第27話 ミハイル
『ブリクサ班所属のエイジに審問する』というゲンシュウの言葉を聴いたブリクサは、眉をぴくりと動かして不快を露わにした。
「ブリクサ、今は会議中よ」
隣に座るラウラが立ち上がりかけたブリクサの腕を押さえ、たしなめるように小声で言う。副隊長のラウラにとっても、事前になんの通達もなく、メンバーのひとりをいきなり幹部会議に召喚して審問するなどと聞けば、ゲンシュウに対し不信感を持つのは当然のことだ。
だが、今はエンジェル人工説についての説明を受けることが重要だということは、ブリクサも理解している。
会議室の扉が開けられ、場内にいる者は一斉にエイジに視線を向けた。その空気にブリクサはチッ、と舌打ちをする。
──えっ? あれは俺と父さん……か? どうしてあんな……。
自身に集中する隊長たちの視線に耐え切れず、エイジがゲンシュウのいる壇上を見ると、奥の壁に設置されたモニターに、コロニーの玄関前で弟妹たち全員と撮った写真の、エイジとミハイルの部分だけが切り取られて映写されていた。穏やかな表情のミハイルと、陽射しが眩しいのか、眉間を寄せてやや険しい顔をしたエイジ。柔らかな光を浴びたふたりの髪は、金色に縁どられている。
「失礼します! 10A-08(ワンゼロエーゼロエイト)・エイジです。お呼びでしょうか」
余計なことを思っている場合ではない。上官ばかりの会議に呼び出されたのだ。エイジは室内からの突き刺すような視線にますます緊張し、息を吐くことすら忘れている自分に気づいてから、慌てて名乗った。
心臓の鼓動は破れんばかりに速く、強く打ち続け、IDと名前を言い終わったエイジは、ぬるぬるするほど汗をかいた手のひらを握りしめる。
「入りたまえ」
ゲンシュウが壇上から声をかける。全班の隊長・副隊長たちが着座する間を縫って進むエイジは、最前列で腕を組むブリクサをすがるように見た。
「心配いらねぇ。ありのままを答えろ」
呟くように低いブリクサの言葉を耳が捉えると、エイジは心なしかほっとしたが、ゲンシュウの元へと近づくにつれ、緊張は和らぐどころか加速度的に増していった。
「そこに立ちなさい」
五段ほどのステップをあがり、上層部の人間たちと同じ壇上に着いたエイジに、ゲンシュウは自身の左側を目で差しながら言った。マイクを渡されたエイジが問いかけるような視線を送ると、ゲンシュウはゆっくりと頷いて見せる。
「10A-08(ワンゼロエーゼロエイト)・エイジです。よろしくお願いします」
各班の隊長と副隊長、総勢六十四人の前で、エイジはそう言って敬礼する。マイクはエイジの不安を映し出す声を細かに拾い、部屋中に響かせた。
頬が熱いと感じるのは、頭に血がのぼっているせいだろうか。寒気を覚えるのは、緊張のあまり自律神経が乱れたのだろうか。理由すら告げられずに上官ばかりの重要な会議に呼び出されたエイジは、自身でコントロールできないほどの異常な精神状態の中、壇上から隊長たちのいるフロアへと、誰の顔にも定まらない視線を投げる。
「なぜ呼ばれたのか、見当もつかないという顔をしているな。無理もない。ここにいる隊長と副隊長たちでさえ、まだ何も知らんのだ。さて、さっそくだがエイジ、君の父親について質問する。ああ、正面を向いたままでいい」
「はい」
務めて平常を装うようなゲンシュウの声に、エイジは逆に不穏なものを感じる。『父親』とは実の父のことではなく、モニターに大きく映し出された養父のことだと思い、何を訊かれるのだろうと身構える。あの日、コロニーの庭で身体を切り裂かれ、凄惨な最期を遂げた養父のミハイル。ミハイルがいまわの際に言った不可解な言葉の意味が、わかったのだろうか……。
まとまらない考えが頭の中で渦を巻き、マイクを握る手が汗ですべりそうだ。
昨日の出動時について何かしらの注意があるものと思っていたエイジは、思いがけずミハイルのことを訊ねられると知り、「なにかわかったのか」と逆にゲンシュウに訊き返したい衝動に駆られたが、喉の奥にぐっとそれを仕舞い込む。
「君がミハイルと家族になったいきさつを教えてくれ」
