第5話 穂乃花は自宅で考える
穂乃花は帰宅後、自室にいた。六畳ほどのほどほどに片付いた部屋にあるのは、学習机と戸棚。さらにローベッドが壁際に置かれていて、その上で穂乃花は転がっている。何も手がつかない。
(桜井さんに会えば、きっと問題解決すると思っていたのに)
穂乃花の目の前にはスマホがある。今からでも芹沢にメッセージを送れば、彼と仲直りできるかもしれない。
(でも、どう言えばいいのか分からないよ。)
芹沢の暗い顔を思い出す。また間違えた対応をしたら、再び彼から拒絶されるかもしれない。取り返しのつかない状況だけは絶対に避けたかった。
『僕に近づかないで』
芹沢の声が脳内によみがえり、思わず涙が出そうになる。
桜井はミスリードだと言っていたが、他に理由が分からなかった。
芹沢と先生が二人抱き合っている姿を想像するだけで、穂乃花の胸中は複雑になる。
結局、何も言葉が浮かばず、彼にメッセージを送れなかった。
「君の過去にある、か――」
桜井の言葉が気になって、穂乃花は自室の戸棚にあったアルバムを取り出した。
ベッドに寝転びながら開けば、そこには中学時代の写真が収められている。
彼とは中学の頃に委員会が同じで一緒に活動したことがあった。環境整備という名のもと、もっぱらの仕事は花壇の手入れだった。
学校の中庭で、その委員全員並んで撮った写真の中にジャージ姿の穂乃花と芹沢もいる。
彼は笑うと目尻が下がるのだ。その優しそうな笑顔がいつも素敵だと思う。
「彼にはいっぱい助けてもらったんだよね」
穂乃花は独り言を呟きながら、当時の出来事を思い出していた。
夏休みに入る前、委員会の活動で学校の花壇の手入れをしていたときだ。
穂乃花が抱えていた肥料の袋を、すぐ傍でしゃがんで作業していた芹沢に掛けてしまったのだ。穂乃花は慌てて肥料を彼から取り除くが、鶏糞の臭いは相当きつい。
「工藤、何やってんだよ~。芹沢が可哀想だろ」
他の男子から文句を言われて、穂乃花は消え入りたい気分になった。
そんなとき、芹沢が穂乃花に笑顔を向けてくれたのだ。「工藤さん、気にしないで」と。
彼は優しく微笑みながら、自分の髪に掛かっている肥料を落としていた。
あのとき、彼があっけらかんと笑って許してくれたおかげで、ドジな自分は救われたのだ。
そのことを今でも穂乃花は彼に深く感謝している。
それ以外にも、穂乃花は芹沢の笑顔で何度も助けられてきた。
だから、彼の思いやりのある性格を穂乃花はよく知っているからこそ、今回の不倫という噂話を聞いたとき穂乃花は信じられなかった。
芹沢と噂になった粕谷先生は、国語の教師だ。ふわっとした長い髪の女性で、いつも髪留めで顔の横に流れないように整えている。しかも、大きな魅力的な目をしているかなりの美人だ。
授業中の先生はというと、丁寧かつ真面目で、きびきびとした印象である。
その先生と出会って一ケ月。授業でしか芹沢と先生は接点がないと思われるのに、いきなり二人が不倫関係とは不自然すぎる。
だとしたら、不倫ではない関係が、二人にはあったのかもしれない。
それは何なのか。
桜井の「憶測」という口ぶりから、彼女はなにか心当たりがあったみたいだった。
穂乃花は考えながらも昔のアルバムを見続けて、ベッドの上はいくつかの冊子が重なっている。中学一年まで思い出は遡り、まだ幼さの残る芹沢が写真の中で微笑んでいた。
穂乃花は小学生のときに眼鏡をかけ始めていた。最初、からかう男子もいたが、そういう人からも芹沢は助けてくれた。
そのとき、廊下から「ほ~の~か~!」と呼びながら近づいてくる母の声が近づいてきた。
「ご飯できたわよ~」
掛け声と共に母が部屋のドアを開けてきた。沢山の洗濯済みの衣類を抱えている母が目に入る。
「ほら、これを仕舞っておいてね」
母は言いながら、その衣類の山をベッドの足元付近に置く。それから、母の視線はベッドの上に置かれたアルバムたちに向けられていた。
「あら穂乃花、昔の写真を見ていたの?」
「うん……」
芹沢のことを話すのも気が引け、穂乃花は曖昧に答えた。そんな娘にお構いなしに母まで「懐かしいわね~」と写真を見始める。
「あら、この子、小学校の途中で引っ越した子だったわよね?」
母が指差している生徒は芹沢だ。ちょうど中学に進学した頃のものだ。
「そうだよ。お母さん、よく覚えていたね」
「穂乃花が中学のときに再会したって言ってたじゃない。それで覚えていたのよ。でも、後で思い出したんだけど、小学校のときの引っ越しの原因って、両親の離婚だったのよね。元気そうで良かったわ」
「え、離婚? そうだったの?」
「うん、そうなのよ。あら、言ってなかった?」
「え、全然、知らなかったよ……」
芹沢からも何も家庭の話を聞いたことがなかったので、穂乃花は驚くばかりだ。暗い家庭の事情は、彼の人柄から想像もつかなかった。
「じゃあ、穂乃花も早く下に来るのよ」
母は部屋を出ていき、一階へ向かった。
再び一人になった穂乃花は、アルバムを片づけ始める。そして、全てを戸棚に収納し終わったとき、小学校の写真を取り出し始める。小学三年生の遠足の集合写真に写る芹沢をすぐに見つけた。
(芹沢くんのご両親が離婚したってことは、もしかして粕谷先生は彼のお母さんだったのかな? でも、もしそうだったら誤解されたとき、すぐに説明するよね? 別に隠すことではないし)
さらにアルバムをめくり、だんだんと月日は遡り、ついには入学時にまで戻る。そこで穂乃花は驚愕の事実を見つける。
「うそ……!」
保護者たちが集まる入学式で、全ての謎の答えは示されていた。
穂乃花は震える手でスマホを拾い上げ、桜井にメッセージを送る。
「真実は、過去にあったよ」
彼女から返信はすぐに届いた。
『解決したみたいで良かったね』
何故、芹沢が粕谷先生と不倫していると噂になったのか。全ての謎は明日、彼に直接聞いてみようと思った。