鳳凰の末 切見世へ 舞ひ下り(一)
朝四ツごろに揚屋町の湯屋へゆき、更湯を使うのが、おまつの日課だ。
わざわざ揚屋町まで行かずとも、すぐ近所にも湯屋はある。しかしその手の店は、手入れが行き届いておらず、滅法界に汚い。多少ましな店もあるが、ひどく狭かったり燃料をけちって湯が冷めていたりとかで、たいてい気に入らない。あとは単純に、朋輩女郎と顔を合わせたくないという理由もある。
そのためおまつは、面倒でもわざわざ揚屋町の湯屋へ行っている。こちらは中見世の女郎や大見世の遊客などが利用するだけあり、まだましな造りで湯もたっぷりと沸かされている。また知り合いもいないため、のんびりできるのだ。
この日も更湯でさっぱりしたおまつは、揚屋町の通りを小走りに駆けていた。
厳寒の空気は刺すように冷たいが、湯上がりの肌にはむしろ心地よい。ぼつぼつ暖簾を掲げはじめた商店の前を通り、木戸門をくぐって仲ノ町へ出る。
正月も過ぎ、松の飾りが片付けられた大通りはどこかうら寂しい。
両側にずらりと並ぶ引手茶屋も、昼見世前ということでどこも簾が降りている。客はおらず、三味線を抱えた芸者や文使い、天秤棒を担いだ行商人などがちらほら歩いているのみだ。
次に吉原が賑わうのは二月の初午、そして桜の季節だ。
おまつは仲ノ町を抜け、どんつきの秋葉常灯明の手前で左に折れた。
京町二丁目の木戸門をくぐると、中・小見世がずらりと並んでいる。時折居続けの客と遊女が腕を組んで歩いている程度で、こちらも人気は少ない。
手拭いで濡れたこめかみを拭きふき、おまつは下駄を鳴らした。
昼見世がはじまるまであと一刻ほど時間がある。早く帰ってひと寝入りといきたい。自然、足は速くなった。
京町二丁目の突き当たりを右に曲がると、あっという間に様相が一変する。
どぶ川を挟んだ狭い路地の両側に、みすぼらしい長屋が並んでいた。長屋の背後には黒板塀がそそり立っているため、昼前だというのに薄暗い。
吉原の東端、別名羅生門河岸。
おまつがいる妓楼『萬字屋』は、この羅生門河岸にある最下級の切見世である。
江戸町一丁目に二丁目、京町一丁目に二丁目、それに角町を合わせて吉原五丁と呼ばれ、格の高い妓楼はこの五丁に集中していた。ここの遊女は格子に囲まれた張見世に出て、客が付くのを待つ。
それに対して切見世は、女郎がおのおの戸口の前に立って直接男の袖を引く。
一度つかんだ腕はたとえもげても離さない、というところから、羅生門の名がついた。捕まえた客は長屋を仕切った二畳ほどの「局」と呼ばれる小部屋に引き込み、そこで床をつける。
揚代は一切百文、線香が燃え尽きるまでのほんの短い時間で事を済ませる。
女郎はほとんどが三十、四十を越えた大年増、いずれも年季が明けても行くあてのない、哀れな遊女の成れの果てである。このあたりも、死人の髪を抜く老婆とそう大差ない。
しかしおまつはその中でも、ちょっと訳が違う。
なんといってもまだ二十七になったばかり、まだまだ水気は失せていないと自負していた。
もともとおまつは、岡場所である深川で客を取る、いわゆる私娼というやつだった。
深川は気軽に遊べる遊里として、万事に付け格式張るうえに金ばかりかかる吉原を嫌う通人や、勘定高い商人たちの接待場所として、おおいに繁盛していた。
そこへおまつが売られたのは、十五の歳だった。
佃島でケチな漁師をしていた親父が博打でしくじり、そのツケを払わされたのだ。
持って生まれた器量と気っぷの良さが評判を取り、十年経つころには「仲町のおまつ姐さん」といえばちっとは知れた名となり、多数の馴染みを抱える売れっ妓となった。
