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星の見える道

作者: 碓氷なつれ

「鈍色」「水色」の前日譚です。そちらを読んでから読むことをおすすめします。

 十五年かけて集めてきたCDを、片っ端から不燃ごみの袋に詰めていく。白い不透明な袋に毒々しい色で書かれた「ありがとう」の文字が恨めしそうに僕を見つめていた。そんな目で見るなよ、僕だってな、と思わず文句を垂れそうになったところで、部屋の扉が二回叩かれる音がした。

「はーい」

「縁、入るわよ」

 すっと静かに扉を開けて、母が入ってきた。ノックを優しく二回するのは、決まって母だ。姉のそれはもっと乱暴で、回数も多い。

「あら、それ全部捨てちゃうの?」

 困ったような声色で母が問う。

「うん。もう聴かないから」

 顔も見ずに答える。どんな表情をしているのかは容易に想像がついた。声色とは対照的に、けろっとした顔をしているだろう。母はそういう人だ。僕が今この場で二階の窓から飛び降りたとしても、同じ顔をして「あらまあ」なんて言うだろう。

「もったいない。せっかく買ってあげたのに」

「ほとんど父さんがね。だからってのもあるけど」

 父の話をするときだけ、母は少し表情が険しくなる。しかしそれも一瞬のことで、すぐいつもと同じ、すべてが他人事のような表情に戻った。

「縁、あの人と仲良かったものね。ママのことは気にしなくていいのよ」

「そういうのじゃないよ。ただ、もうすぐ一年経つから、いいタイミングだなって思って」

「ならいいんだけど。そう、お姉ちゃんが、帰り遅くなるから代わりにヒロシの散歩行ってほしいって」

「あー、わかった。じゃあ行ってくるよ」

 両親が離婚したのは去年の春のことだった。とはいっても父はもともとほとんど家に帰ってこず、僕と彼をつないでいたのは、幼いころから強請った古今東西様々なジャンルのCDの山と、僕が弾くピアノだけだった。それも今では。

 CDラックの隅に残された最後の一枚を拾い上げる。僕が生まれて初めて手に入れたものだった。このCDのメヌエットに憧れて、僕はピアノを始めた。決して才能があったわけでもなければ、死に物狂いで努力したわけでもない。それでも僕は触れ合った時間の長さだけ応えてくれるピアノが大好きだった。そして音楽も。

 その全てを失くしたのは、両親の離婚から四カ月後の、真夏の暑い日のことだった。アスファルトをも溶かすような日差しも、ざわめく蝉噪も、今でもよく覚えている。信号無視の車が起こした事故だった。不幸にもそれに巻き込まれた僕は、命に別状こそなかったものの、左手に大きな怪我を負ってしまった。傷自体は数カ月で癒えたが、何年もかけて築いてきた全ては、後遺症によって失われた。

 最後の一枚を投げ捨てるようにごみ袋に放り込む。もう何もかもがどうでもいい。二度と音楽に触れたくない、この半年はずっとそれだけだった。二度と手の届かないものを思い続けることは、ただただ苦痛でしかない。だから、全てを手放すことにした。幸い、ピアノが置かれているのは父の書斎だった部屋だ。父が出ていったばかりのころはまだ部屋を訪れていたが、事故の後は一度も立ち入っていなかった。今後も二度と立ち入ることはないだろう。

 何も音楽だけが世界の全てではない。絵を描くことや、本を読むこと。写真を撮ることも好きだ。触れることができないものに執着する必要はない。手の届く場所にも、魅力的なものはたくさんあるのだから。

 もともと、趣味は多いほうだった。その中でも特に多くの時間をピアノに割いていただけだ。だからもう忘れよう。家を出ようと部屋着から着替える。そういえば、今日は僕が好きな作家の新刊が出る日だ。散歩のついでに本屋に寄ろう。少し遠回りになるけれど。

 適当な服に着替え終え、リビングにいるであろうヒロシを探しに行く。

「ヒロシ、おーい」

 そう呼びかけるより早く、茶色い小型犬がパタパタと足元に駆け寄ってきた。ヒロシは僕が小さいころから家で飼っているミニチュアダックスフンドの名前だ。まるで人のような名前なのは、母が好きな俳優から名前を付けたかららしい。かなり人懐っこい性格をしていて、一緒に散歩に出ると道行く人に駆け寄ってはかわいがられている。

「いくぞ、ヒロシ。今日は涼しかったからこの時間でも大丈夫だろ」

 ミニチュアダックスフンドは足が短い犬種なので、暑い日はアスファルトが熱を失う夜に散歩しないと、照り返しの熱をもろに受けてしまう。今はまだ初夏だが、突然気温が上がる日もあるので油断はできない。

 リードをしっかりとつなぎ、家を出る。散歩のルートはいつもの河川敷を抜けた後、大通り沿いにある本屋を目指していくことにした。個人経営の小さな書店で、何度も通ううちに店主が顔を覚えてくれていた。そのおかげで、よほど混んででもいない限りはヒロシを抱えて入っても大目に見てくれる。

 こまごまとした道が続く住宅街を抜け、川沿いへと出る。ここから本屋がある大通りまでは、長い長い河川敷をずっと歩いていく必要があった。いつも散歩で通る道だが、僕はあまりこの道が好きではなかった。田舎とも都会ともつかない中途半端な街並み。やけに広い川幅をした川。河原には、毎日のように釣りをする男性や、これまた毎日のようにキャッチボールを繰り返す少年の姿が見られる。あまりにも代わり映えのしない、繰り返しの風景がたまらなくつまらないように感じる。

