第28話 再会
会議室の扉は、ミハイルが生きている水槽を通すために大きく開放された。
たっぷりと満たされた液体は、まるでミハイルの身体組成のように彼を包んでいる。鮮やかに彩色された細いチューブは酸素や養分を届け、脳だけの彼が快適に生きられるように調整されていた。
取りつけられたいくつもの電極は、あらゆる変化も見逃すまいと、脳波の他にも脳磁図や光トポグラフィ等のデータをモニタリングしている。
誰もがひと声も発しない静まりかえった会議室に、重い水槽を載せたキャスターが滑らかに転がる音と、水槽内に気泡が生まれるコポコポという音だけが微かに響く。気泡は水の中を彷徨いながら水面を目指し、その一部がミハイルの脳に話しかけるようにまとわりつくと、彼も何か言いたげに自らを震わせた。
「素晴らしい……」
目の前で止まった水槽を見て、思わずそう漏らしてしまったほど、アーロンはB.A.T.の功績に感動していた。
一年前の事件で唯一の犠牲者となったミハイル。エンジェルによって身体を横一文字に切り裂かれ、さらに首を刎ねられたと聞いている。
報告書には「一部生存」とだけ記されていたが、「一部」とは一体どんな状態を指すのかがわからず、アーロンはもどかしい思いをしていたのだ。そしてその事実は、ここにいるB.A.T.の人間の中でも、ゲンシュウら上層部の、限られた者のみが知る重大な機密事項なのではないかと感じていたアーロンは、その詳細を、この会議のあとゲンシュウに訊ねるつもりでいた。
ごくりと唾を飲み込み、アーロンはミハイルとエイジを交互に観察する。一年ぶりに養子に会った気分はどうだ? もしあなたにまだ感情が残っているなら、気分というものがあるのなら、あなたはエイジに何を言うのだ?
アーロンはこれ以上ないほどに高揚し、溢れてくる好奇心を抑えきれずにいた。水槽に近寄ってミハイルの脳を間近で見たいと、一歩を踏み出そうとする。
「父さ……ん? これが、あの父さんなんですか……?」
ゲンシュウの横に立つエイジの声は、震えていた。その姿を見たアーロンは、ミハイルの養子であるエイジを差し置いて自分が興奮したことを恥じたが、湧き出した好奇心を抑え込むのは容易ではない。エイジとミハイルを交互に見ては、その脳に起こる微細な変化も見逃すまいと思う。
『エイジ……』
ノイズ混じりの電子音のようにも聞こえるが、エイジの名を呼んだのは、確かに懐かしいミハイルの声だった。しかし、水槽に浮かぶ目の前の脳が、あの養父のものだと言われても、すぐにそれを受け入れることなどできない。
エイジはあまりにも突然の衝撃的な展開に、なんと応えればよいのか考えることさえできなかった。
ゲンシュウがエイジの背中をそっと押し、ミハイルの問いかけに応えるようにと、目で促す。エイジはもう一歩を踏み出し、水槽の底に視線を落とした。やや赤みを帯びた液体は、シェルターでエンジェルに切り裂かれたミハイルの身体から、噴水のように溢れた血を思い出させた。裂かれた腹から夥しく流れる血液。押さえた手の、指のあいだを縫うように内側から溢れて出る内臓。それでも途切れ途切れに話す父・ミハイルの苦しそうな声……。
エイジがミハイルの最期を脳裏によみがえらせるのと同時に、ラウラもあの時の状況を思い出していた。
自分がエイジとミハイルを残して戦闘に向かわなければ、彼らにシールドを掛けてから飛び立てば、あるいはエイジの養父・ミハイルはあんな姿で命を奪われることにはならなかった……と。
そして、ミハイルはあの場で死んだはずだったのではないか、本部で解剖したあと、火葬したはずだったのではないかと、ラウラの中にゲンシュウらに対する疑惑と不信感が芽生えた。
「総指揮官、この会議の場で彼らを対面させることが必要でしたか? あまりにむごいのではありませんか」
思わず立ち上がり、ラウラはゲンシュウに抗議する。腕を組み目を閉じていたブリクサは、まぶたをあげて座ったままゲンシュウを睨みつけ、そっと制するようにラウラを椅子に戻した。
「総指揮官、なぜこんな舞台にエイジを上げたのか、説明を求めます」
低く呟くようにブリクサが言うと、ゲンシュウはうんざりした顔で答えた。
「成り行きを見守っていれば、その答えは得られるだろう。ブリクサ、ラウラ、それでいいかね」
隊長と副隊長が自分を気遣ってくれたと、エイジは救われた思いがした。二人に視線を送り、感謝の意を込めて見つめると、ブリクサとラウラは頷いてくれた。エイジは落ち着きを取り戻し、ミハイルと向き合おうと水槽に視線を移す。
あの時、ミハイルは記憶を取り戻したような顔をしていたと、エイジは思い出す。死の間際に元の自分に戻ったのだと、あの時ミハイルが語った不可思議な言葉の意味が、今なら解るのだろうかと、エイジはB.A.T.の一員としての自分を励ました。
