第17話 ノスタルギア
本部へと帰還する装甲車の中は静まり返っていた。
第一軍から第四軍までの二分の一に当たる各四班、計百二十八人でおよそ四千体ものエンジェルを処理・捕獲したのだ。ヘスティア班に負傷した隊員はいないが、全員がかなり疲労困憊した状態だった。そこへ滑るように走る暗い車内で座席についていれば、おのずと眠気を催すのも当然のことだ。
隊長のヘスティア以外七人の隊員たちは、武器を下ろし、スーツを着たままの姿でうとうとし始めていた。
現場を撤収した頃にぽつぽつと降りはじめた雨は、次第に大粒となってフロントガラスを流れる。ワイパーが追い付かないほどの本降りになり、雨粒がガラスを叩く音が大きくなる。フロント以外には窓のない車内が、一瞬だけ明るくなった。全員が前方を見ると、短い間隔で雷が光っている。そして空に亀裂が生じたかと思われるほど、くっきりと鮮やかに光った雷は、直後に重い雷鳴をとどろかせ、それは座席に腰かけた隊員たちの骨盤に、ずうんと響いた。
出動の時はあんなに晴れていたのにと、イリスは訳もなく憂鬱な気持ちになる。
「誰も怪我してないといいけど」
雷鳴に何か不吉なものを感じたのか、最後部の席でモイラがぽつりと呟く。誰かに話しかけたわけではなく、モイラのそれはいつも独り言だ。モイラは、隊員たちと何年も同じチームで戦っていても、ヘスティアにしか心を開いてはいない。
本部の車庫にすべりこんだその車からは、ヘスティア班の隊員たちが次々に降り、それぞれがシャワーエリアを目指した。
十六チームの隊員が同時にシャワーブースに向かうので、ロビーはそれなりに混雑していた。だが、大量のエンジェルを処理したという達成感に、寛いだ表情をしている者も多く見られた。
シャワーを終えた隊員たちが、さっぱりした顔で続々とロビーに集まってくる。みな、戦闘からの解放感を味わいながら、飲食を楽しみ会話に興じていた。
その喧騒を抜けてシャワールームに辿り着いたものの、イリスはサイドスーツをまとったまま、窓にもたれて外の様子をしばらく眺めていた。
その頭を後ろから小突かれ、イリスは振り向きながら情けない顔をして相手に見せる。
「もうガラガラだよ。さっさとシャワー浴びておいで」
「うん……。わかってるんだけどね、あの雨でエンジェルの死骸ってどうなるのか気になって」
ふたたび窓から外を眺めながら、イリスはガラスに映った自分とアナトの顔を見比べた。
「またそんなこと言ってる。回収ドローンがきっちり働いてるでしょう。今日は処理班の出番はなさそうね。得意の武器によっては、地上に大量の胴体を落とすことになる。火炎放射器で灰になるまで焼かれてれば別だけど、形が残ってる死骸は、あの降り方じゃ焼き切れないもの」
「えー、それって私のことじゃん。優秀なお姉ちゃんと違って、妹はいまだに火炎弾しかマスター出来ておりませんのでね」
言いながら肩をすくめ、イリスはアナトを見上げる。
「そうやってすぐに自分を卑下しないの。武器の扱い方は慣れだし、せっかくヘスティア隊長の下で学んでるんだから、イリスももっと強く、上手く戦えるようにならなくちゃね」
「慣れもあるかもしれないけど、やっぱり武器の扱いはセンスが大事でしょ。ヘスティア隊長が戦ってる姿って、優雅だもん。キレイだし」
「そうそう、だから隊長に近づけるように学ぶんだよ。イリスだってセンスは悪くないと思うよ、私は」
でないと、大切な妹が怪我をしたり、エンジェルとの戦闘によって命を落とすことになりかねない。教えられることはいくらでも伝授してやりたいが、それは本人の能力次第なのだ。
ヘスティアに技術やメンタル面を評価されている自分に比べ、イリスはたしかに劣っているが、もっと自信を持ちさえすれば、決して役立たずではないはずだ。
