第21話 仮説と憶測
確かに「フローラ」と聞こえた。
この「脳」が自分の名前を知っていて、それを「声」に出したのだ。フローラはまず、その事実に歓喜した。
目の前の巨大水槽に浮かんでいるこれは、エンジェルのものではなく人間の脳だ。だが、脳だけになった人間がフローラを本人として認知したのだ。
そんな素晴らしいできごとに遭遇するなんて! と、フローラは興奮を抑えきれない。
一年前、シェルター内のコロニーにエンジェルが侵入したとき、民間人から一人の犠牲者が出たことは、当日のアフター会議でラウラが報告していた。
だがそれは「犠牲者」なのであって、現場で死亡が確認されたはずだ。本部に収容された時点でその脳がまだ死んでいなかったとしても、一年間も水槽の中で生かされていたとは、B.A.T.はなんて残酷で、なんて、なんて素敵なことをするんだろう!
いや、それよりもぼんやりとした照明だけが点る薄暗いこの部屋で、一目見た瞬間にこれを「脳」だと認識した自身の感覚に、フローラは空恐ろしいものを感じた。
相手がエンジェルでないとしても天性の勘が働き、通常ではないものに敏感に反応するのか。脳だけになった人間になど滅多に会えるものではないと、フローラはプツプツと粟立つ全身をなだめつつ、脳に話しかける。
「ミハイル? あなたはミハイルなのね? なぜ私の名前を知ってるの?」
気持ちが逸り、口から出る言葉も早くなる。
もっと落ち着いて話さなければと思いつつも、フローラはミハイルの脳を熱っぽい目で見つめる。水槽の表面にへばりつくように顔を寄せ、そこへぺたんと両手をつきながら訊ねた。
「ねぇ、ミハイル、あなたには生前と同じように五感があるのね? いえ、生前と言うのは正しくないのかも。だってあなたは、こうして生きている」
『私はここから動くことはできないが、どこへでも行けるし、なんでも見て知ることができるのだ』
ミハイルの答えはフローラの問いに対してでなく、まるで演説を始めるような言い方だった。
「ああ、もう、意味がわからない。でも、あなたはとても素敵だわ。ね、それはどういうことなの?」
困惑しながらも頬を紅潮させ、フローラはさらに問う。
『本当にわからないか? フローラ、きみならすぐに答えに辿り着くはずだ』
ミハイルは、まるでフローラのことをよく知っているかのような口ぶりだ。この薄暗い部屋に足を踏み入れてからのほんの短い時間で、フローラは「彼」の虜になったように、照明によってピンク色に染まった脳をうっとりと見つめる。
「いいえ、私にはまだわからない。……あなたは、エンジェルに殺された時のことを憶えている?」
『私の記憶はなに一つ欠けてはいない。すべて憶えているよ。そして、古い重要なことも思い出した』
「重要なこと? それはいったい、何なの?」
『この世界についてだ』
フローラは、ミハイルの言う「この世界」とは、まだ誰もエンジェルを知らなかった頃、突然あらわれた彼らに、はじめて人間たちが大量虐殺された頃のことを指しているのだと直感した。
だとすれば、自分がこれほど愛してやまないエンジェルを絶滅させるヒントを、ミハイルの脳が握っているのではないか。そしてそのヒントを、研究班のメンバーたちがすでに解き明かしているとしたら……。
フローラはもともと、エンジェルのその美しさに心を奪われ、誰よりも近くでエンジェルを見たい、エンジェルを愛でたい、中身を覗きたい、翅を開き、切り取って身体と別々にして鱗粉の一枚一枚までじっくりかぞえて検分し、エンジェルを知り尽くしたいという欲求からB.A.T.への入隊を決意した。
どこかでエンジェルが発生したら、その都度その場のエンジェルを全滅させなければならないのは心が痛んだが、それは仕方のないことだ。
だが彼らが絶滅してしまったら、世界から完全にいなくなってしまったら、自分はそのあと何を楽しみに生きてゆけばいいのだろう。だがその日は、いつか必ずやってくる。
B.A.T.は、そのためにこそ存在しているのだから。
ミハイルの脳が、エンジェル絶滅の鍵を握っているとしたら、その日は思いのほか近づいているのかもしれない。だったら急がなければ。
フローラは焦った。
「捕獲されたエンジェルがすぐ近くにいるの。扉のロックを解除する方法を知ってたら教えて」
ミハイルはふふっ、とくぐもった「笑い声」を発した。少なくともフローラにはそう聞こえた。そして水槽の中の脳が揺れ、繋がれたコードが水面に波紋をつくる。ミハイルは点滅していた赤と紫の光をフローラの手に向けて照射し、そして言った。
『扉の前に手をかざしてみなさい』
フローラは手のひらをじっと見つめ、不思議そうに問う。
「えっ……? これだけ? これでもう入れるようになったの?」
にわかには信じられなかったが、そもそも身体を失った脳だけの人間と対話していること自体が異常だ。そして、もしもこれで他の部屋に侵入可能になったのなら、時間は限られている。ぐずぐずしてはいられない。
「ありがとう、ミハイル! 私はフローラ……、ああ、あなたにはなんでもお見通しだったわね」
『また会おう、フローラ』
「ええ、ぜひ。また来るわ」
二、三度振り返りながらミハイルと別れ、フローラは静かにその部屋を出る。ついさっきまで聞こえていた職員たちの話し声は消え、辺りは完全に無音の状態だった。
十分ほど前に来た時はびくともしなかった銀盤の前にふたたび立つと、たった今「ミハイル光線」と名付けた光を浴びた手を、そこにかざす。「ひらけ、ゴマ」と言うのも忘れない。