「父、さん? 本当に父さん、なのか?」
『エイジ、本当にすまなかった……』
コロニーの庭で銀色の死体袋に詰められたミハイルの、蒼ざめた顔の前でファスナーが閉じられた時の音が、エイジの耳によみがえった。
「すまなかったって、何のことを言ってるの? そんな姿で再会したことか? それとも、エンジェルを造ったのは本当に父さんなの?」
すぐ隣で二人を見守っているゲンシュウが、眉をぴくりと反応させた。そうだ、ゲンシュウは確かに「誰がエンジェルを造ったか」と言っていた。
肉体が滅びるまさにその刹那、ミハイルはエイジに希望を託したのだ。
『私が元凶なんだ。どうか私を止めてくれ……』
エイジはうつむき、うわごとのようにその言葉を繰り返す。
B.A.T.のブリクサ班に入り、地球上からエンジェルが絶滅するまで戦い続けるのだと、決意も新たに入隊したのは、昨日のことだ。そして今日、思いがけずこの重要な会議に呼び出され、エイジはミハイルと再会した。ミハイルの記憶が戻ったなら、自分とこの場にいる誰もが、一番知りたいことを真っ先に訊ねる必要があるはずだ。
「父さん、あの時言ってた言葉の意味を教えてくれ。父さんは一体、何者なんだ?」
エイジの問いかけに、ミハイルの脳からひときわ大きな気泡があがった。それが偶然なのか、ミハイルの意志によるものなのかはわからない。
『エイジが息子になってからの約八年間、私は本当に楽しく、幸せだった。もちろん、エイジだけでなくジュリアンやルーシーたちも、みんな私の大切な子どもたちだ。それは私がどんな姿になろうとも、用済みになって処分されようとも、変わらない事実だ。……エイジ、私はそこにいる男に情報の開示を求められた。身体はすべて朽ちたのに、脳だけ生かされるなんてずいぶんな屈辱だったがね、私は再びエイジに会える日を夢見て、条件を出した。それは、私の持つ情報を知りたい者たちの前で直に話すが、エイジがB.A.T.に入隊したのち、その場にエイジも立ち会うなら、としたのだ。そうでなければ、私が思い出した情報を話したあと、お前に会えないまま処分されてしまうからな。今の私には力に対抗する術がない。その男や組織の上層部の者だけが秘密裏に私から情報を聞き出し、戦闘員たちにそれを開示しない可能性もあると思ったからだ。……さて、そろそろ皆が知りたいことを言おう。エンジェルとは、ある人物が造り出した殺人兵器だ。私はその人物のクローンで、人類滅亡に向け、速やかに計画を遂行するために生まれた。私も造られた存在なのだ』
「人類、滅亡……?」
スピーカーから、微かな女の声が洩れた。しんと静まりかえった室内で、その声はまた同じ言葉を繰り返す。エイジが顔を上げると、室内の隊長・副隊長たちが一斉にひとりの女性隊員を見ていた。
その女性はまっすぐにエイジを見ている。エイジと目が合うと、彼女はいても立ってもいられないというように椅子から立ちあがり、エイジの元へと駆け出した。
「エイジ!」
いきなり正面からぎゅっとエイジを抱きしめる。
自分が感じているこの高まりを、どう表せばエイジに伝えられるのかと、戸惑っているようにも見えた。涙を流しながら何度も頷いているが、エイジには何がなんだかさっぱり理解できない。
彼女は昨日、アフター会議の際に総指揮官にエンジェルについて畳みかけるように質問していた、確か三軍の副隊長だと思い出したが、なぜ抱きしめられるのかは全くわからなかった。
「エイジ、私は第三軍・ヘスティア班のフローラ。エンジェルが発生した当時から、その生態のすべてを知りたくて、B.A.T.に入隊しました。ああ、なんて痛々しいエイジ。なにも入隊式の翌日に、こんな仕打ちをされるなんて。エンジェルという存在の謎がミハイルの口から語られたいま、私たちがすべきなのは、エンジェル絶滅より先に、人類滅亡を食い止めること。ねぇミハイル、なぜあなたたちは、人類滅亡を望んでいるの?」
叶うものなら、エンジェルには絶滅してほしくはない。あれほど美しいものを、私は見たことがないと、フローラは焦っていた。
薄々想像はしていたが、やはり人の手によって造られたものだったのか。エンジェルか人類か、どちらかが必ず絶滅しなければならないとしたら、私はエンジェルに残ってほしい。私が最後の人類になって、エンジェルが人類を滅ぼすその瞬間を味わいたい。エンジェルが私をどう殺すのか、それを見届けたいと、そう願うフローラは、おそらくまともではない。だが、それを見透かしているのはミハイルただ一人だ。
『フローラか……。それはこの地球にとって、人類こそが害であり、相応しくない種だからだ』
「そうかもしれない……。ある人物とは誰のこと? その人はどこにいるの?」
『それはまだ思い出せない。だが、私以外にも彼のクローンは何人もいるはずだ。彼らを探せば、何かわかるかもしれない』
