第八話 『俺氏、詐欺に遭う』
宝箱内部には黒い水のようなものが渦巻いていた。
俺はその黒い海の水面に自分の顔を映しながら、疑問符を立てる。
……何だこれ?
そう思った瞬間、表面が急に波立つ。
俺にはソレの正体がよく分からなかったが、そいつが長い間この箱の中に封印され、今その呪縛から解放されたことに歓喜している、ということを直感的に感じた。
——ぎゃああアあァ!!
突然、けたたましく響く沢山の叫び声。高かったり、低かったり、男の声、女の声。老人、子供。
実にその種類は様々。
しかし、それらを発する黒い奔流自体は皆同じ意思を持って、宝箱の外側へ爆散した。
「わっわっわっわ!!」
俺は巨大なエネルギーとなって溢れ出す流れを食い止められず、成す術もない。
そのまま茫然と黒い塊たちの狂喜乱舞を眺めていることしか出来なかった。
彼らは一瞬にして、部屋を埋め尽くし蹂躙すると、壁や天井、果ては床を通り抜けて何処かへと去ってしまった。
「な、何だったんだ?」
信じられない事態に俺は突っ立っていることしか出来ない。
部屋内部の家具は原型もとどめぬ程コナゴナに破壊され、クマさん人形は呪いの人形のような外見と化していた。
バクバク唸る心臓を落ち着けようと、俺は右手に握っていた水色パンティを頭から被る。
「すぅうううはぁあー、すぅぅううはぁぁあー……」
ふう、ちょっとばかし落ち着いた。
やっぱり、女性用下着のチカラは凄いな。この締め付け、フィット感、圧倒的安心感のようなモノがある。合法麻薬として売り出したら、一儲け出来るだろうに。
商売ネタを一つ思いつくぐらいの余裕を取り戻した俺は、そこでさっきまで気付かなかった現象を視認する。宝箱が光を放っていた。
「何か、光ってる……」
俺は怪訝な顔で、箱内部を覗き込む。
そこには、またも水のようなモノが湛えられていた。先ほどの黒い水とは違い、今度は色白。
イメージ的には暗黒に対抗する聖なるものに近い。
その聖水のようなものは俺が顔を出すと同時に突如、沸き立つ。
まるで宿主を失った、寄生生物たちが新たな母体を発見したかのように。
「えっえっえっえっ! ちょっ……!」
途端に彼らは俺の顔面に殺到した。そして、パンティ越しに口に鼻にと暴力的に流れ込んでくる。
「ほげええぇぇぇぇぇ!!」
さながら鼻うどんの状態になりながら、俺は部屋内部で暴れ回る。
しかし、どれだけ激しく動いても、彼らに「容赦」の文字はなく、ただ俺の内部に強制的な侵入を敢行する。
俺は泣きながら、彼らの通過が終わるのを待つしかなかった。
まさか童貞を卒業する前に鼻処女を捨てねばならぬトキが来ようとは。
レベルが高すぎる。
そして、暫くすると彼らが鼻穴を通り抜ける感触が無くなった。
俺は鼻水をだーっ、と流しながらヒリヒリするマイノウズを撫でる。
どうやら、嗅覚器官は無事なようらしい。
確かに、未だ、パンティの心地よい香りは鼻腔を満たしていく。
一枚の布は穢された俺の大事な所を優しく慰めてくれた。やっぱパンティは神だわ。
泣き笑いのような表情を浮かべて、俺がようやく立ち直ろうとしたとき。
突如、背後から寒気のするような怒気を感じた。
「何ですか? これは……」
俺が壊れかかったロボットのような動きでその声の主を視界に入れる。
ピッチリしたスーツ。タイトなスカートから伸びるすらっとした脚は、強靭なキックをも可能にするだろう。
氷の女王。神様の遣い。
OLクソ眼鏡のご登場だ。最悪なタイミングで。
「あ……、い、いえー……。これはその……何と言うか俺のせいじゃないっていうか……」
だらだらと冷や汗を流しながら、俺は弁明。しかし、本人のパンティを被った状態で何を言っても全ては、せんなし、無駄なことだと悟った。
「誰のせいだって言うノカシラ?」
笑顔で言っているが、彼女のボルテージがマグマのように高まっているのを感じた。
多分、アイツの横に怒りゲージとかあったら、マックスの赤とか表示しちゃってる。
