第七十八話 『試合に勝って勝負に負けた』
「ハッハッハー! ドウシタ、テト! 私はもう十周目ダゾゥ!」
かなりの距離を走っているだろうに、全く呼吸の乱れないルーニィが競走相手を追い抜きざま声をかけた。
「へにゃ……ハァはぁ、ま、待ってくださぃい〜……!」
まだ三周しか出来てないテトは、よたよた走りながら遠くなる相手へ手を伸ばす。しかし、距離は遅々として縮まらず、それどころか開くばかり。
えげつないなぁ、そんなことを思いつつ俺はウノロス車の日陰で彼女らのかけっこを眺めていた。
トバコを早朝に出発し、既に日も高い日中。アデレイドまではまだ掛かりそうだったので、休憩を取ることにしたのだ。
そして、草原に敷いたカーペットの上で昼食を摂っている最中に……
※
「やっぱり嫁に必要なのは体力だろ!」
道中に購入したおにぎりを片手に、ルカが吠えた。頬っぺたに米粒が付いていた。
ティーカップを小さな両手で支えたテトのきょとん顔が印象的。ルーニィは真逆の反応、「ナルホド……体力か」と納得の表情を作った。
「なんというか、やけにノリノリだな……お前」
「ハハハ、ユウトも意地が悪いナァ。分かってるクセニ」
げんなりする俺に、ルーニィが笑いかける。
やめろ、それ以上言うな。また、ルカの奴が俺を睨んでる。
一応、カーペットからいつでも逃げられるよう体勢を整えておこう。
「……言っておくが、僕は……!」
「わーった! わーった! アレだろ?! 体力勝負なら、ルーニィにも勝てるからだろ?!」
どうどう、のポーズを作りつつ上手い具合に狂犬を誘導してやる。
ルカが俺にどんな感情を持っているのかは知らんが、どうも素直でないことだけは確か。
なれば、彼女にとって収まりのよい方向に導くのが吉。
「そ、そうだ! ルーニィ! さっきのリベンジをしてやる! さぁ、さっさと飯を済ませるんだ!」
策を弄した甲斐あり。案の定、ルカは引っ掛かってくれた。
「エー、ヤダヨゥ。ゴハンはゆっくり味わいふぁいふぉにふぁあ……」
大きな『ホットドッグ』にむしゃぶりつきつつ、ルーニィがもごもご答えた。口の中のモノを飲み込むと、突然「ユウト!」と俺に輝く瞳を向ける。ずいっと空のコップを差し出された。その口周りは『白いもの』で汚れている。
「牛乳のお替りダ」
「お、おぅ……」
出来るだけ平静を装いつつ、彼女のコップに追加分を注ぐ。
バレてないよな、と思いながら少し目を上げるとテトがこれでもかと言わんばかりに大きな翠目で俺を凝視していた。
「ユートサンハ、ナンデ顔ヲ赤クシテルンデスカ……?」
「へっ?! い、いや?!」
突然畳みかけてくるテトに狼狽えてしまう。牛乳瓶を持った手が震えた。
「イマ、ゼッタイ、変ナコトヲ考エテマシタヨネ……??」
気付けば、すぐ隣に彼女が居た。ヤンデレみたいな目が俺をジッと刺す。
「そそそそんなことはァ、ないでござるよ……!」
初めて、このときテトがちょっとだけ恐いと思うようになったのである。
※
「フゥー、体力勝負は私の勝ちカナァ」
爽やかな笑みと共にルーニィが俺の涼んでいるウノロス車の方へとやって来た。
「ああ、お疲れ。圧勝だったな。まぁ分かってたんだが……」
俺は冷水を飲みつつ、草原向こうで潰れている黄色い物体を見て苦笑した。アレでも結構頑張ってた。相変わらず変な走り方ではあったが、その健気な努力が何ともいじらしい。
「ユウト、それチョット頂戴」
日照りの下で目を回しているテトの救助に行こうとしたとき、ルーニィに呼び止められる。
彼女の視線が俺の飲んでいたコップに向いていた。
「まだ中身はあるけど……でも荷台の樽からまた新しいの注いだ方が良くないか?」
怪訝な顔の俺を見ても、ルーニィは笑みを崩さない。
「アハハ、ツレナイなぁ、君は。優勝は私ナンダヨ?」
突然、耳元に顔を寄せられる。運動後に特有な熱を持った吐息が首筋を撫ぜた。
「だから、チョットくらい報酬がほしいナ」
甘えるような声音が、俺の抵抗を封じた。
その隙をついて、コップを奪われる。
「お、おい……」
「んく……んくっ……ぷハー」
一滴残らず、俺が先ほどまで口をつけていた水を飲み干すと、彼女は白い歯を見せ破顔する。
「キミはとってもオイシイ味がするんダネ」
ルーニィが口を手の甲で拭うと、その褐色肌を水滴が伝う。形の良い顎からぽたりと滴り落ちた。
……何というか暫し見惚れてしまった。
そうしてポカンと間の抜けた時間を過ごしていると、ルーニィが俺の背後を指差す。
「ホラ、ユウト。テトを助けに行かなくてイイのかい?」
「え、あ、ああ……!」
