7話 vs不審者
――妙に硬い。
不審者の男を蹴り飛ばした緋乃は、蹴り飛ばされた勢いのまま倒れて、袋小路に向けて地面を転がっていく男を見てそう思った。
頭部への蹴撃を左腕でガードされたのはまあいい。予測の範囲内だ。
いや、少し嘘をついた。まさか気も使えないような相手にガードされるとは思っていなかった。
(まさか防がれるなんてね。これなら頭より足狙った方が良かっ……いや、そうじゃない)
一発KO狙いの頭ではなく、防ぎにくいローキックで足にダメージを蓄積させた方がよかったかもと、脇道へ逸れる思考を修正する緋乃。
今の問題はそこではない。問題はこの蹴った右脚に残る感覚だと、倒れた男を観察しながら緋乃は考える。
(気を使ったようには見えなかった。でも、この強度は生身の人間じゃない。硬い。生身にしては硬すぎる)
相手が気を使えるかわからないので、もし一般人でも死んだり大怪我をしないよう、それなりに加減して放った蹴り。
事実、緋乃の蹴りを食らう直前になっても男は気を使う素振りを見せなかったので、手加減しておいて正解だと緋乃は思ったのだが――いざ蹴ったときに帰ってきた感触は想像よりも硬かった。
明らかに人間以上の強度であり、間違いなく気を用いた身体強化……のはずなのだが。何かが違う。
気の運用にともなう発光現象は蹴りが直撃する寸前にも、直撃してからも確認できなかったのだから。
(どう見ても達人には見えない……っていうか達人ならこんな蹴りは受けないか)
気を完全に使いこなせる達人中の達人だとしたら発光現象は起こらないが、それならこんな手加減された蹴りなどそもそも通じないはずだと緋乃は思い直す。
もし達人が相手だったのならば、今の蹴りくらいなら簡単に受け流すか回避され、その隙に反撃を叩き込まれてこちらが倒れていたことだろう。
(むぅ……。変な奴……)
動きは素人丸出しで、気も使えない。
これだけなら図体がでかいだけの一般人にしか見えないが、でも妙に防御力だけは高い。
緋乃が男の正体について考えを巡らせていると、その男が遠くで無言のままゆっくりと立ち上がる姿が確認できた。
(うめき声とか、これといった反応もなし、か。……人間っぽくないね。まさか、最近みた夢と一緒? また化け物?)
不気味な男の様子からつい最近見た悪夢を思い出し、警戒を強める緋乃。邪魔なカバンを――不意打ち狙いを悟られないよう、あえて肩にかけたままにしておいたそれを――道の端に向かい投げ捨てると警戒のレベルを引き上げ、感覚というセンサーをフル稼働させる。
ここは住宅街で、隠れる場所はたくさんあるのだ。かつての悪夢のように不意打ちを食らうかもしれないと、緋乃の目の前の男に対する意識が薄れたその瞬間。
「……!」
「むっ」
偶然か、それとも緋乃の隙を感じ取ったのか。男は無言のまま、緋乃目掛けて猛スピードで一気に走り寄ってきた。
その速度は明らかに人間の出せる速度ではないが、やはり男からは気を使っている様子が見られない。
男は走りながら右腕を振りかぶり、その勢いとパワーを利用した強烈なパンチを緋乃の顔面目掛けて放つ――が。
「見え見えだよ――吹っ飛べ」
緋乃は体を捻り、その右拳を腕で受け流しつつ、男の右側に回り込む形で回避。そのまますかさず右脚を持ち上げると同時に気を集中させ、がら空きになった男の右わき腹へと足刀蹴りを叩き込んだ。
ボキボキと骨の砕ける感触がブーツを通して緋乃に伝わってくる。今度の蹴りは先ほどの蹴りよりも手加減のレベルを引き下げており、対格闘家レベル――気の運用を行える、きちんとした格闘家を想定したもの――の蹴りだ。
「ーー!?」
男は蹴られた勢いのまま横に吹き飛び、電柱に勢いよく叩きつけられた。しかし、それなりに大きいダメージを負ったはずだというのにも関わらず、悲鳴どころか声一つ上げない男に対して緋乃は不信感を募らせていく。
(今のでノーリアクション? 怪しい、怪しすぎる。蹴った感触も人間とは少し違うし、やっぱりこいつ人間じゃない……?)
男が人外の存在だと徐々に確信し始めるも、万が一人間だとしたら困るので、確認の為にもその顔を覆うマフラーとサングラスを破壊せねばと次の一手を巡らせる緋乃。
気弾、あるいは遠当てとも呼ばれるそれが使えれば。このように相手をダウンさせてから、その顔面目掛けて撃ち込むことで割と安全に隠された素顔を確認できるのだがーー生憎と、緋乃は適性がないのかそれを使うことができなかった。
(まあいいや。普通に近寄って、普通に吹き飛ばそう)
戦闘中に長々と思考を巡らせている暇はないと、緋乃は思考を一瞬で打ち切り、立ち上がろうとする男へ素早く接近。その顔を蹴り上げようと脚を振り上げる。
「せやっ!」
男はその緋乃の蹴りに対し間一髪のところで腕を差し込むことに成功した――が、まるで無駄な抵抗だと言わんばかりに緋乃はそのまま防御の腕ごと蹴り上げ、男の顔を強制的にかち上げた。
「……!」
「はじけろ」
緋乃の左の掌が薄く輝く。男は必死によろめく身体に力を込め、広い袋小路の入り口側へ跳ぼうとする。恐らく、体勢を整えて仕切り直しを狙っているのだろう。しかし、緋乃に対してその動きはあまりにも遅すぎた。
男の顔面に、素早く踏み込んできた緋乃の左掌底が突き刺さり――次の瞬間。男の頭部が白い爆炎に包まれると同時に、周囲へと爆音が響き渡った。
◇
「これは……犬?」
意識を失ったのだろうか。仰向けに倒れ、ピクリとも動かない男に対し、緋乃は不意打ちを警戒しつつも接近。気の爆発により変装用具が吹き飛び、露になったその顔を確認する。
それは緋乃の予測通り、人間の顔ではなかった。変装用具の下から現れたのは黒い犬の顔であり、それに緋乃が驚いていると男の体から黒い煙のようなものが吹きだしてきた。
「!?」
緋乃は慌てて飛びずさると、次は何が起こるんだと警戒しつつ構えを取る。ゲームのお約束みたいにパワーアップして復活? それとも道連れにしようと自爆? 緋乃は警戒しつつも次に起こる事象を想像する。
しかし、緋乃の警戒とは裏腹に怪物は復活したり爆発を起こすのではなく、そのまま消えて無くなってしまった。影も形もなく、まるで元からこの世界に存在しなかったかのように。
「……おわり? おわった? ……ふぅ」
怪物が消え去ってからもしばらくの間、念のために警戒を怠らなかった緋乃だが、本当に何も起こらないことを確認すると気を抜いて大きく息を吐いた。
(一体何だったんだろ、今の。倒したら消えるとか、まるでゲームみたい)
緋乃はそう思いつつも先ほど投げ捨てたカバンへと近寄り、ゆっくりと拾い上げる。そして、カバンに付着した土やほこりをパンパンと叩いて払うと、肩にかけた。