アナトはイリスの肩を後ろから包み、二人の夢を想う。イリスもわかっているはずだ。自分たち姉妹は、昇格や給与や、組織そのものに興味はない。ただ、笑顔で故郷に帰りたいだけなのだ。そこだけが、自分たちの居場所だと信じているから。
「アナト、せっかく汗流したのに、また汚くなっちゃうよ」
「んー、気にしないよ。でも、これでやっとシャワーを浴びる気になったかな?」
姉に抱きしめられ、くすぐったいような嬉しさを感じながらイリスが言うと、アナトは後ろから可愛い妹の顔を覗きこんで言う。
「はいはい、なったなった。行ってくる。あぁ! あと二十分でアフター会議だ!」
「行ってらっしゃい。ロビーで待ってるからね」
エンジェルがあらわれ、それと戦うために出動した隊員は、帰還後に開かれる『アフター会議』への出席義務がある。そこで新たに感じたことや発見したことがあれば報告し、本部はそれを文書にして全体に配布する。負傷者や殉職者が出た場合も、各隊長からここで発表された。
迅速な情報共有のために必要なことだったが、今回のように大量のエンジェルを相手にしたときなどは、疲労が残っている者も少なくないため、最近ではそれぞれの自室でリモート会議にしたらどうかという声も上がっていた。その会議が、あと二十分で始まるのだ。会議室はシャワーエリアからすぐ近い位置にあるが、急がなければならないことに変わりはない。
身体にピッタリと張り付くサイドスーツは、足首にある穴のカバーを開き、そこにエアを送り込むチューブを繋げば瞬時に脱ぐことが可能だ。だがそれは個人の好みで、汗だくになってスーツと格闘しながら脱ぐのが好きな者もいる。
シャワーブースに入ると、イリスはまずスーツに付着したエンジェルの体液を洗い流した。これまでの実験結果から、エンジェルの内容物自体には有害性は認められず、通常の蛾と同様の成分だと発表されているが、毒性のある鱗粉を持つ個体が存在するように、例外は常にあると想定しろとも言われている。
昨日までにB.A.T.隊員に通達された情報が、今日のあの膨大な数の個体にも当てはまるとは限らない。
足元を流れるどろりとした青い液体。イリスはそれを反射的に避けた。排水口に吸い込まれてゆくエンジェルの体液は、イリスの目にとてもきれいな色に映る。誰もが「エンジェルの体液」だと知っているからこそ、不潔でおぞましいものだと感じるのだ。
イリスは脱いだスーツを床におろし、顔に熱いシャワーを浴びた。顎を伝った水滴はそのまま首筋を這い、肌を滑ってエンジェルの体液と混じり合い、らせんを描きながら流れてゆく。
細い首に右手を絡めるように巻き付けてから、イリスは左の鎖骨の下にある古傷を指先で撫でた。
アナトを自分に繋ぎとめるための、だいじなしるし。ひとつの卵子から同時に生まれた姉妹だが、自分がアナトに優るところがあるとすれば、あのとき、いつかのあの瞬間に発揮された保護本能くらいのものだと、イリスはいつまでもその過去を手放すことができない。
ロビーのテーブルのひとつに着いたアナトは、ふたり分の飲み物を用意してイリスのシャワーが済むのを待っていた。
戦いを終えた各班の隊員、そして今回は出動しなかった者たちが、互いの無事を喜びあったり、捕獲したエンジェルについて憶測したり考察談義を展開したりと、賑やかなことこの上ない。ミネラルウオーターのサーバーに張り付くようにして水分補給している男は、一杯飲むたびに大袈裟に息を吐いている。
そのロビーの奥まった角のテーブルに、モイラはひとりで着いていた。早々とシャワーを済ませたモイラの髪はとっくに乾き、ファンの風を受けるたびにサラサラと流れるように揺れる。
騒々しいロビーにいながら、彼女の周りだけはひっそりとした空気につつまれているようだ。そしていつもそうしているように、モイラは周囲がボロボロになったカードを切る。二つの山に置いたカードから、上の一枚を手に取って表に返す。そして静かにまぶたをおろした。




