雛鶴は 千両にする つもりの名(二)
江戸町二丁目の大見世・八角屋には、代々伝わる名跡がある。
それが『雛鶴』だ。
格は吉原でも最高位の新造付き呼出しで、値は一両一分。たった一晩買うだけで、長屋暮らしの親子三人がひと月は楽に暮らせる金が飛ぶ。
母親も女郎であり、廓から一歩も出ることなく育ったすずめは、将来有望な引込禿として芸事を仕込まれた。そして二年前、十七歳で名誉ある『雛鶴』を襲名した。
十数年ぶりに輩出した名妓の誕生に、吉原は沸きに沸いた。雛鶴もまた、不世出の花魁としての自覚を持ち、豪商や大藩の江戸留守居役などの一流どころを馴染みとしていった。
だが、花魁に上がって一年が過ぎたころ、雛鶴は道を外した。
本気で惚れた男──すなわち間夫が出来たのだ。
相手は各妓楼に出入りする小間物屋で、名を弥助といった。歳は二十三、抜けるような白い肌も涼やかで、巧みな話術も相まって、女郎衆の間ではとくに人気のある優男だった。
雛鶴とて全盛の呼出し、当初は流しの小間物屋など相手にもしなかった。
しかし「花魁だけの特別な品ですぜ」とささやかれ、斑なしのべっ甲簪を髪に挿されるうちに、いつしか魂が抜き取られ、気付いたときには男の背中に爪を立てていた。
遊女が商売抜きで惚れる間夫の存在は、それほどめずらしいものでもない。たいていの遊女は間夫持ちといってもよいだろう。お内所も勤めに障りがでない限りはある程度黙認するし、女も商売と実とを巧みに切り分ける。
だが、雛鶴は違った。
廓のほかを知らぬ箱入り娘。初めての恋に我を忘れ、ずるずると深間にはまっていったのだ。
太客を片っ端から振りまくり、弥助と逢うために自分で自分の揚代を出す「身揚がり」を繰り返した。しまいには櫛や紅白粉といった装飾品をあつかう弥助が、朋輩女郎に商いをかけるのすら悋気して喧嘩をふっかけるという有様だった。
たまの間夫遊びは遊女の肥やし、商売の励みにもなろうが、雛鶴の場合は度が過ぎた。
大枚はたいて花魁へと仕上げたのに、これでは元が取れぬと楼主や内儀が額を突きつけて相談している折もよく、身請け話が持ちかけられた。
相手は日本橋の材木問屋である桂屋の当主・仙兵衛で、当年とって五十八歳。雛鶴第一の馴染み客だった。
仙兵衛は実に千両もの大金を積み、雛鶴を妾にと申し出た。楼主や内儀が二つ返事で了承したのは言うまでもない。
もちろん雛鶴は突っぱねた。
身を焦がすほどの恋を知ってしまった今、弥助以外の男のものになるなど考えられなかった。
しかしそんな戯言が通用するはずもなく、身請け話は雛鶴の意思などお構いなしに進んでいった。
思いあまった雛鶴は、最後の手段を決意した──足抜けである。
古今東西、足抜けがうまくいった試しはほとんどない。
大門横の四郎兵衛会所が厳しく監視しており、たいていは捕まってしまう。捕まったが最後、寄ってたかって折檻され、下手をすれば殺されることもある。
弥助も当初は、危険な賭けに逡巡した。
「もし番人に捕まれば、ふたりともただではすまない。自分はともかく、大店に身請けが決まった雛鶴を不幸にするわけにはいかない」と。
しかし度重なる雛鶴の懇願にほだされ、弥助はとうとう足抜けを了承した。
そうと決まればぐずぐずしてはいられない。身請けの支度はほぼ整っている。逃げるなら一日でも早いほうがよい。
さっそく雛鶴は策を練った。
毎年霜月の酉の日に、吉原裏手の鷲神社で「酉の市」という大規模な祭りが開かれる。
祭りにかこつけた参拝客が吉原へもやってくるため、この日は例外的に裏門の跳ね橋が下ろされて、おはぐろどぶを渡ることが出来るのだ。もちろん遊女の逃亡を見張る番人はいるにはいるが、なにしろ大変な人出なのだ。この喧噪に紛れれば、大門を正面突破するより成功しやすくなるはず。
