クロムの空
少女を誘拐した。
氷花のように美しく、儚い少女だった。
***
目が覚めたとき、私は暗闇の中にいた。
ここはどこだろう。考えを巡らせようとした直後、カチッという音とともに、眩いまでの白光が視界を染め上げた。
「ぁぁ、起きたのか」
低く野太い男の声がした。
軽いめまいを感じながら、私は瞬きを繰り返す。上半身を起こしてみて初めて、自分が布団らしきものに寝かされていたことを知った。
「ここはどこ?」
私の問いに、男はひび割れた笑い声を発した。
「お前は何も知らなくていいんだよ。大人しく、そん中にいればな」
光に慣れ始めた目が、その男の容貌を映し出す。
角刈りの頭と、手入れのされていない無精髭。白いシャツ、その胸元にはペンダントを下げていた。そんな彼の目には、ギラリとした怪しげな光が浮かんでいる。
「その、中……?」
呟いて、瞬間に気づいた。
私と男の間には、茶色く錆びついた鉄格子があった。まるで牢獄のように、私は四畳ほどの空間に閉じ込められている。
「……どうして、こんなことを」
私が言い終えるよりも先に、男は何かを放ってよこした。軽い金属音を立てて、それは私のもとへ転がってくる。
「言っただろ。それをお前が知る必要はねぇって」
吐き捨てるように言うと、男は後ろのドアから出ていった。
残された私は、座ったまま男が投げたものを拾い上げる。
鯖の缶詰。
状況的に考えれば、これは私の『餌』というところか。
「…………ッ」
缶を開けようとタブに指をかけたとき、こめかみに鈍い痛みが走った。
頭が重い。思考に靄がかかっているような感覚だ。
とりあえず、このお粗末な食事を済ませてしまおう。きりきりと、空っぽの胃袋が発し続けている訴えを一刻も早く鎮めたい。
そういえば、最後にものを食べたのはいつだろう。思い出せない。
思い、出せない。
(……何を?)
不意に生まれた違和感を解消するのに、少しの時間を要した。
(私は、私、は……)
手繰る。手繰る。
そんなことは、そんなはずはないと半ば祈りながら。
だけど。
(私は、誰……?)
自分に関すること、全て。
どうやら、私の中からは、過去の記憶が余すところなく抜け落ちてしまっているようだった。
誰かの怒鳴り声が聞こえた。続いて、振りほどけないほど強い力で手首を握られる。痛み。むせかえるような臭気。手を伸ばせば、そこには鈍い光を発する刃物があった。力の限りにそれを突く。突く。赤、赤、赤、……赤。
最後に、頭上に広がっている、吸い込まれそうなほど深い群青色の空を見た、ような気がした。
「…………んっ」
はっと、意識が覚醒した。
夢を見ていた。ひどく混沌とした、息の詰まるような夢を。
記憶の切れ端だろうか。思い起こそうとしても、見えない沼の中に手を伸ばすときのように、本能的な抑止が意識にかかる。
「……これは夢じゃないのね」
ひんやりとした鉄格子に触れると、今の状況を嫌でも認識させられる。
私を監禁した張本人の男は、ドア横の椅子にだらしなくしなだれかかり、いびきを立てながら寝入っていた。
過去がわからない私には、彼が私にとってどういう人間だったのかがわからない。家族、知人、恋人といった間柄だったのか、あるいは何の関わりもない赤の他人だったのか。
いずれにせよ、彼の目的を探らなければならない。その上で、ここから脱出する方法を見つけるのが定石のはずだ。
男も、眠るつもりはなかったのだろう。幸い、部屋の照明はついたままだった。
(まずは、この部屋の構造と、手に入れられそうなもの)
鉄格子は、少し古めかしいものの、私の力で壊せるような強度ではなさそうだ。男が回収したのだろう。先刻の缶詰の容器は見当たらない。こちら側にあるものと言えば、かび臭い布団とよれたシーツくらいだ。
だけど、あちら側には、実に多様なものがあった。