ゲンシュウに問われると、エイジはエンジェルが発生したばかりの頃の「あの事件」を思い出した。
エイジはその時、出来たばかりの西東京シェルターにいた。エンジェルの大群によって、それまで住んでいた家を半壊の状態にされた一家は、シェルターへの移住を決めた。両親と兄の三人は、まだ八歳だったエイジをシェルターに置き、荷物の整理をしに一時帰宅したのだ。そこで三人はエンジェルに惨殺された。といっても、まだ幼かったエイジは、家族の無残な遺体と対面もさせてはもらえず、両親と兄という家族全員の死を実感できないままだった。
シェルターに入居しても独りぼっちのエイジは、職員に世話をしてもらいながら暮らしていたが、誰とも言葉を交わさない日々が一ヶ月以上続いた。
だがある日、右脚を引きずった男に話しかけられる。
『きみ、名前は?』
自分は名乗りもせずに、いきなり名前を訊いてきた男に、エイジは警戒心も露わに短く答えた。
『エイジ』
男と手を繋いでいたのは、三歳くらいの幼女だった。シェルターには親を失くした子どもも何人かいるが、この子にはお父さんがいるのだと羨ましく思っていると、男は「この子の両親もエンジェルに殺されてしまったんだ」と悲しそうに言い、空いていた方の手をエイジに向かって差し出した。
『きみも、家族にならないか?』
エイジは戸惑った。両親と兄は、本当に死んだのだろうか。自分は、本当に家族を失くして独りぼっちになったのだろうか、と。
「エンジェルが発生した翌年でした。自分はエンジェルに本当の家族を殺され、一人でシェルターで過ごしていました。そんな自分を子どもとして迎え入れてくれたのが父・ミハイルです。その後も父は、親を失くした子どもを引き取って、愛し、育ててくれました。自分の他に、養子は四人います」
ミハイルに初めて会った時のことを思い出しながら、エイジはその後の疑似家族としての楽しかった日々を想った。
「2050年の大量発生だな。当時家族を失くし、たった一人になった者は世界中で一億人以上に上る」
「はい。父も被害者の一人で、さらに記憶を失っていました。自分は中学を卒業後、父が何かを思い出す手がかりになればと、事件についてネットで調べ始めましたが、情報は驚くほど少なく、特に成果は得られませんでした」
エイジが中学に入るころ、ミハイルを養父とする「家族」は西東京から等々力シェルターに移住した。等々力の方が規模が大きく、学校や仕事も豊富だと聞いたからだ。コロニーのコンピュータを使い、エイジはエンジェルについて様々なことを調べてみた。
「そして昨年、君たちの暮らす等々力シェルター内コロニーの庭に、エンジェルが襲来した。その際、記憶を失くしていた君の父親は何かを思い出した。彼が最期に遺した言葉は、『私が元凶なんだ。私を止めてくれ』だったな」
「はい。あれは一体なんだったのか、今でもわかりません」
それだけ言うと、エイジは一旦うつむいて沈黙し、ふたたび顔を上げてゲンシュウに訊ねる。
「父の遺体は、B.A.T.で火葬されたとうかがっています。父の遺骨は、もう埋葬されているんでしょうか」
質問の機会を与えられたわけでもないのに、新人が勝手なことを、と、また訓告を受けるかもしれないと言い終わってから気づく。だが、ずっと気になっていたことが口から出てしまった。
あの日、ラウラから渡されたカードに記されたナンバーには、もちろん何度も連絡を試みたが、「詳細は折り返す」と言われるだけで、そのままうやむやにされたと思っていた。
エイジ自身もB.A.T.の候補生として訓練校に入学したため、シェルターにいた時よりもずっと忙しくなり、ミハイルのことを追求するタイミングを逸してしまった。
ラウラは、壇上で話すエイジの健気な様子をじっと見守っている。
「では、君は父親・ミハイル氏からは何も聞かされていなかったということだね。エンジェルがどこから来たのか、……誰が作ったのかということも」
一瞬、エイジはゲンシュウが何を言っているのか理解できず、ただ首を傾げて困惑した眼差しを向けた。
