと、言葉を詰まらせて指の隙間から嗚咽を漏らす。

 正面の椅子に座った二人は、厳しい顔でその様子を見守ることしか出来なかった。


「あ……、失礼しました。まだとても信じられなくて。あの、ご確認ください」


 そう言ってマドカが身分証を差し出した。ゲンシュウは両手でそれを受け取り、重い口を開く。


「拝見いたします」


 B.A.T.ジャパン本部の建物に入る際、受付でもチェックは必須だ。先ほど、手首の皮下に装着されたチップをリーダーで読み取るという方法で、マドカのデータ確認はできているはずだが、形式上、ゲンシュウ自身がマドカが口にした番号を確認して、面会者リストに控えておく必要があった。

 ゲンシュウは手元に置いたタブレットを操作し、B.A.T.所属隊員のファイルからタカノリのページを開くと、備考欄に姉であるマドカの個人識別銀号を入力し、身分証を返却した。


「ありがとうございました。お返しいたします」


 同じく両手でそれを受け取ったマドカの指は、小刻みに震えている。ユキムラは判断を仰ぐように隣にいるゲンシュウに視線を遣る。黙ったまま頷くゲンシュウに倣い、マドカが落ち着くまで無言で待つことにした。




 十年前、今では誰もが「エンジェル」と呼ぶ、謎の白い巨大蛾がヨーロッパに突然あらわれた。まるで人間を殺すことを目的として生まれたようなその群れは、約半年の間に全世界の人口を半数近くにまで減少させた。

 その翌年、ふたたび世界規模での大量発生が起こった際には、さらに一億に届く数の人間の命が奪われた。

 各国の軍隊からエンジェル討伐のために編成されたB.A.T.は、市民を脅威から守ることができずに犠牲者を出すこともしばしばあり、世界中から非難の的となっていた。巨大蛾発生以前とは何もかもが変わってしまった世界で、対策や戦闘の実際が追い付かないのは当然のことだ。

 だが、家族をエンジェルに殺された者たちにとって、その怒りや憎しみのやり場は政府ではなく、実際にエンジェルと戦うB.A.T.に向けるしかなかったのかもしれない。

 B.A.T.隊員の中にも、家族や大切な人をエンジェルに奪われた者は当然いた。だが彼らは、喪われた悲しみにとらわれたり誰かを恨んだりするよりも、エンジェルを倒すという職務をひたすらまっとうしようと励んだ。


 発足当時からエジェルと戦い、数々の危機を生き抜いてきたブリクサ、ギデオン、そして現在は戦闘員を退いたクラウスなど、エンジェルの脅威を間近で感じてきた者たちは、一度は思ったことだろう。

「人類がエンジェルを絶滅させるのは不可能ではないか」と。


 当初からB.A.T.が倒したエンジェルの死体は、分析・研究のために持ち帰られ、様々なデータが収集されたが、その発生源や巨大化した原因などの究明には至らなかった。

 敵の正体を掴めないのであれば、全滅させることなど叶うはずもない。

 ブリクサやギデオンたちは絶望感に苛まれることもあったが、各国のB.A.T.との連携、民間人収容のための大規模シェルターの建設等が進められてゆくうちに、僅かな希望の光を見出し、今日までに繋げることができたのだ。



 全世界が陥ったこの異常な状況下において、国連や国家間の条約、各国の政府や法律などは現実にはまるで役に立たなかった。

 人類が初めて立ち向かう地球規模の災厄を、「誰が」「どうやって」収束させればいいのか、誰にも良い考えは浮かばず、だれにもわかるはずはなかった。

 エンジェルがどこからか現れれば、その都度B.A.T.が出動して処理するという、いわば対症療法ともいえる戦いを繰り返すばかりで、それは環境や自然を破壊してきた人類への罰として、永遠に続くものだと言い始める者もいた。


 未知の昆虫による人間殺戮と建造物の破壊。人々はその被害に心身ともに傷ついた。

 生態ピラミッドの頂点に君臨し続ける人類として生まれた人間が、こんなにもあっけなく昆虫によって命を奪われ、築いてきた文化も何もかもを蹂躙されてしまったのだから。


 脅威が去ったあとの街には、崩壊した家屋に忍び込んだ者が金品を盗むという事件が世界中で多発した。彼らは他人の持ち物を勝手に自分のものにし、そのために他人を暴力でねじ伏せ、犯し、時には殺した。

 そして国境さえ曖昧になってしまった大陸では、それらを取り締まるはずの法律も無いに等しくなっていた。



 ドイツ首相のデボラは各国の首脳に呼びかけ、まずはエンジェルの発生地であるドイツから試験的に始めたいとして、市民の生命・財産を守り、治安を維持するためのある提案がなされた。