六畳ほどの空間に配置された、単純なつくりの長机。その上には、空の注射器、刃渡り十センチほどの刃物、黒光りする小型の銃などが並べられていた。
男の足元には、きれいに折りたたまれた白い衣服と、先ほどと同じような缶詰が一つ置かれている。
部屋は、白灰色のコンクリート張りになっていた。思えば、布団と私が着ている服も同じ色をしている。
見れば見るほど異様な部屋だ。
「……んがッ、寝ちまってたか」
最後に一際大きないびきをかいて、男は目を覚ました。
「あぁ、首痛ってぇ。ったく、こんなとこで寝るもんじゃねぇな」
首を鳴らして、男は伸びをする。
気取られないように、私は心構えをした。限りなく高い確率で、彼は私に危害を加えかねない存在だが、同時にこの上ない情報源でもある。
「おはようございます」
声をかけると、男は不意をつかれたようにこちらを見た。
「……お前、起きてたのか」
男は、睨めつけるような半眼を向けてくる。私が何か妙な真似をしていないか確認しているのだろう。私から外れた視線は、こちら側の隅々をさらっていく。
(……さて)
どのように話を持っていこう。
相手の目的が不明な以上、私が記憶を喪失していることは伏せておいた方が良いはずだ。いずれバレるにせよ、付け込まれるまでのリミットはなるべく引き延ばしておきたい。
一度目に目を覚ました後に交わした会話から、ここが私の知る場所ではないことはわかっている。
だとすれば。
「今は何時かしら」
ボロの出ない範囲で会話をし、そこから現状で役立つピースをはめていく。
「ぁぁ? んなこと聞いて何になるってんだよ」
「いえ、別に気になっただけ。こんなところに閉じ込められていたら時間の感覚も薄れてしまうから」
「ずっと寝てたやつがよく言うぜ。そのまま死んじまうのかと思ったわ」
男は立ち上がると、足元の衣服と缶詰を拾う。
「とりあえず着替えろ」
「どうもご丁寧に。親切なあなたなら、一つ私のお願いを聞いてくれる?」
「はっ、なんだよ」
「お手洗いに行きたいの」
私が言うと、男は面倒臭そうにため息をついた。
「その前にこれをつけろ」
男は、長机の上にあった手錠をこちらに投げてよこした。
鉄格子の部屋を出ると、同じようなコンクリの廊下が左右に伸びていた。
見たところ、右に二つの部屋、左に三つの部屋があるようだ。右手奥には上へ続く階段が、左手奥には閉ざされた扉があった。
男にせっつかれて、私は廊下を左へ進む。私の手には手錠、彼の手にはスタンガンというこの状況下では下手な抵抗はできない。
私のいた部屋から数えて二つ目のドアの前を通りかかったとき、中から子供の泣き喚く声が聞こえた。
「……私以外にも誰かいるの?」
「だとしたらどうする? お前には何もできねぇが」
「ひどい人」
男は廊下に響き渡る哄笑を発した。
最奥の扉を開いて照明をつけると、割れた鏡のかかった洗面所と手狭な浴槽、年季の入った洋式トイレが目に入った。薄汚れてはいるものの、一応シャワーもある。
「俺は扉の外にいる。妙な気を起こすなよ」
それだけ言い残すと、男はドアを閉めた。
一人になって、小さく息をつく。
男はおそらく、自ら何かを話すつもりがない。でも裏を返せば、彼は私の事情につっこんでこないのだろう。
私のことをよく知っているからなのか、あるいは私に興味がないからなのか。
それを決めるには、まだ判断材料が足りない。
(ひとまず)
目的を果たしてしまおう。
そう思って、何気なく鏡を見て。
私は、言葉を失った。
男は、私が起きている間に三度、水や缶詰、炒めた穀物を持ってきた。その量は決して多いとは言えないものだったが、空腹を紛らわせるのには少しは役立った。
三回目の食事のとき、男は透明な薬液を入れた注射器を一緒に渡してきた。こちらからの急襲を警戒してか、彼は必ずゴーグルをつけ、私を部屋の隅に行かせてから差し入れてくる。