俺君、命のピーンチ!ってやつである。
「い、いや……! ですから、この宝箱みたいなヤツからですね……」
俺は、手に持つ空っぽの箱を持ち上げて、彼女に示した。すると、彼女の顔が突然、目に見えて強張る。
「貴様! それを開けたのかっ?!」
「え? あ……、はい。開けました……。何か黒いものがドバーッて出てきたんですけど……」
ピシッと冬の枯れ枝を踏み割ったような音がした。
俺は愛想笑いで誤魔化す。が、目の前のOLの目に明らかな殺意が宿り始めたことまでは煙に巻けなかった。
「き、貴様は……。今まで数多の冒険者たちが捕まえてきた魔物たちを……。たった一人で……」
マズイ。何か知らんが、自分がやったことは非常にヤバいことのようだ。
それが証拠にクソ眼鏡のヤツは懐から獲物をおもむろに取り出している。
「ヒィッ!」
鋭い軌道で飛んできたナイフを俺はギリギリでかわす。が、ジッ、という音と共に刃が側頭部を掠った。
その影響で被っているパンティに切れ目がつと走り、ハラリと床に落ちた。
「のわあああああ!!」
人は時として死の恐怖を感じるととんでもない行動に出る。
今の俺も同じ。
デカい悲鳴を上げながら、駆ける足は敵の方へ真っ直ぐ動いていた。
しまった、失策だ、と気付いたが、踏み出したからにはもう遅い。
そのままラガーのようにOLにタックルを決めた。
「ぬうっ!」
彼女は大を捻り出すような悲鳴を上げて俺の突進を食らう。
俺はボインの思わぬ反発力に二重の意味で面食らったが、それでも強制的に全体重を押し込む。
「だらあああ!」
気合と共に彼女を廊下まで後退させた。
「よっしゃ、エスケイプや!」
左右の逃げ道が確保されると、俺は一目散にその場から逃げ出す。
「ごらあっ、待てぇっ!!」
背中にOLの怒号が飛んでくる。
俺がそれも無視して、全速力を出していると、今度は凶器が風を切って飛んできた。
ヒュンヒュン唸りながら、それらは俺を掠めていく。
「うおああああ?!」
俺は頭を守るようにして、左の道へ折れた。
出口……出口……出口はどこだ……!!
呪文のように頭の中で唱えながら、扉を探す。
しかし、目的のものは何処にもない。
「くそっ……! あそこに来たときはどういう道のりを辿った……?!」
後方の脅威にびくびく怯えながら、必死に思考を巡らす。
そうだ。あの部屋に辿り着くまで、何度も道を曲がったりした。
ルートなど覚えられるはずがないのだ。
この建物の構造があり得ないほどややこしいのは、脱走者を逃がさないような効果を狙っているのだろう。
俺は悔しげに唇を噛んだった。
が、そんなカンダッタ君にも一筋の希望の糸が落とされる。
俺は右の壁に角張った表示を見つけた。
「こ、これはッ……?!」
そこにはこうある。
『EXITE ←』
綴りのミスが気になるが、恐らくこの矢印の先に出口があるのだろう。
「神! これに従って行けば逃げられる!」
俺は歓喜の声を上げて、それの指示通りに動いた。
その後も現れた表示は
『EXITE ↑』
『EXITE →』
『EXITE ←』
などと、次々に指す方向を変えていった。
俺は従順に直進、右折、左折と突っ走る。
そして、とうとう次の表示を発見した。
『FINAL EXITE →』
間違いなく、今季最高の笑顔になっていたと思う。
これで、ヤツの魔の手から逃れられるのだ。
そして、俺は次の角を意気揚々と右に折れた。
——絶望
何とそこは袋小路。もの言わぬ壁が圧倒的な拒絶感を放っていた。
青ざめた顔の俺はそこに英語で書かれた表示を見つける。
『It’s American joke! Are you EXITED? HAHAHAHA!!』
なるほど。これまでの『EXITE』という表示は『EXIT』、つまり『出口』のスペルミスではなく、本当にこちらを『エキサイト』させる為のジョークだったらしい。
ハハハ、こいつは一本とられたゼ☆
俺が歯軋りしながら額に青筋を立てていると、後ろからカツカツと死神の足音が聞こえた。