 ぼんやりと水面を眺めながら歩いていると、リードを掴む左手がぐいぐいと引っ張られ始めた。まずい、ヒロシが走り出している。ヒロシが急に走り出すときは、大抵見知らぬ人に構ってもらおうとしているときだ。道の向こうから歩いてくる人影が見えた。リードを引っ張るが、全然言うことをきかない。さすがに本気で引っ張れば止められるだろうけど、それはそれでかわいそうな気持ちにもなるし、何より後が怖い。結局抵抗をやめ、ずるずると引きずられるようにして人影へと近づく。

「こら、ヒロシ。だめだろ、突然走り出したら。どうもすみません……、あれ?」

 そこにいたのは、見覚えのある顔の少女だった。どこで見たのだろう、思い出せずに思わず顔をしかめる。整った顔立ち。それを派手すぎない化粧でさらに整えている。平均より少し低い背丈。染めているのだろうか、それとも脱色しているのだろうか、夕日が照らす髪はこれまた主張しすぎない程度に茶色く透けていた。そうだ、話したことは一度もなかったが、彼女は。

「えっと、同じクラスの、なんだっけ、オバマさん?」

「惜しい! 尾花です、こんにちは糸杉くん」

 尾花だったのか。友達に呼ばれているのを聞いていただけだったので、全然名前を把握していなかった。気まずさから目を逸らそうとするも、間髪入れずに彼女が問いかけてきた。

「ワンちゃんの散歩?」

 驚いた、犬のことをワンちゃんと呼ぶ人間が実在したのか。思わず身構える。僕はこの手の人間があまり得意ではなかった。社交的で、明るく、世界中みんなが手を取り合って生きていけると思っている人間が。

「ああ、ごめん、うん。この道好きでね、よく散歩で通るんだ」

 そういう人に話しかけられたときは、当たり障りのない話だけをするようにしていた。この道は好きではないが散歩にちょうどいいから仕方なく使っている、なんて話をしてもいいのは、ひねくれものだけが集まった捻じれきった場所だけだ。

「そうなんだ、私もよく通るんだけど、初めて会ったね」

「うち、当番制で散歩してるから、週に二回しか僕は散歩に出ないんだ。だからかもね」

 適当に返事をしていると、ずっと構ってほしそうに動き回っていたヒロシがついにバタバタと暴れだした。このままだとどこかに走り去ってしまいかねない勢いだったので、見かねた僕はこら、と一声かけてヒロシを抱き上げた。それを見てか、尾花さんはくすくすと笑っている。

「糸杉くんの家のワンちゃんはもっと大きいって聞いたことあるんだけど、この子は小さいね」

「誰が言ってたの、それ? うちにはヒロシしかいないよ。あ、この子、ヒロシっていうんだ。母さんが好きな俳優から名前をつけたんだ」

 名前を呼ばれたと思ったのだろう、腕の中でヒロシがキャンと高い声で鳴いた。誰が言っていたのか、とは聞いたものの、大方予想はついていた。恐らくは同じ中学だった――

「実は恵海から聞いたんだ。ほら、三中の」

 思ったとおりである。彼女は噂話が大好きで、中学のころからあちこちであることないこと吹聴して回っていた。何より質が悪いのは、あること七割ないこと三割くらいの割合で話して回ることだ。どうせなら嘘ばかりのほうが割り切りやすいものなのに。

「糸杉くんも本よく読むってほんと?」

 なぜだろうか、一度も話したことがなかったクラスメイトは、道端で邂逅した僕の趣味にまで興味があるらしい。

「うん、結構読むよ。も、ってことは尾花さんもなんだ。少し意外かも。どんなの読むの?」

「意外ってなによ、こう見えても文学少女で通ってたんだよ、私。今読んでるのは川端康成とか…………」

「お、さらに意外。面白いよね。『みづうみ』っていうストーカーみたいな人が出てくる長編が好きでさ」

 見た目とは裏腹に、尾花さんは本当に読書が好きなようだった。同い年で川端康成を読んでいる人はそんなにはいないんじゃないだろうか。

「へえ、今度読んでみようかな。じゃあ、私、向こうだから。じゃあね、糸杉くん」

 突然用事を思い出したかのように別れを告げられた。そういえば、今日は結構な量の課題が出ていたはずなので、それを思い出したのかもしれない。

「うん、ごめんね。ほら、ヒロシもあいさつしなさい。じゃあ、また明日」

 挨拶を交わすと、尾花さんは僕が行くのとは反対の方向へと歩いて行った。きっと明日になれば、また言葉を交わすこともないただのクラスメイトに戻っていくだろう。それでいい。僕のような日陰者には、彼女の明るさはどうにも眩しすぎるようだった。

 日が傾く。辺りはもう薄暗く、川の向こう岸の空には月が煌々と輝いていた。その月明かりすら眩しくて、川に背を向けて空を見上げた。月と反対の空に輝く一つの星。あれくらいの輝きがあれば、僕には十分だ。ずっと腕に抱いたままだったヒロシがもの言いたげにこちらを見る。優しく左手で撫でると、そのぬくもりが掌に伝わった。左手にじんわりと残る違和感が、ぬくもりの中に溶けていく。全てを忘れるには、まだ時間が足りないようだった。


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