中に入っている液体が何なのか問うても、彼はあの嫌な感じの笑いを浮かべるだけだった。
「お前、名前は何て言うんだ」
十度目の食事を終えた頃、男はいつものように椅子に座ったまま、私にそんなことを聞いてきた。
「あなたに言う義理はないでしょう?」
「ははっ、違いねぇ」
監禁生活を送っているうちに、わかってくることもいくらかあった。
まず、男は私にとって近しい人間ではなかったということ。探るまでもなく、男との会話からそれはわかった。
次に、私たちが閉じ込められているこの空間はおそらく地下だということ。一日を通して温度の変化が小さいうえ、壁に耳をくっつけてみても何の音も聞こえない。建造物の材質によってはそういうこともあるかもしれないが、まず地下だと考えてもよいだろう。
そして、粗野な風貌とは裏腹に、男は案外抜け目のない人間だということ。私に危険となり得るものを持たせない、必要以上の情報を渡さない、適度にスタンガンや刃物などを見せることで歯向かう絵を浮かばせない。
「クロム、と呼んでもらっていいかしら」
「あ? 何だそりゃ」
「呼び名よ。あった方が、何かと便利じゃない」
「ふはっ、生意気なガキだなお前」
最後に、この男はすぐに私を殺す気はないだろうということ。食事や衣服をはじめとして、彼は最低限のものを私に提供し、こちらの要望も安全なものであれば聞き入れてくれた。
だがそれは、あくまで現時点での憶測。この扱いがいつまで続くのかは不透明だ。向こうの事情が変われば、明日殺されてもおかしくはない。
(事情……)
それが何であるのか、私は未だに突き止められていない。
「なら、俺のことはモノと呼べ」
「……悪趣味ね」
「今頃言うことじゃねーなぁそりゃ」
男は下卑た笑いを浮かべる。
「一つだけ聞いてもいい? モノ」
「言うだけ言ってみろよ、クロム」
「あなたは、いつもどこへ行っているの?
彼は時折、この地下室を離れることがあった。正確なところはわからないが、短いときで一~二時間ほど、長いときで半日ほど戻らないときもあった。
「聞いてどうする?」
「いえ、新しいお仲間でも増えるのかと思って」
「ワガママお嬢様はそれじゃ不満か?」
「別に。あなたのお気に入りのおもちゃになるよりは幾分ましだわ」
言うと、モノと名乗った男は愉快そうに笑った。
「おもしれぇ、お前おもしれぇよ」
モノは立ち上がると、長机に並べられている道具のうち、一つを手に取った。
「これでも、そんな口きけるか?」
黒光りする小型の銃。こちらに向けられたそれは、間違いなく本物なのだとこの数日の間で知った。
「命乞いが見たいの? それとも芸?」
「いいや、俺はお前が見たい」
「謎かけかしら。それとも……」
カチリと、冷たい金属音が室温に響いた。
そして、引き金にかかった男の指に力がこもり。
耳をつんざくような破裂音が――。
「……ごっこ遊び?」
――しなかった。
どうやら、実弾は入っていなかったらしい。空の銃を、モノは静かに長机に戻す。
「気づいているか、クロム。お前は異常だ」
それがお前にとって良い方向に働けばいいがな、と言い残して、モノは部屋を去っていった。
「モノ、そのペンダントは何?」
十六回目の食事の後、私はドア横の椅子に座っている彼にそんなことを聞いた。
ストックホルム症候群と呼ばれる心理作用なのだろうか。私はモノという男に、多少なりとも悪からぬ感情を抱き始めていた。
「ぁぁ? 大したもんじゃねぇよ」
「その割には、ずいぶんと大切に持っているようだけれど」
私が言うと、彼は面倒臭そうに舌打ちをした。
「何も話したがらないのね。そんなあなたに一つ、聞きたいことがあるのだけど」
「お前は質問ばっかだな」
「わからないのなら、わかりたいと思うのが人情でしょう?」
「はっ、ずいぶんと愉快な物言いだ」