そう考えた雛鶴は、揚屋町の路地裏にあるさびれた裏茶屋を落ち合い場所として決め、弥助に男物の着物を持ってきてもらうよう手紙にしたためた。八角屋ではすでに弥助の出入りを禁じていたため、宛名は事前に打ち合わせておいた偽名『黒亀』で書き、見世の若い衆から文使いに頼むよう預けた。
文使いは遊女と客との文の橋渡しを専門に行う業者で、廓内に居住している。その文使いから弥助へと文を渡してもらえば、足抜けの準備は完了である。
あとは雛鶴が弥助の持ってきた男着物を身につけ、ふたりで番人の目を盗んで抜け出すだけ。
そうして約束の日を迎えた。
酉の市は相変わらず、たいそうな人出だった。ふだんは吉原へは来ない物見客も多数訪れるため、この時とばかりに新造の突き出しや花魁の披露目も行われ、廓中が文字通りお祭り騒ぎだった。
もうすぐ約束の刻、目立たぬ形に着替えた雛鶴は、湯屋へと行くふりして部屋を出た。黄昏時の暗さを味方にして人の少ない通りを選び、目指す裏茶屋へとたどり着いた。
周囲には誰もいない。ここまでは予定通りだ。
胸を弾ませつつ裏茶屋の半暖簾をくぐった雛鶴は、信じられないものを見た。
愛しい弥助はそこにはおらず、なぜか楼主ほか八角屋の若い者たち、そして吉原内の警備にあたる首代たちが待ち構えていたのだ。その中には、文使いに言づてを頼んだ蓑吉もいた。
なぜ、どうして。
声も出せない雛鶴の頬を、楼主の平手がしたたかに張った。はずみで前庭の石灯籠まで転がされてしまう。
「おう、なめた真似してくれたな」
ぞっとする声で凄まれ、髪をつかまれた。若い者が玄関を開けると、鉄錆くさい臭いがぷんと鼻をついた。
疑問に思う間もなく室内へと引きずり込まれる。踏み込んだ先は──畳一面、血の海だった。
目の奥が真っ赤に染まり、ちかちかと瞬く。気が遠くなり、膝がくずれてへたり込んだ。
なに、これ。
どういうこと。
あの男は、弥助さんは、どこ──。
しかし現実は残酷で、見覚えのある背負子と紋入りの風呂敷が、部屋の真ん中に転がっていた。背負子の中から荷物がこぼれ、べっ甲や珊瑚の簪が血に濡れて光っている。
「死骸はどうした」
「へい、菰に巻いて浄閑寺に投げ込んでおきやした」
首代の返事に、楼主が吐き捨てる。
「ちっ、手間ァかけさせやがって。しかし桂屋の旦那に知られる前で助かった。せっかくの千両がふいになるところだったぜ」
憎々しげに放たれた台詞に、雛鶴の中でなにかが音を立てて切れた。
気がついたときには、首代の腰にあった脇差に手を伸ばしていた。
鞘から引き抜き、楼主へと無我夢中で斬りかかる。袈裟懸けに肩を斬り下ろし、めちゃくちゃに振り回した。男たちの腰が引けている隙をつき、刀を手にしたまま外へと走り出した。
「いかん、外へ出すな! 大騒ぎになっちまう!」
肩を斬られてうめいていた楼主は、若い者に抱えられたまま怒鳴った。その声で弾かれるように、男たちが雛鶴のあとを追いかけてきた。
血刀を手に揚屋町の通りに出ると、通りかかった芸者衆が悲鳴を上げて逃げ出した。そのまま、仲ノ町へと駆けていく。
なにも考えていなかった。
考えられなかった。
ただ、頭の奥に血に染まった簪の紅さだけが、強烈に残っていた。
裸足のまま通りを駆け抜け、仲ノ町へ出る冠木門をくぐる。
いつの間にか夜見世が始まっており、大通りは遊客や物見客、そして道中する花魁衆などでごった返していた。
血刀を下げた雛鶴の周囲で、叫び声と怒声が次々に上がった。
呆然と立ちすくんでいた雛鶴は、背中をしたたかに殴りつけられ、地面に突き倒された。脇差は取り上げられ、駆けつけた首代や男衆に押さえつけられる。
悲鳴や泣き声、罵声などがわんわんと耳の奥にこだまする。その音はどんどん大きくなり、やがて全身を包み込んだ。
そして雛鶴の意識は、ゆっくりと遠ざかっていった──。