「あなた以外にもって……、そんな!」
フローラが何か言おうとしたのを、ゲンシュウが遮った。
「フローラ、また君か。私は君に発言の許可を出した覚えはない。出過ぎた行為だとは思わんかね? 懲戒処分が必要か?」
ゲンシュウの嫌味に、フローラは下を向いて顔を歪めた。
この年寄りは何もわかっていない。あなたのしていることこそが懲戒処分の対象ではないのか。しかし、このままではヘスティア隊長にも迷惑がかかってしまうと、顔をあげてゲンシュウの目を見つめ、そのまま自席へと戻っていった。
だがミハイルは、ゲンシュウとはあまり話をしたくないようだ。エイジやフローラと会話したときとは違う、蒼白い色に自らを変えて意思表示をしている。
「昨今のクローン技術には目を瞠るものがある。かつてクローンは、遺伝子的にはオリジナルの姪や甥といった関係性で誕生していた。そして人間以外の動物で作られていた頃は、そのどれもが短命であった。もちろん人間のクローンというものは倫理的な理由で長いあいだ問題視されてきたが、それも近年になってようやく研究が受け入れられるようになった。遺伝子構造を変更することによって、成長の速度はオリジナルが任意に操作できるようになり、オリジナルの持つ意志や記憶、目的意識等のみをそのままコピーさせることも可能になった。姿かたちは全く違うというケースもある。ミハイル、まだ思い出せないというのは本当か? 出し惜しみをすれば、任務中に危険に晒されるのは君の息子も同じなのだぞ」
『今さら嘘をついてなんになる。思い出せないのは本当だ。こんな姿になって生きながらえたいとも思わないよ。私は昔、エンジェルに遭遇した際に頭を打ち、自分が使命を持ったクローンだということを忘れていた。私自身はもう、人類滅亡を望んではいない。もともと私の意志ではないのだ。エイジへの罪滅ぼしにもならないが、今後も何か思い出せばB.A.T.に協力はするつもりだ』
ミハイルの答えを聞いてゲンシュウは苦い顔を隠さなかったが、室内の全員に向け、彼への質問を募った。しかしあまりに突然のことで、隊長たちも目の前の事実を受け止めるだけでいっぱいのようだ。
誰の手も挙がらず、ふたたびエイジとミハイルの会話になった。大勢の前だということもあり、エイジは出来るだけ自身の感情を抑え、ブリクサとラウラがついていてくれることを心強く思いながらも、変わり果てたミハイルを痛ましい想いで見つめた。
新たな記憶がよみがえり次第、ミハイルはそれを報告するということで彼の役目は終了し、巨大な水槽は会議室から運び出されていった。
ミハイルが退出すると、何か悪い夢でも見たあとのように、エイジは疲労の色を隠せなかった。
ミハイルが「生きていた」ことを一年間も隠されていたという事実。それを隊長にすら知らせなかったB.A.T.の体質にも疑問を持ち、エイジはエンジェル絶滅が正しいのだと、今まで信じていたことを根底から覆されるような寄る辺なさを感じていた。
ブリクサ、ラウラと共に会議室をあとにするが、エイジは軽く眩暈をおぼえ、練習場には戻らずに自室で休むことにした。
「ブリクサ隊長、自分は少し気分が悪いので、練習場に戻らなくてもよろしいでしょうか」
「ああ、無理もねえ。総指揮官のやり方は俺も納得できねえからな。今日はこのまま休め」
ブリクサは不快感をあらわにしている。エイジは、自分の班のメンバーを想ってくれるブリクサのやさしさを感じた。
「ありがとうございます。ブリクサ隊長、ラウラ副隊長、自分は……、どうすればいいんでしょうか」
片手で目を覆ったエイジは、おそらく泣いているのだろうと察し、ブリクサはその肩をぽんぽんと軽く叩いて去っていった。ラウラが反対の肩に手をかけ、言葉をかける。
「エイジ、今日のことはあとでブリクサと一緒に総指揮官に説明してもらうわ。あんな状態でお父さまを残しておくなんて酷すぎる。だから今日はゆっくり休んで、明日からまた任務に励みましょう」
ラウラの手のひらから伝わる温かさがエイジの肩に広がり、エイジはようやく顔をあげることができた。
「ラウラ副隊長、ありがとうございます」
頭を下げ、エイジは微笑む。それを見たラウラは、ようやく安心したように背中を向けた。
ラウラが廊下を曲がるまで見送っていたエイジが、水を一杯飲もうとラウンジの方へ歩き出すと、正面から歩いてきた女性に呼び止められた。自分よりいくつか年長だと思われる彼女が誰なのか、戦闘員ではないようだと、エイジは彼女の言葉を待った。
「すみません、総務課はどちらでしょうか」
少し前まで泣いていたと思わせる、潤んだ目をしたその女性に、エイジは見覚えがあった。彼女自身ではなく、誰かの面影と重なるのだ。誰だったろうと思いだそうとした時、廊下の反対側から事務職員が現れて、彼女を総務課へと連れていった。