「――あなたは、どうしてこんなことをしているの?」
私の問いに、モノは一瞬口を閉ざした。
「……だから、何度も」
「言わないのか、あるいは言えないのか。たったそれだけでも、私には価値のある情報なのよ」
「なら、自分の希望的仮説を信じろよ。この世で生きてくにゃ、それ以上に幸せなことはねぇ」
モノは、いつもの調子でそう言った。
平行線。彼は決して、そこから先を譲らない。
だとすれば、踏み込むためにはこちらの懐を明かす必要がある。
「記憶がないの」
「……は?」
「ここに監禁されるまでの記憶。私には、私という人間の過去がわからない」
さすがに想定外だったのだろう。モノは虚を突かれたような顔をした。
「……やっぱ異常だよ、お前」
「憐れんでくれた? おかげで、私には今の状況が微塵もわからないわ」
想像することだけはできるけれど、と付け加える。
珍しく、モノは考え込むような表情を見せた。そして、少しの沈黙の後、彼は口を開いた。
「きっと、お前が考えているのとは、現実はかなり違う」
「え?」
「最悪を想定しろ。災厄はその外からやってくる」
「何それ、交通安全の標語かしら」
「……今度は、こっちから一つ、聞いていいか」
「珍しいのね。少しは私に興味を持ってくれた?」
「はっ、お前が言うほど肯定的なものじゃねぇさ」
「それで、何が聞きたいの? 私に答えられることであれば、何でも話すけれど」
「単純な問いだよ。お前は一体、何を望んで生きている?」
「何を、って」
今度は私が息を呑む番だった。
おそらく、彼にはわかっているのだろう。私の憶測も、そこから組み立てた狙いも。
だから、心を以て考えた。それが、モノに対してなのか、クロムと名付けた自分に対してなのかはわからなかったけれど、私にできる限り誠実な答えになるように。
「……空が、見たいわ」
「空?」
「ええ。この世界に広がる、茫漠な空。そこにはたぶん、痛みも苦しみも感じさせない、純粋な色があると思うから」
「随分と詩的だな。バカみてぇだ」
「ひどい人ね。私は真剣に答えたのに」
「だからだよ。お前が望むほど、世界はきれいにできてねぇ」
そう言って、モノはハッと鼻で笑った。
喉を裂くような叫喚が聞こえたのは、二十二回目の食事を終えてしばらく経った頃だった。
声がしたのは、おそらく廊下の方からだ。以前私が廊下で聞いた、子供の声。それからすぐに、銃声が二度鳴り響いた。
少し遅れてから、私のいる部屋のドアが開く。のろのろと入ってきたのは、白いシャツを返り血で真っ赤に染めたモノだった。
「……何があったの」
私の問いに、彼は両掌を上へ向けた。
「しくじった。全部おじゃんだ」
銃を椅子に置くと、モノは鉄格子の方へ歩み寄ってきた。彼から鬼気迫る何かを感じ、私は反対側の壁へ後ずさりする。
だが予想に反して、彼がズボンのポケットから取り出したのは鉄格子の鍵だった。
「出してやるよ。ここは終わりだ」
金具の外れる音がして、あっけないほどあっさりと鉄格子の扉が開いた。
「何があったの。さっきの銃声と叫び声は」
「……ぁぁ、あのガキを殺った」
「そんな、どうして」
「あいつはもう“ダメ”だった。だが、心配しなくても、お前に危害を加えはしねぇよ」
おぼつかない足取りでドアのところまで歩くと、モノは崩れるようにして床に座り込んだ。
心なしか、顔色が悪い。浅い息を繰り返した後、彼は大きく深呼吸した。
「……それともなんだ、ここでお前も殺されてぇか?」
私を試すように、モノは口の端を釣り上げて言ってきた。
「……やっぱり、お見通しだったのね」
「これでも、監禁対象はよく観察してたつもりだったんでな」
モノは、今度は自嘲的な笑みを浮かべる。
「お前は初めからどこかおかしかった。自覚はないのかもしれねぇが、俺の目から見ればそれは明らかだった」