 それは、約二年の間に世界中で半数以上の人口が失われた今、B.A.T.としては世界規模で協力体制が敷かれてはいるが、対エンジェル以外の部分で、各国が自国だけを守ろうとするよりも、あえて国家としての境界を取り除き、地球全体として人類の存続を優先するべきではないかというものだった。


 強奪、レイプ、殺人といった原始的な凶悪犯罪が増え続けている現在だからこそ、「国」という枠組みではなく、すべての人類を「地球人」ととらえて国籍にとらわれず、世界の言語を統一化し、十二桁の英数字からなる個人識別番号によって市民を管理するというものだ。

 その番号はチップに記録され、生存している全人類の手首の皮下に装着される。それにより、各個人の居場所や生死も常に確認できることになるはずだ、とデボラは述べた。 


 これには当然各国・各方面から賛否が巻き起こり、あらゆる意見が飛び交ったため、議論は遅々として進まなかった。だが、判断を延ばせば被害はさらに増え、全世界の人口は減少するばかりだとして、最終的にはもっとも公平でわかり易い、多数決という方法が採られることになる。


 その結果、賛成大多数でデボラの提案が採択された。各国の首脳は、ただちに彼女の唱える「人類統一制御法」の法案をまとめ、全世界の法律が統一された。

 そして生存するすべての人間の管理をするべく、システムの開発を急いだ。


 この時点でいくつかの小国では、国土に在住していた全国民がエンジェルの犠牲になっており、旅行中か、移住等で海外にいた者だけが生存するという事態にまで陥っていた。

 一旦は「地球人」として、国籍よりも人類の存続を重んじることが先決ではあったが、エンジェルを全滅させたのちのことも想定しておかねばならない。


 「エンジェル全滅後」の世界には、国民がゼロになったことで国家自体が消滅している国が相当数あることが予想された。それを未然に防ぐために、デボラたちはある提案をする。


 シェルターが建設され、市民の安全が確保された国・地域へ、世界中から一定数ずつの国民を投入するのだ。

 二年間で半数近くまで減少してしまった人口を少しでも増やすため、そして理想的には各国の国民が「エンジェル以前」と同割合の人数になるよう、今後三十年間で調整したいと発表した。

 それによる民族大移動は容易なことではない。あらゆるものがエンジェルによって破壊されてしまったいま、輸送機や燃料の確保も困難を極めるかもしれない。だが、より安全な地で、各国の人口を平等に公平に管理するには、それ以外に選択肢はないように思われた。

 

 

 仮に、北アメリカが集中的にエンジェルに襲撃され、また大量の人口を失うことになったら、地球上を「アメリカ人」が占める割合は極端に少なくなってしまう。


 それを避けるために、各国の国民が世界中に散らばり、それぞれの地で自国民の繁栄を目指し、エンジェルのいない世界が戻ったところで元の国土に帰る、というものだ。

 目的は、あくまでも「巨大昆虫襲来後」の現状を、「巨大昆虫襲来以前」の世界にもどすことだ。それでこそ世界の均衡は保たれるのだと各国首脳は考えた。


 この案の通りなら、世界中に同じ割合で様々な民族が居住することになり、統一された法律の下で平等な暮らしを送れるはずなのだ。

 国籍の違いによって生まれる憎悪感情も捨て去り、同じ人類としてともに生きる。

 人種差別やヘイトクライムは重罪であり、違反した者はエンジェル絶滅が確実であると各方面が調査発表するまでは、「特別隔離閉鎖シェルター」に収容され、その目標が達成されるまでにたとえ何十年かかろうと、外部とは一切の接触を禁止すると発表された。


 いつ生命の危険に晒されるかもしれない状況下で、発表以前には空き家となった個人宅や商店、または企業等からさまざまなものを盗み出していた者たち、他者を襲い、尊厳や生命を奪うことさえ厭わなかった者たちを含め、全人類はそれに従うしかなかった。


 「人類統一制御法」施行後、まずは姓が廃止された。全人類はファーストネームしか持てなくなり、首脳陣が決定した共通の言語で話す。それは管理する側からすれば名案だったかもしれない。

 しかし、それを受け入れがたい苦痛だと感じる者が大多数だった。民族大移動は簡単には進まなかった。




 やっと十年か、もう十年なのか。

 地球規模の危機に直面し、自分の命さえいつどんなタイミングで失くすかも知れない状況に陥った。突然現れた巨大昆虫なぞに滅ぼされるのはまっぴらだと、人類存続のためのあらゆる手段を講じるために、その只中へ我が身を投じた。