しかし今から二年前、お上が大規模な私娼狩りを断行し、逃げ遅れたおまつはとっ捕まってしまったのだ。
手入れで捕まった私娼は、奴女郎として吉原に送られ、三年間無給で働かせるのが決まりである。
最初は伏見町の小見世に買い取られ、「羽衣」なんて似合いもしない源氏名で突き出された。
深川仕込みとの触れ込みで、新しい見世でもそれなりに人気もついた。
しかし、お遊びのつもりだった楼主との色事がばれ、さんざん折檻されたうえ切見世へと鞍替えさせられた。それが一年前のことである。
しかし当のおまつからすれば、紅殻格子に閉じ込められて「ありんす、しなんす」と慣れない廓言葉を強要される小見世より、身ひとつで稼げる切見世のほうがよほど気楽で性に合っていた。
もっとも深川や小見世と比べると、客層の悪さはいかんともしがたいが、持ち前の鉄火で気に入らない男には肘を食らわせるし、いざとなれば用心棒の露地番が追い払ってくれる。
見ての極楽、住んでの地獄。
ここは地獄の一丁目。
もとより地獄のほかには知らない身なのだ、一丁目が二丁目でなにが変わるというのか。
そうあきらめにも似た心持ちで、おまつは羅生門河岸での日々を過ごしていた。
おまつはぬかるんだ泥道に下駄の歯がはまらぬよう、注意しながら進んだ。このあたりは水はけが悪く、ちょっと降るとたちまち裾を汚すほどぬかるむのだ。
萬字屋のある三日月長屋までさしかかったとき、めずらしく内儀が局の前に立っていた。
いつも内所に引っ込んで不機嫌な顔で煙管を吹かしているのに、どういう風の吹き回しだろう。おまつはさりげなく、大きくくつろげていた襟元を直した。
内儀はこちらをみとめると、
「いつまで湯を使ってんだい。そこまでして磨くほどの玉でもなかろうに」
と、早々に憎まれ口を叩いてきた。
「なんだい、藪から棒に。風呂くらい好きに入らせな。こちとら干からびた婆ァと違って男衆をくわえ込まなきゃなんねえんだ、お道具磨くなァ当然だろ」
おまつもまた、売られた口説で頬をはたき返した。婆ァと悪態つかれた内儀は顔を歪ませたが、すぐに喧嘩をしている場合ではないと気付いたらしい。一歩ずれると、背後にいた女を見やった。
「今日からあんたの隣に入ることになった妓だよ。ほれ、ご挨拶しな」
どうやら、ご新規さんの入居らしい。そういえば、右隣の局は三月ほど前から空家だったっけ。
おまつは手拭いを首にかけ、女を眺めた。
うつむいているから顔の造作は分からないが、なりからするとかなり若そうだ。見たとこ二十歳にはなっていないだろう。これもまた珍しいことである。
頭は貝髷にしているが、元の髪が長すぎるのかやけに髷が大きい。
そもそも貝髷自体も、このあたりではあまり見かけないお上品な髪型だ。
櫛巻きなら上出来で、おまつのように肩上で巻いただけのじれった結びなど、簡素なものが主流である。
女は枯れススキのように頭を垂れていたが、内儀に再度うながされ、観念したように顔を上げた。
白いを通り越して青くすら見える肌に、鼻筋の通った中高の面立ち。切れ長の目は長く濃いまつげに彩られている。
あまりの美貌に、おまつの呼吸は一寸止まった。ややあってようやく息をつき、
「こりゃあ驚いた。上玉どころじゃねえ、蓬莱の玉さね。お内儀さん、どうしちまったんだいこの妓」
「……まあ、ちょっと訳ありでね」
内儀はやけに歯切れの悪い調子で答えると、
「しばらく面倒見てやってくれ。頼んだよ」
「頼んだよ、って……。ちょっと、お内儀さん!」
あわてて引き留めようとするおまつに背を向け、内儀はそそくさと長屋の奥にある内所へと戻っていった。