第9話 ブリクサ班
耳の後ろ辺りに、何かが触れたような気がした。
目の前の敵から一瞬だけ目を離し、ラウラは肩越しに振り向く。だが背後には何もなく、周囲からはエンジェルの悲鳴や呻き声、隊員たちが振るう武器の音が響いているだけだ。粉砕された敵の破片が飛んできたのかと、慎重に指先で触れてみるが、特に異常は見つからなかった。
十メートルほど離れた空中で戦っていたシアラは、ラウラのその小さな動きにいつもと違うものを感じる。熱狂的なラウラ信者であるシアラは、それがどうしても気になって仕方がない。目の前に数十匹いた小型エンジェルを素早く処理したあと、ボードごとラウラに近づいて訊ねた。
「ラウラ副隊長? どうかしましたか?」
「……いえ、なんでもないわ。それより、エイジをイザークひとりに任せて来てしまったけど、大丈夫かしら。いくらイザークでも、新人のサポートをしながらこの数の相手をするのは……」
「そうですよね。エイジが初日から訓練通りに戦えるとは限らないし、ここに着くまでのあの様子じゃ、ひとりで熱くなって周りが見えなくなったりして、案外使えないかもしれません。いえ、使えないどころかイザークの足を引っ張って、ピンチになってたらどうしよう」
ラウラとシアラが何か相談している様子なので、エルとカルマ、そしてレイも近寄ってきた。
「副隊長、深刻そうな顔してどうした?」
心配して掛けた言葉でも、カルマが言うといつでも軽口のように聞こえてしまう。
「いま、ラウラ副隊長と、イザークのことを話してたんです。新人のエイジとふたりだけで大丈夫なのかなって」
ラウラの代わりにシアラが答える。ラウラはなおも眉根を寄せて考えている。
「あいつはエンジェルを殺すことしか考えてないからね。イザークの指示も聞かずに暴走しているかもしれない。そもそも、なんであんな血の気が多いだけの奴がうちの班に入れたのか疑問だけど」
「エイジは、去年あのシェルターにいた子なんです」
シアラが言うと、カルマはなるほど、という顔をした。
アウターウェブで守られたシェルター内に、エンジェルが侵入したという事件は、上層部にも衝撃を与え、当時はいろいろと憶測が飛び交ったものだったと、カルマも思い出していた。あの時の犠牲者はエイジの養父だと、今日の入隊式のあと、エルから知らされたばかりだったのだ。
「そういえばエル、エイジの養父だという犠牲者の遺体は、持ち帰って調べたんだよね? 結局なにもわからずじまいだったのか?」
問われたエルは、戸惑ったような顔をしてラウラを見た。
「まだみんなには何も伝えてなかったわね。実は科学研究部と医療部がいくつか発見したことがあったの。でも、それはまだ確信と言えるほどのことではなく、発表にはもう少し時間がかかりそうで……」
ブリクサ班のメンバーらしくもなく、戦場にいることを忘れたように、四人はエイジの養父についての話を始めようとした。レイは周りに注意を払いながら、黙って聴いている。そこへ通常型が二体、いきなり翅を立てて切り込んできた。
「副隊長、危ない!」
シアラがファルチェを振るい、二体を同時に真っ二つに裂くと、その場に緊張感が戻ってきた。ラウラはふたたび頬を引き締め、エルとカルマに言う。
「なにしろ今回は数が多いわ。私がここを離れるわけにはいかないから、エルかカルマ、イザークとエイジのところへ様子を見に行ってちょうだい」
エルとカルマが視線を交わす。カルマは銃を抱いたまま肩をすくめ、レーダーで仲間の位置を確認した。
「おや、北八百メートルの位置に三人いるねぇ。隊長が加勢したなら、まず心配はないと思うけど、ま、念のためね」
言い終わらないうちに、カルマがエルに視線を戻すと、エルは少し緊張した面持ちで頷いた。
