1 ヘッドフォンと天使の歌声
その日、遠野紘は天使と二度目の遭遇を果たした。
4月中旬、とある金曜日。
学校からの帰りに、紘は幼馴染みの篠原水姫と塾の見学に来ていた。
「なあ水姫」
「うん?」
塾のパンフレットに目を通している水姫は、視線を紘に向けることなく返事をする。よほどここの塾が気になるのか、水姫は先程からせっせとパンフレットにマーカーを引いていた。
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今は、そうでかでかと書かれた文言にチェックを入れるかどうかで迷っているようだ。
「高校の入学式って月曜だったよな」
「うん」
「俺たちついこの前まで受験勉強頑張ったよな」
「うん」
「受験勉強には早すぎじゃないか?」
「うん」
「……」
「……」
「一足す一は?」
「うん」
全然話を聞いていなかった。
どうやら、やる気スイッチが入ってしまったようだ。
水姫の集中力は凄まじいもので、一度スイッチが入ると苦手な虫を頭の上に置いても気づかないレベルである。小学生のころはそれが面白くてよく色んな虫を水姫の頭の上に置いて遊んでいた。当然、集中が切れたあとに死ぬほど怒られるのだが……。
そんなこともあって、紘はもう帰りたいと言うつもりだったのだが、諦めて暇潰しをすることにした。
具体的には音楽だ。
首にかけていたヘッドフォンを頭にセットする。
だらんと伸びたコードを追って、制服のポケットに手を突っ込むと音楽プレイヤーが見つかった。
紘は慣れた手つきで音楽プレイヤーを操作していく。
電源を入れて、ボタンを押すこと二度、三度。
直後、紘の耳に天使の歌声が届いた。
歌っているのは、奇跡の歌声を持つと言われている女子高生シンガーのウサコだ。昨年の冬にプロデビューし、次第に人気を得ている最近注目のアーティストである。
紘は初めて聞いたときから彼女の歌声に惚れてしまい、それ以来、彼女の歌声を天使の歌声と呼んでいる。本人は恥ずかしがって否定していたが……。
と、しばらく曲を聞いていると肩をとんとんと叩かれた。
後ろを振り向くと、不機嫌そうな表情を浮かべた水姫が立っている。何をそんなに怒っているのだろうかと不思議に思ったが、その答えは水姫が腕時計を指差していたことで理解できた。
スマホを確認してみると、デジタルの時計が十時ちょうどを表記していた。
もう随分と遅い時間だ。
「閉館時間だから、帰りなさいだって。何度も呼んだのに、紘は一度集中するとこれだから……」
「別に、俺は少し音楽を聞いてただけで」
「一時間近くは音楽聞いてたよ?」
「まじか」
「超マジ。そんなだから紘はヘッドフォン少年なんて言われてるんだよ」
「なにそれ、俺のあだ名?」
「え、知らないの?私のクラスでも噂になってたよ。二組にいつもヘッドフォンつけてる変人がいるって」
「ヘッドフォンくらい普通だろ。先生にも何も言われてないし」
「まあ、紘は無駄に成績いい方だし、基本は真面目だからねー。先生も見逃してくれたんじゃない?」
「……オホンッ」
水姫と話していると、咳払いが聞こえた。
周囲を見てみると生徒はすっかり帰っており、残っているのは塾講師だけになっている。心なしか紘たちを見る視線も痛い。
紘たちはすぐに塾を後にした。
時間も遅いし、そのまま真っ直ぐ家に帰ってもよかったのだが、こんな遅くまで外に出ていたのも久しぶりだったので、少しブラブラしながら帰ることにした。
途中コンビニに寄り、紘の両手にはコンビニ袋がぶらさがっている。右手が水姫の分で、左手が紘の分だ。気がついたときには、水姫の分も持たされていた。
夜の町を歩いていると、知っている町なのに全く違う世界にいるようで、少しだけ自分が大人になったような感じがする。もしかしたらさっきコンビニの前でたむろしていたヤンキーたちは、夜の町が醸し出す不思議な魅力の虜になっていただけなのかもしれない。
「なんか不思議な感じ」
目的もなく歩いていると、水姫がそんなことを言った。
黒縁メガネの奥にある瞳はどこか遠くを見つめている。何を考えているかまではわからないが、きっと紘と似たようなことだろう。
「そうだな、確かに不思議な感じだ」
「ちゃんと意味わかってる?」
「分かってるって。でもヤンキーになるかもしれないから夜遊びはほどほどにな。水姫は大丈夫だと思うけど」
「うん、紘って時々ズレてるよね。ヘッドフォンもそうだし」
「そうか?俺からしたら水姫も大概だと思うけど。入学早々、塾の見学なんて普通行かないって」
「バーカ。受験にフライングは無いんだから、早く始めた方がいいでしょ」
「いや、それはそうだけど……まだ受験勉強したくねえ」
「じゃあ、紘は今日の塾入らないの?」
「うーん、俺はまだいいや。水姫はやっぱり入るのか」
「ううん。無料体験できるみたいだから、それ次第かな」
「そっか」
他愛のない、そんな話をしていた時だった。
紘の耳に天使の歌声が届いた。
「どうしたの?」
「今……天使の歌声が」
「天使の歌声?それって、ウサコだよね。間違って電源でも入れたんじゃない」
「いや、そうじゃなくて……ほら!まただ!」
「え、聞こえないけど……」
水姫には聞こえていないようだが、紘の耳は小さな歌声を確かに拾っていた。
気がついたときには体が勝手に動いていた。
「え、ちょっと紘!?」
「たぶん、公園からだ!」
驚きの表情を浮かべる水姫を置いて、紘の体は歌声の主の方へと走っていた。
近づくにつれて、歌声は大きくハッキリと聞こえてくる。次第にメロディも分かってきた。
「これは……」
聞き覚えのあるメロディに紘の心臓がリズムを刻む。ついさっきも聞いていたのだ。
それを紘が間違えるわけがない。
「ウサコの曲だ!」
自然と紘の顔に笑みが浮かび上がる。
紘にとって、天使の歌声を持つ人間はこの世に一人だけだった。
それを二人目の天使がウサコの歌を歌っているとなれば、これほど嬉しいことはない。
ガチャガチャとコンビニ袋の中で缶コーヒーが鳴るが、紘は気にしなかった。
階段を一気にかけ上がる。
天使の歌声はこれでもかと、ハッキリ紘の耳に届いていた。
本物よりも時々ピッチが早かったり本物とは違い時々音程がズレたりしていた。
正直、音痴と言われても仕方ないくらい歌はへたくそだった。
それでも、その元気な歌声は不思議と紘の心に響いていた。
「はぁはぁ……」
公園に着くと、天使がそこにはいた。
滑り台の隣のベンチの上。
ウサコの曲を流し続けるラジカセの隣に天使は立っている。
「き、きき聞かれた……!!」
上下とも、熊のかわいらしいイラストが散りばめられたパジャマ。
額には、ピタリと貼られた熱冷まし用のシート。
肩の辺りまで伸びている茶色がかった髪は春の風に揺れ、ベンチの上に立ってなお、紘の視線より少し下にある瞳には動揺の色が塗られている。
顔を真っ赤にしてそう言う天使の正体は、風邪っぴきの少女だった。