 そして自分はB.A.T.という組織の幹部になったが、何度経験しても慣れるものではない、とゲンシュウは静かにまぶたを下ろした。


「……もう大丈夫です。お願いします」


 マドカが顔を上げて背筋を伸ばし、ゲンシュウに真っ直ぐな視線を送った。

 ユキムラはゲンシュウに目礼をしてから、傍らにあった遺品を取り上げてマドカの前に置く。ロッカーに入っていた私物は、四角い平らな箱にきちんと収められていた。


「タカノリ隊員が使ったボードです。大きさも重量もかなりありますので、お帰りの際に職員がお送りします。タカノリ隊員のパイオネーターという武器は損傷が激しく、すぐには修復できません。時間がかかると思いますが、必ず適正な調査を経てご報告いたします」


 パイオネーターの自爆とともに風圧で飛ばされたため、タカノリのボードには大きな傷は見当たらなかった。箱に入れられた私服や携帯。好きだったチョコバーは食べかけで、ロッカーの扉に貼られていたというマドカの写真の裏には、「俺が守る!」と太い油性ペンで力強く書かれてあった。


「名前を、入れてもらえるんですね。実は昨日の朝、あの子の出がけに喧嘩をしてしまいまして。入隊式の日なのに、どうして笑顔で送り出してやれなかったのかと、ひどく後悔しました。帰ってきたらなんて言おうと、あの子の笑顔を思い出しながら考えていたんです」


 ボードに彫られた弟の名前を指先でなぞりながら、マドカが小さな声で言う。

 隊長のユキムラも、配属されたばかりの新人をその当日に失くすことになり、相当なショックを受けていた。自分が隊長になる以前にも、同じ班の隊員が殉職したことはなかったため、その悔しさと喪失感は到底言葉では言い表せないほどだ。だからマドカの気持ちは痛いほど理解できる。この想いを共有し、タカノリの思い出に相槌を打つだけで、きっとマドカは救われるのだろう。だが、B.A.T.の一員としてするべきことではないと自覚している。


「ビーフシチューを作っていたんです。私たちがきょうだい喧嘩をすると、決まって母が選ぶメニューでした。私たちは母のビーフシチューが大好きで、食べる前から自然と笑顔になって、喧嘩していたことも忘れてしまう。そんなごく普通の家庭で育ちました。私たちが大人になったら、大好きな両親をいいレストランに連れていってあげるんだと、二人で言い合ったものです。でも、エンジェルたちに襲われて、みんな死んでしまいました。あの日のことは、大きな災害のようなものだと思えばいいと、周囲の大人たちは言いましたが、タカノリは『俺があいつらを皆殺しにしてやる』と言って、B.A.T.に入りたいと言い出しました。私は、タカノリまで命の危機にさらされるのは嫌だと言ったのですが、あの子は『誰かがやるのを待ってちゃダメなんだ』と言いました」


 ゲンシュウが改めてタブレットに視線を落とすと、タカノリの出身地は滋賀県とあった。そこは2050年にエジェルが襲来した際、日本で一番大きな被害を受けた場所だ。


 エイジのように親やきょうだいがエンジェルの犠牲となり、B.A.T.を志願する若者は多いが、タカノリもまた同様だったのかと、殉職してから知った。


「ユキムラ隊長、タカノリは、B.A.T.の役に立つことが出来ましたか? 人類のために働くことができたのでしょうか? きっと本物のエンジェルを間近で見ても、怯むことなく勇敢に立ち向かっていったと、両親に報告できますか?」

「……タカノリ隊員は、最期までエンジェルに屈することなく立派に戦いました。私の班の新人としてその職務を全うし、B.A.T.の兵士としての誇りを失わずに戦い抜きました。本当に残念です」


 泣きながら訴えるマドカに言えることは、それ以外にはなかった。マドカが求める答えが何なのか、ユキムラにはわからなかった。


「立派でなくてもいい。かっこ悪くてもいい。とにかく無事で帰ってきてくれれば……」


 マドカの目尻から、ふたたび涙がこぼれた。タカノリのボードにすがって、マドカは泣いた。遺体と対面することすら叶わないマドカは、急にいなくなってしまったタカノリに戸惑い、今後も苦しむだろう。


 ユキムラはタカノリの無念を晴らそうと改めて闘志を燃やし、膝を掴む手に力を込めた。


 室内には、マドカのすすり泣く声が静かに尾を曳いていた。

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