「俺が行きます」
「小型の能力は未知数よ。この戦場に、絶対に安全な場所なんてない。わかってると思うけど、エル、どうか気をつけて」
ラウラがいま一度用心しろと、エルに言う。
「ありがとうございます。皆さんも」
そこへ各軍が捕獲した生体の回収を終えたイマヒコから通信が入る。
『第一軍のイマヒコです。みなさんの活躍で、小型エンジェル百五十四体、通常型エンジェル十六体、すべて無傷の個体を収集しました。特に第三軍・ゲイザー班のサトシとスバルが捕獲した通常型三体は、過去に捕獲したものとは色相が異なり、大変興味深い検体です。充分な数が捕獲できたので、以降はすべて処理でお願いします。残りの生体数は、およそ千二百五十体です。こうしている間にも、どんどん数は減っていますので、もう少しで撤収できると思います。最後まで気を抜かずに負傷者ゼロで帰還しましょう。以上です』
「聞こえた? あとはもう処理して帰るだけよ。エイジとイザークの無事を確認したら、すぐに帰りましょう」
ラウラが皆に言い、改めてエルを送り出す。
エルの背中を見送りながらも、ブリクサ班のメンバーはそれぞれの敵との戦いを開始した。
小さく柔らかい身体でふらふら飛ぶ小型エンジェル。ラウラは、今回の戦いの違和感を突き止めたいと思っていた。小型のエンジェルなど、そもそも今までに現れたこともない上、「敵」と見做すにはあまりにも弱く、なんの手応えもないままどんどん死んでゆく。かといって、囮としての役割を担えるほどの知能もなさそうだ。通常型の知能は、捕獲した個体によって僅差はあるが、現在までのところでは、地球上に存在する昆虫以外のものは認められていない。
なぜ、今日このタイミングで、ここまでの大群が押し寄せてきたのだろう?
侵入経路は? 奴らに明確な目的はあるのか? それだけの知能を備えた個体の指示なのか?
一年前にアウターウェブ内部に入られた時のように、一般人に危害が及ぶようなことがあってはならない。ラウラはメンバーに指示を出す。
「前方二百メートル、小型百匹程度の群れが五つ襲来。カルマ、二百匹いけるかしら? 弾の残量は?」
「火炎弾の残りは六十発。ドローンからの補填の時間さえもくれないだろうから、あとはライフル型でいくしかないね。火炎弾の方が扱いやすいんだけど」
言いながら、左手にライフル型を馴染ませると、カルマはそれをボードの上に置いて火炎弾を構えた。
「シアラと私で、残りをやるわ」
「任せてください、ラウラ副隊長!」
「地上に落ちた死骸はなるべく焼き切ります。回収ドローンがいくつあっても足りませんから」
レイは一人で頷き、ラウラの返事を待つより先に、急降下していった。切り裂かれ、黒焦げにされ、ぼろぼろになって地上に落ちているエンジェルたちの死骸が累々と続いている。そこに降り立ち、レイは小さな溜め息をひとつついたあと、太い筒を持つ火炎放射器を構え、死骸たちが灰になるまで炎を向け続けた。
『残りは千二百五十体』とイマヒコが言っていたのに、なぜそのうちの半数近くがこちらへ向かってくるのか。何か意図があってのことなのか……まさか。だが、ラウラは頭をもたげつつある可能性を否定できなかった。
敵は、エンジェルたちは、少しずつ知能を高めているのではないか。棲息地や繁殖地さえ、いまだに特定できずにいる人間を嘲笑い、もしかしたら、あの蛾のような外見をした彼らは、確かな目的を持って行動しているのかもしれない。この無駄に思える戦いは一体何なのか。いつ終わりを迎えるのか。
ラウラはシアラに背中を預け、もう一度北の方角を見る。ついさっきまでは真っ青だった空が、急激に暗く重さを含んだ色に染まりつつあった。