天井を仰ぎながら言葉を紡ぐ彼に、私は少しの反感を覚えた。
「私は狂ってなんかないわ。現に、今でもこうしてあなたと」
「それが異常なんだよ」
遮るように、モノは強い声で言った。
「普通なら、見知らぬ場所で見知らぬ男に監禁されてることがわかりゃ、多少なりとも取り乱す。どうして、なんで。恐怖に支配された疑問が生まれるはずだ」
「それは」
「怖い。逃げ出したい。お前は一度でもそう思ったか? 常識としての判断としてではなく、お前自身の望みとして行動を起こそうと考えたか?」
ああ、嫌だ。
ザリザリと、自分の表面が削られていくような感覚。
「クロム、お前という人間は一貫していた。冷静で、賢明で、どこまでも空虚」
聞きたくない。暴かれたくない。
クロムの皮が剥がれたら、私は、名前も知らない『私』に向き合わなければならない。
手ひどい虐待を受けていた、救われない哀れな少女に。
初めてこの鉄格子の中で目を覚ましたとき、暗闇から重くのしかかるようなもの苦しさを感じた。それから、何かを思い出す前に、私はその暗く冷たい気持ちを心の奥底に押し込んだ。
監禁されたのだという事実を受け入れることに、さしたる抵抗はなかった。現状を変えられる力が自分にないのならば、諦めて甘んじるのが最も楽だと知識ではなく感覚として知っていたから。
「でも、私は逃げ出そうと思ったわ」
「それが、お前の中の理論で正しいと思ったから、だろ。もしも絶対に逃げられないとわかったら、お前はそれを望まなかった」
おそらく、モノの言う通りだっただろう。それが『仕方のない』苦痛なら、私はそれを拒まない。
「だけど、洗面所の鏡で自分の姿を見たとき、お前の考えは変わった。違うか?」
「……ほんと、よく見てるのね」
首元から覗く痣。記憶を失った私が見つけたのは、決して幸福とは言えない過去の跡だった。
「全身に残った痣や火傷痕。それらが一朝一夕でつけられたものではないことは明らかだった」
「よく知っているのね」
「その服に着替えさせるときに、な。安心しろ、特にやましいことはしていない」
そこで、モノは小さく咳き込んだ。口を押さえた彼の手には、少量の血がついていた。
「モノ、それ」
私の疑問を黙殺して、彼は続けた。
「自分が虐待されていたことを知って、お前は狙いを変えた。逃げることを諦めて、ここで過ごすことを選んだ」
帰るべき場所で私を待っているのが辛い現実であるのなら、ここから脱出しても同じことが起こるだけだ。
なら、無理に現状を打破する必要はない。諦めて、受け入れる。『私』はそういう人間だった。
「幸いと言うべきか、俺はお前にひどいことをしなかった。だからお前は、今の状況に甘んじた」
「そこまでわかっているのだったら、もう十分ね」
殺して。
他の誰でもない、あなたの手で。
できる限りの微笑みを浮かべて、私は言った。
「ここでの生活はそれなりに幸せだったわ。心も体も傷つけられなくて、無限とも思えるような平凡な退屈があって、だけどその裏にはいつだって死への期待が持てて」
そして、誘拐犯がいた。
無関心を装って私のことを見守る、優しくてぶっきらぼうな誘拐犯が。
「だから私はもうここでいい。クロムとして、ここで終わりたい」
そうすればきっと、私は『私』を受け入れて死ぬことができる。
「はは、ははははっ」
心底楽しそうに、モノは笑った。
「ぁぁ、だから嫌だったんだ。お前に愛着を持たれるのも、お前に愛着を持つのも」
激しい咳に遅れて、モノは先ほどよりも多量の血を吐く。
「……これじゃモノと名乗った意味がねぇ。誘拐した人間とされた人間。たったそれだけの関係で終わらせるはずだったのに」
痛みに顔をしかめながらも、彼は愉快そうに笑った。
「俺の目的のために、お前を利用しようとした。生か死か、この世界には、今それだけしかないってのに」