俺としたことが、大事なことを。浮気な自分を叱責して、足早にテトのもとへ。
地面に這いつくばりながらも、テトは必死に顔を上げて、潤んだ瞳を俺へと向ける。
「うぅう……ゆーとさぁん……ごめんなさい、負けちゃいました……ぐすっ……」
洗ったばかりであろうレースの白は砂で汚れ、元気だった狐耳もへなっと曲がっている。
「萌」
「へぁ……な、何ですか?」
「いや、何でもない。よく頑張った、偉いぞ」
しゃがんでその頭をわしゃわしゃしてやる。小さな頭は俺が撫でる度に右へ左へと動いた。
「えへ、えへへ……。でも、私負けちゃいましたです……」
手を浮かそうとすると、テトは自ら頭を押し付けておねだりをした。
「なーに、総合点では俺はテトが一番だと思ってるよ」
慰問の意味も込めて、それに応じてやる。
「ほんとですかっ!」
「うお」
物凄い勢いで顔を寄せられ、少し引いてしまう。しかし、彼女の必死な表情を見ると、頷かざるを得なかった。
俺の返答がイエスと分かるや、テトの不安げだった顔が安堵に和らぐ。
それから、彼女は下を向くと何か迷うような仕草を見せ、そしてこう言った。
「あ、あの……。ゆーとさん……一つお願いがあるんですけど」
「ん、何?」
「抱っこしてくれませんか?」
本日二度目の硬直。
しかし、それ以上にテトの方がヤバかった。そんな赤ら顔で頼まれると、邪険に拒否するのが何だか重罪のような気がしてくる。
「あ、いえ……! 嫌でしたら、全然大丈夫ですっ。ごめんなさい、気にしないで――ひゃっ」
久方ぶりに彼女を持ち上げたが、相変わらず綿毛の如く軽い。
しかし、その体温と柔らかい身体は本物だ。
「あ、ありがとうございます……」
「いい、いい。全然オッケイ」
俺が太ももを腕で支えると、テトも細い腕を肩に回して抱きついてくる。
なまじ距離が近いだけに、密着してしまうが、僧の如く煩悩を押し殺した。
そのままゆっくり歩き始めると、テトがぽつりと呟く。
「あの時は……お姫様抱っこでしたね」
「あぁ……。もしかして、あっちの方が良かった?」
アデレイドでテトと初めて出会ったあの日。初対面にも関わらず、彼女を持ち上げて走った思い出がある。
「いいえ、私はこっちも好きですよ?」
俺に巻き付く両腕に僅かに力が入った。
テトの白い頬が俺の顔で擦られる。
「んっ……じょりじょり〜」
「おいこら、テト。人の剃り残しで遊ぶな」
「だって気持ち良いんですもーん」
にひひ、と笑むテトの笑顔はやはり本日のMVPだと思った。
※※
「…………ムムム」
ルーニィは向こうから歩いてくる二人の男女を前に、不満げな顔を浮かべていた。
「いやー。お熱いねぇ、二人とも。こりゃ僕達の惨敗だな」
いつの間にか目を覚ましていたルカがルーニィの隣りで茶化す。その発言を聞いて、ますますルーニィの頬がぷくっと膨らんだ。
「フンッ、いいモン! 私ハ冒険者になって、自由に生きられたらそれでイインダ!」
ぷいっとルーニィはそっぽを向いたが、自分を覗き込む意地悪な視線が追い掛けてくる。
「……な、ナンダヨその顔は……?」
「羨ましいんだ?」
「う、羨ましくなんかナイ!」
「ルーニィも頭撫でて欲しかったんだ?」
「違う! 違うゾ!」
何度、腕を振り回して否定しても、ルカのニヤニヤはますます酷くなるばかり。彼女はおもむろに手でスピーカーを作ると、いきなりこちらへ向かってくる青年へ大声を送った。
「おーい! ユウトォ! ルーニィも同じことして欲しいってさぁー!!」
「ウワアァア! お前何言ってルンダ! 何言ってルンダ!」
大慌てで抗議し、その口を塞ごうと試みる。しかし、何度組み伏せようとしても、超人的な縄抜け術で軽くいなされる。そうこうしているうちに、本人が目の前まで来ていた。
「え? ルーニィが? いや、別に良いが。これで良いか? ほれ、よしよし」
銀髪の頭を青年の手がさすっていく。
「うァ……いゃ……………………アリガト」
「お前も頑張ってたもんなー。あと、悪いが今は持ち上げられん。先客がいるから」
青年の肩に顎を乗せて、疲れたように寝息を立てている狐少女が居た。ルーニィはコクっと頷くと、潔く身を引いた。
――うーん……?
さっきまで暴れていたのに、途端に静かになり紅潮するルーニィを前にルカは少々驚いていた。頭を撫でるという行為は人を素直にする効果でもあるのだろうか。
興味半分に、ルーニィの頭に手を置く青年へと尋ねてみる。
「な、なあ……? ユウト? その……だな。別に全く興味は無いんだけど……さ」
「お前にはせん」
「何でだよ?! まだ何も言ってないだろ!」
「覆水盆に返らず」
「えっ?」
「覆水盆に返らず」
「」