「総指揮官、何をおっしゃっているのか自分にはわかりません」
ゲンシュウはエイジの顔を見つめ、その瞳の奥深いところにあるものを見極めようとする。エイジはその厳しい表情と対峙することを、試練ととらえて耐えた。
「長いあいだ報告できず、君や君の小さなきょうだいたちを不安にさせたことを、まず謝ろう。本当に済まなかった。君がB.A.T.候補生となったために、機密情報扱いとなる本件を洩らすわけにはいかなくなったのだ。君の求める答え──、」
そこでゲンシュウは一旦言葉を切り、天井を見つめてふぅーっと大きく息を吐いた。
「ふむ、では結論を述べよう。……君の父親ミハイル。彼はまだ生きている」
室内の隊長・副隊長たちの席からどよめきが起こった。
たっぷり数秒間、時が止まったようにエイジは沈黙した。そして焦点の定まらない瞳をゲンシュウに向けると、ぼんやりと口を開けたまま声も出せず、ただ問うような表情を見せる。エイジの頭は、その言葉の意味を理解したくないとでもいうように、ただ混乱していた。
ゲンシュウの口から出るミハイルは、「エンジェルを創った側の人間」という、我々B.A.T.にとっては完全なる「悪」として固定されたイメージだ。
だがそれは自分が知るミハイルとは違う。ミハイルは知的で好奇心に満ち、やさしく、ユーモアさえ持ち合わせている。あんな状態になってもなお、生きることを楽しんでいる。自分こそがミハイルの正しい理解者であり、味方だ。
そして、その息子のエイジ。まるで公開処刑のようにいきなりこんな場に連れてこられ、予想もしなかった訊問を受けているエイジが可哀想で仕方がない。フローラは、小さな子どものように心細い様子で佇むエイジを抱きしめてあげたいと思った。幼い養子たちを置いて、あんな状態で生かされているミハイルとエイジを、自分だけが守ってあげられるのだ、と根拠のない自信は揺るぎないものへと変わってゆく。
「ミハイルに会いたいかね?」
ゲンシュウに問われると、エイジははっとして顔を上げた。力が抜け、下ろしてしまった腕が痺れるような感覚に陥り、うっかりマイクを落としてしまう。キィ、ンと鋭く耳障りな音が室内に響き渡り、エイジは耳を塞いだ。一瞬ののちに訪れた静寂の中で、エイジは自身の中に靄のように立ち込めていたものが晴れてゆくのを感じる。最前列のブリクサとラウラに視線を送ると、ふたりは凛々しい顔で頷いてくれた。
「はい」
拾い上げたマイクを口もとに添え、ゲンシュウを真っ直ぐに見つめてエイジが答える。
ミハイルに会って話せば、最期のあの言葉の謎が解けるのか? この一年間、何の連絡もなかったのは、B.A.T.に軟禁されていたからだとでもいうのか?
心が決まったばかりだというのに、エイジはミハイルに会うことに怖気づいた。だが、実の家族を失くし、寂しく寄る辺ない気持ちでいたエイジを家族として迎え、十年近くも育ててくれた愛する父に、もう一度会いたい。会って、何が起きていたのか、何が真実なのかをその口から聞きたいという想いもある。あのやさしい手に触れ、また抱きしめてほしいとも思う。
だが、とエイジははっと気づく。ここは家族の感動的な再開の場などではない。幹部会議に新人のエイジが呼ばれ、そこへ一年前に死んだはずのミハイルが登場するというのだ。ゲンシュウは、さっき気になることを言っていた。
『エンジェルを、誰が作ったか……』
ミハイルがそれに関係しているなら、この会議は、エイジにとってどんな意味を持つというのだろう。
ゲンシュウがマイクを切り替え、待機しているらしい科学研究班に連絡を入れる。
数分後、何か重いものが廊下を運ばれる音が近づいてきた。ドアをノックする音。内側から開かれる扉。エイジの心臓は、呼吸もままならないほど速くなり、少しずつ見えてくる廊下に、父の姿を探そうと試みる。
そして、エイジは戦慄する。エイジだけではない。ゲンシュウとフローラ以外の全員が、我が目を疑うような光景だった。無数のチューブに繋がれたミハイルの脳は、生命を維持する液体の中で気泡に包まれ、まだ沈黙していた。