すると、ミハイルの言葉通りに扉は一瞬で左右に開き、数歩の距離に置かれた円筒状の水槽内に、翅をたたんだエンジェルたちの腹部が見えていた。
「あぁっ……、エンジェルちゃん……! 会いたかった。こんな狭いところに詰め込まれて可哀想に。この中じゃ、綺麗な翅を広げることもできないわよね」
フローラは、自分が自分でなくなるような興奮をおぼえながら、手前にある水槽にすり寄り、ガラスの表面を指先で撫でさする。そしていちばん近くにいるエンジェルの、黒々とした大きな眼に自分の姿が映っているように錯覚し、エンジェルとの一体感に恍惚となった。
その後ろに位置する水槽には、おそらく三十体ほどの小型エンジェルが押し込まれていた。そこでじっと息を潜める彼女たちの産卵管から、エンジェルとは違う生物が生まれつつあったが、目の前のエンジェルに夢中なフローラは、まったく気づいていなかった。
B.A.T.本部から地下鉄で二駅行ったところに、隊員専用の宿舎がある。そこは単身者の住居として作られていたが、家族を持つ者でも自宅とは別に、一時的に利用することもできた。
本部への帰還が遅くなった上、さらに会議に時間が取られたこの日、イザークとエイジは宿舎に泊まることにした。エイジは二段ベッドの上段で眠るように指示されたが、あまり良い作りではないらしく、なんだか不安定で寝心地が悪い。
部屋に入ってくつろいでいると、この日の任務についてイザークからアドバイスを受けた。
「仲間を信じろ」ということ。それはこれからB..A.T.の一員として戦ってゆく上で、いちばん大切なことのように思われた。
エイジは硬いマットレスに仰向けになり、下段のイザークと途切れ途切れに話していたが、アフター会議の直後に廊下で偶然聞いてしまった、ユキムラとクロウの会話が頭から離れなかった。
ユキムラを呼び止めたクロウだったが、何から言えばいいのか、すぐには言葉が出て来ないようだった。何度か言い淀んでは大きく息を吸い、深刻な顔をして考え込んでいたが、ついにこう切り出した。
『隊長は、エンジェルの知能についてはどうお考えですか』
真剣な顔のクロウが何を言うかと思えば、エンジェルの知能について問われ、ユキムラは何かあったのだと直感した。
『知能の高い個体と、それ以外の文字通り「昆虫並み」の個体がいることはわかっているが、今日の出動時には、知能の高い個体が一定数いたように思える。それがどうかしたのか』
『ええ。小型は隊長も知っての通り数は多かったものの脆弱で、知能は昆虫のそれだったと思います。しかし通常型の、それもタカノリがやった奴は、おそらく過去にB.A.T.と戦ったことのある個体であると推測できます』
クロウの口からタカノリの名前が出たことに、ユキムラは動揺した。殉職したばかりのルーキーの遺品を、ユキムラは遺族のもとへ届けなければならない。
『それが、タカノリの死とどう関係している? いや、それよりもエンジェルの寿命は長くても十日だ。過去に我々と戦った経験があるはずはないだろう』
『そうですね、奴らの寿命は最大で十日……。まずタカノリのことですが、あのとき、自分がもう一体の通常型と戦っていた際、タカノリは自分に言いました。「こいつは様子が妙だ」と。その数分後のことです。タカノリが使用していたパイオネーターがディストラクションモードに切り替わったのは』
クロウはそこで一旦言葉を切り、ユキムラの反応をうかがった。ユキムラは考えているようだった。そして自分が導き出した推測を、まさか、とクロウに問う。
『パイオネーターが誤作動を起こすとは考えられない。タカノリのミスであるはずもないだろう。とすると、エンジェルがディストラクションモードに切り替えたというのか……? いや、まさかそんなことが……』
『ええ、そのまさかだと思います。我々を一人だけでも殺しておきたかったのかもしれません。そして、過去に我々と戦った別の個体の記憶を受け継いでいるとしたら……。これはもう憶測の域を出ないのですが、タカノリのパイオネーターを調査すれば必ず何か出てきます。我々は、もうこれまでのような戦い方では、奴らに勝てないのかもしれません』
タカノリの壮絶な最期がよみがえったのか、クロウは辛そうに目を閉じた。ユキムラも、数時間前に手のひらで受けたタカノリのかけらを思い出し、手を強く握ってからクロウと同様に目を閉じる。
クロウの話を憶測と言ってしまえばそれまでだが、仮にそれが事実だったとしたら合点がいく。知能の高い個体……今後、そんな個体ばかりが増えてくれば、いつかB.A.T.の戦闘能力をエンジェルが凌駕する、そんな日が来るかもしれないのだ。
『クロウ、このことはまだ他の隊員には……』
『はい、もちろん隊長以外の誰かには話していません……』
『そうか、ではしばらくは私が預かっておくから、少し時間をくれ』
了解しました、と言って頭を下げ、クロウはその場から去っていった。残されたユキムラはその場で腕を組み、壁にもたれて長い間なにかを考えていた。
ユキムラとクロウの話を盗み聞きする結果になってしまい、エイジは後ろめたさとその衝撃的な内容に、心臓がドクンと大きく跳ねるのを感じて息苦しいほどだった。
会議の中では、タカノリの死の様子がユキムラやクロウから具体的に語られることはなかったが、タカノリは最後までエンジェルに勇敢に立ち向かったのだ。自身が持つ武器をエンジェルに操作され、そこに拘束された形での自爆装置の作動。
どんなに怖かっただろう、どんなに悔しかっただろうと、エイジは二段ベッド上段の低い天井を睨みつけ、涙を流していた。下段からは、イザークの豪快ないびきが規則正しく轟いている。