モノの呂律が怪しい。その言葉も、どこか滅裂なものになってきていた。
「一つだけ、頼みたいことがある」
「……何かしら」
緩慢な動作で、モノは手招きした。私がそれに従うと、彼は首に下げていたペンダントと小型の銃を渡してきた。
「その二人を、探してくれないか。もう、生きているかどうかわからねぇが」
「そんな、私は」
「すまねぇが、お前の願いは聞いてやれないみたいだ」
彼は、弱々しい力で私を押す。その意思に引かれるようにして、私は数歩後ずさった。
「生きろよ、クロム。もしかしたらこんな世界でも、お前の望む色が見つかるかもしれねぇ」
モノは、顔を歪ませて笑う。その右腕には、とても直視できないような、肉ごと噛みちぎられた跡があった。
そして、事切れたようにビクリと体を震わせると。
――彼は“発症”した。
走馬灯のように記憶が蘇った。
私の思考に、かつての『私』が見た映像が流れ込んでくる。
焦点を失った目、血に濡れた犬歯、顎が外れんばかりに開かれた口。
支離滅裂な叫びを発しながら私を襲ってきていたのは、変わり果てた姿になった私の父だった。
変異した狂犬病ウイルス。日本中に蔓延したそれに感染すれば、意識が白濁し、引き換えに興奮状態に陥る。異常なまでの食欲と狂暴性。発症した人間の噛みつき衝動を鎮めるには、対象を絶命させるしかない。
私は父を殺した。虐待への恨みや怒りはなかった。ただ目の前の異様な生き物を殺すために、その体を何度も刺した。
私が感染しなかったのはひとえに運が良かったからだろう。口や傷口からのウイルスの侵入のことなど、一切考えなかった。
その後、私は外へ逃げようとして、どこかの道路で気を失った。長らく私を苦しめ続けてきた存在が消え、体が安堵したのだろう。
そして、目を覚ましたとき、私は鉄格子の中に囚われていた。
額を銃弾で打ち抜かれ、真っ赤な血だまりの中に寝転がっているモノに話しかける。
「やっぱり、あなたはひどい人ね」
授かったペンダントのチャームを開いて、私は小さくため息をつく。
彼の妻と子供だろうか。柔らかに微笑む女性と、その腕に抱かれて眠っている赤ん坊の写真が収められていた。
生きる理由を、生きなければいけない理由を背負わされてしまった。
「……モノ、あなたは私のことを『助けて』くれたんでしょう?」
ウイルスが蔓延し、発症した人間たちがゾンビのようにうろつきまわる外の世界では、まともに動けない人間はすぐに死ぬ。
きっと彼は、父を殺した後に道路で気絶してしまった私を見つけたとき、保護してくれたのだ。
鉄格子の中へ閉じ込めることによって、ゾンビたちから私を遠ざけ、また私が発症した際は安全に殺せるように。
水も、非常食も、ワクチンも、惜しむことなく施してくれて。
「ありがとう。そして、死ぬまで恨むわ、モノ」
着替えた衣服の内に、私は彼のペンダントを仕舞う。それから諸々の道具を備えて、私は部屋を出た。
もはや見慣れた白いコンクリの廊下を歩く。手錠も、後ろで構えられたスタンガンもない、ひどく物寂しい外出だ。
階段を上り、頭上を塞いでいた蓋を少しだけ開ける。その間から地上の様子を見て、私は“発症”した人間が近くにいないことを確認する。
音を立てないように静かに蓋を外して、私は外へ出た。久しぶりの新鮮な空気。明け方なのだろうか、まだ辺りの暗い中、少し肌寒い風が頬を撫でる。
顔を上げたとき、私は思わず足を止めた。
「ねぇ、モノ」
深く暗い群青の闇と溶け合うように広がる、白く燃ゆる地平線の薄明。視界に飛び込んできた色鮮やかな光たちを前に、私は思わず息を呑んだ。
「私はきっと、あなたと一緒にこの景色を見たかった」
微笑みとともに漏れた呟きは、溶けるようにして中空へ消えていった。
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