第2話 穂乃花は教室で噂話を聞く
「芹沢って、粕谷先生と不倫したらしいぜ」
ある男子生徒が面白そうに放った一言は、教室中に響き渡った。
ちょうど今は昼休み。クラスメイトたちが雑談している中、よく通ったその声は皆の耳に入ったのか、一瞬でその場は静まり返った。
穂乃花も、その声を聞いた一人だ。
投じられた爆弾の威力は大きい。次の瞬間には、「え? 嘘、マジ?」と一斉にその話題に食らいつく。
「○×遊園地ってあるじゃん? あそこで二人抱き合っていたらしいぜ」
「ええ! 本当?」
「見た奴いてさ、直接そいつから聞いたから間違いないって」
「真面目そうなのにね」
「そういう奴ほどやばいんじゃない?」
高校生活が始まって一ケ月が過ぎた五月。最近の教室は、互いの会話にぎこちなさが無くなっていた。
けれども、穂乃果でさえ同じクラスの人の名前と顔を辛うじて覚えたばかり。芹沢の純朴な人柄までは知れ渡っていなかった。そのせいか、不在の彼に対して言いたい放題だ。
一方、相手の粕谷先生は多分三十代くらいで若くはないけど美人な女性だ。
入学式に穂乃花の母親も粕谷先生を見てびっくりして、ひそひそと話しかけてきたくらいだ。
「あの先生、すごい美人ね。誰かに似ている気がするんだけど、誰だったかしら?」
「うん、女優さんみたいだよね」
みたいなやり取りがあったくらいだ。
とくかく綺麗なので、印象に残る女性だ。
だから、遊園地という不特定多数がいる場所で、見つかってしまったんだと思う。
先生は左手の薬指に指輪をしている。しかも、保育園に通う幼い子供がいると先生自身が話していた。
穂乃花はそんなことを思い出しながら、卓上に伏せていた上半身を起こしたとき、動揺で胸がドキドキしていた。
(ちょうど芹沢くんがこの場にいなくて良かった――。)
まだ芹沢の話題でクラスメイトたちは盛り上がっている。
彼らと同じ空間にいること自体が苦痛になり、穂乃花が席を立って教室を出た矢先、廊下で一人の男子とぶつかりそうになった。
慌てて相手の顔を見上げると、噂の渦中その人だった。
「あ、芹沢くん! ごめんね」
「こちらこそ、ごめんね」
彼も申し訳なさそうな顔をしている。サラサラで清潔そうな短い前髪が、彼の瞳の上で揺れている。
彼に間近で見つめられ、相変わらずイケメンだなぁってしみじみ感心する。しかし、すぐに現実を思い出し、慌てて彼の手を掴む。
「く、工藤さん?」
「ごめんね。いきなりで悪いけど、ちょっと来て!」
穂乃花は芹沢を強引に引っ張って教室から遠ざかる。
「どうしたの、工藤さん?」
穂乃花は廊下の突き当りまで小走りし、戸惑う芹沢の声と共にようやく立ち止まった。非常階段と書かれた扉が目に入る。
人ごみの廊下を通り抜け、やっと辿り着いた僅かな空間。そこで穂乃花から解放された芹沢の頬は、上気して見るからに赤い。それは穂乃花が無理やり走らせたせいだろうと思い、少し申し訳なくなった。
廊下の壁一面に設置された窓ガラスからは、まぶしいほどの春陽が差し込んでいる。開いた窓から涼しい風が吹いてくる。
「なにか大事な話でもあるのかな?」
何か期待を込めたように瞳を輝かせて芹沢は穂乃花を見つめている。その状況にそぐわない彼の表情から、彼が噂について何も知らない可能性に気づく。穂乃花はますますばつが悪い感じがした。
「ごめんね、急に連れて来ちゃって……あの」
開口してもすぐに穂乃花は口ごもる。嘘をついて芹沢に知られないように気遣うべきか、正直に話すべきか迷ったからだ。けれども、いつものように優しげな笑みを浮かべて言葉を待つ彼を見て、すぐに答えは出た。
「その、芹沢くんに変な噂が流れていたから、教室にいないほうがいいと思ったの」
偽りのない説明に芹沢の二重の綺麗な瞳が何度か瞬きした。そして、彼の顔が不安そうに少し歪む。
「噂って?」
穂乃花は先ほど聞いた話を芹沢にも話した。
すると、彼は眉を寄せ、悲しそうな顔をした。
「気を遣わせてごめんね」
申し訳なさそうに謝る彼を見て、穂乃花はますます彼に同情した。
「ううん、あんな噂ひどいよね。全然信じてないから!」
穂乃花がそう強く励ますと、芹沢はなぜか顔をこわばらせた。
「……でも、先生と遊園地にいたのは本当のことなんだ」
彼の挙動不審な目は、穂乃花の顔色を明らかに窺っていた。予想外の反応に今度は穂乃花の目が瞬く。
「……じゃあ、抱き合っていたのは?」
「それも本当」
彼の言いにくそうな様子から、冗談ではないことはすぐに伝わった。
噂が本当だった――。
その事実に驚愕して、彼に返す言葉が見つからない。ただ彼を見つめ返すことしかできない。辛い沈黙が二人の間に訪れた。
周囲のざわめきが、この瞬間だけは嫌に耳に付く。
やがて、穂乃花の戸惑いに気付いたのか、芹沢は視線を外した。伏せられた長い睫毛が暗く下を向く。その彼の顔は、背筋がひやりとするくらい感情が削ぎ落されていた。
何か言わなくてはと穂乃花は焦るが、彼は無言で教室に戻っていく。その背中がとても悲しそうに見えたのは、きっと気のせいではなかった。