特別話 『ある日』
アデレイド郊外に佇むマックスギルド。その一室にて。
「なー、ユウト。そこにあるお醤油取ってー」
口をリスのように膨らませながら朝飯をかきこむルカが、気だるげな声をあげた。
彼女の頭は寝ぐせだらけで、目も完全に開ききっていない。
「あ? 自分で取れや、この……」
投げ渡された小瓶を器用にキャッチし、ルカはくすっと笑う。
「そう言いつつ、ちゃんと取ってくれるユウト。うププ――うぐぉあ」
「ルカくーん?? ねぇ、今君がこうしてここに居られるのが、誰のお陰か分かってんのかなぁ?? 今すぐクビにしてやってもいいんダヨ?」
向かい側に座るルカの顔面を遠慮なしに引っ張った。
「わぁったわぁった!! わぁったから、頬っぺた掴むのヤメロ!! 出ちゃうから! 食卓が大変なことになっちゃうから!!」
俺も朝食がルカの吐き出したもので台無しになるのは、御免だったので手を離してやる。
「うぅ……、ちょっとは手加減しろよ……。いだい……」
両頬を赤くした彼女は、涙目になりつつ自分の顔をさすっていた。
「大丈夫ですか? ルカさん。あとでお薬塗ってあげますね」
俺から見て右側に座っていたテトが、心配そうに耳を垂れる。すると、ルカが目を光らせた。
「えっ、マジ? ありがとぉー!」
「チッ、唾つけときゃ治んだろ。んなもん」
敵が良い思いをしているのが面白くなく、そう吐き捨てた。
だが、途端にメッと口もとへ封をされる。テトが少々、怒ったような顔で俺を指差している。
「ゆーとさん!」
「は、はい……」
「むー」
唐突に頬を膨らませるテトに、言葉を失う。ややあって、ようやくそれが彼女なりの威嚇であったと気付いた。可愛すぎて、まったく怯む要素がないのだが。
正面に座していたルカも、テトのその顔を見て何やらときめいているようである。やはり、萌えは性別を超えて伝わるのであろう。
「――あ、そういえばゆーとさん。今日って何の日か知ってますか?」
「んぇ、あ、ああ。何の日だっけ……」
鼻穴を膨らませていた所にテトが真顔で問うてくる。この部屋にカレンダーの類はないので、あまり日にちのことを気にしたことは無かった。ルカに視線を振ってみるが、彼女も不思議そうな顔でかぶりを振るだけ。
「すまん、知らんが」
「あ、そうなんですね! お二人とも知らないんですね! 知らないんですね!」
なんで二回言ったんだ……。それに、妙に楽しそうだ。立ち上がったテトの尻尾は、生き物のようにブンブン跳ねまわっている。相変わらず彼女は、感情が尾や耳に出やすい。狐族は嘘をつくのが苦手だろう。
「ふふっ」
テトは最後にくすりと悪戯笑いを残すと、毬のように俺の隣に立った。
怪訝な顔で見守っていると、彼女は俺の手を取る。
「ゆーとさん、ちょっと私のお腹触ってくれませんか?」
「え」「……?!」
突然のお願いに俺もルカも驚く。ルカに至っては危うく口の中のものを噴き出す所だった。
「お、おなか……??」
「はいっ! 触って下さい!」
なんだ……。意図が読めない。いつも以上ににこやかな表情、何を企んでやがる……。
だが、全身をくまなくチェックしても特に怪しい所は見られない。
仕方がないので、ここは素直に従っておくことにする。
「こ、こうか……」
「ひんっ。うっ……! そ、そうです」
赤い顔で頷くテト。だが、それ以上にこっちもやばかった。
思いのほか熱を持った彼女の身体は、服の上からでも十分感触が伝わって来る。ずっと触っていたくなるほどの低反発素材だ。
「ゆ、ゆーとさん……! ど、どうです? 分かりましたか?」
「は……い、何が?」
「う、いえ……ですから、その……ァ……ができました」
俯きながら発される言葉は全く聞き取れない。
気になって、耳を近付ける。その際、向こう側のルカが視界に入る。なんで、お前まで照れてんだ……。
「いぇ、ですから……その、赤……ができたんです」
「ごめん、聞こえない」
自分でも気づかぬうちに、顔を数センチの所まで近付けていた。
彼女の瞳がますます泳ぐ。歯がかみ合ってない。そんな狼狽える表情は見ていてとても楽しい。俺は耳を向けて、「ワンモア」と尋ねた。
そして、ようやく彼女が言わんとしていたことが鮮明となる。
「ぅう……赤ちゃん……が、出来ました……」
俺は椅子から転げ落ち、ルカは食卓を台無しにした。