第三十六話 『テトの料理は……』
「ぶべらずぁアあぎゃぎゃぎゃぎゃッッ!!」
意味の分からぬ悲鳴を上げて、俺は床に倒れた。
固い木版が額を殴り血が垂れ、ホラー映画のような顔面になる。
まあ、そういう特殊メイクを差し引いても、今の俺の表情は戦慄に強張っていた。
「な、んだ……? これは……」
テトに連れられ、食卓に到着したときに嫌な予感はしていた。
ホール全体に漂う異臭。机に陳列されたなんだかよく分からない物体。
白磁の皿やボウルに盛り付けられていることで、かろうじてこれが料理なんだろうな……という予測は立つが、それにしたって酷い。
「アダイも紫色の料理は初めで見だわ……」
デイジーさんが鼻を摘まみながら、呟いた。何故か妙に感心している。べらぼうに料理スキルの高い彼女にとっては、マズイ料理を作ることの方が難しいのだろう。だが、これは臭いを嗅いだだけで昏倒されるレベルの爆弾。彼女にとっては、まさに未知との遭遇だ。
「そんなことはどうでもイーティー……」
俺は顔を顰めながら、椅子を支点にしてヨロヨロ這い上がった。
机の上に並んだ料理が目に入った瞬間、再び激臭が鼻を襲う。思わずむせ返りそうになりながらも、すんででリバースするのをこらえた。
家畜の餌の方が、まだクッキングしてる。
俺は、デイジーさんと同じく鼻をつまんで、テーブル上の仔細を観察した。
今晩のメインディッシュはカレーライス……らしい。カレーと聞けば、子供には勿論のこと幅広い年代層に大人気の定番料理だ。その味付けは家庭ごとに、レストランごとに、専門店ごと、そう実にヴァリエーション豊か。
どのような具材を混ぜるか、隠し味に何を使うか、スパイスの量は?
世の料理人たちは思索しては試作し、サイコーの一品を作り上げるだろう。しかし、そういう凝ったことが苦手な主婦にもその調理は簡単だ。何しろカレーってのはよほど変なことをしない限り、大抵普通に食えるモノへと仕上がってくれるからだ。
まさに、万能と呼ぶに相応しき料理市場の上場企業やー。株価は今も昔も爆上げやでー。
だが……、今俺の目の前に鎮座するコレは……。
俺はギギギと音を立てて首の回転角を変えた。視界に入るは、一人の少女。
テト・イーハトーヴは銀色盆を前に抱えて恥ずかしげに顔半分を隠していた。
「な、なんか自分の手料理を誰かに食べてもらうのってドキドキします……」
このリアクを見るに、コックはまったく理解してないようである。自分がトンデモナイものを他人に食わせようとしている事実に。
この子がレストランバイトしてなくて本当に良かった。こんなの『シェフを呼んでくれ』では済まされない。『シェフを殺せ』レベルにすらある。
彼女はどきどきで済むと思うが、こちとら心臓のどきどきが止まっちゃう可能性だってある。つまり、死。これを食ったら、死んじゃうのDeath!
「な、なあ……? テト。悪いんだけどさ、今日はちょっと食欲が湧かなくってさ……」
作り笑いを浮かべて遠慮気味に拒否を匂わす。すると、彼女の瞳孔がワッと開いた。
「え、え、え……。ゆーとさん、食べてくれないんですか……?」
一生懸命作ったのに……、そうこぼすと彼女が涙ぐむ。小さな嗚咽を漏らして彼女は肩を震わせた。
Oh my god…….俺は天井を仰いで瞑目した。主よ、あなたはこんなときどうされるのか? 問うても答えは降って来ない。食って死ぬか、食わずに泣かすか。
究極の選択肢に黙り込んでいると、デイジーさんが俺の肩に手を置いた。鼻を摘まんだまま。
「あんぢゃんよ、男には超えなげればならない壁があるんやで。堪忍じいや」
「冷戦中のベルリンの壁並みに、超えたらヤバそうですねコレ」
「ベルリンが何かは知らへんけど、けじめのつけられん男はモテんぞ?」
デイジーさんの口の端が上がる。その嘲笑する態度に青筋が走った。
「も、モテない……?」
「ああ、そうだともさ。あんちゃん、カノジョとかいたことないやろ?」
この野郎……。睨み上げれば、デイジーさんは見透かしたような目で俺を見ていた。
その顔には『可哀想に』と描かれている。
「いいでしょう……。食いますよ。食えばいいんでしょう?」
「やる気になったみたいやな」
歯を食いしばった俺に、デイジーさんは鼻を鳴らす。
テトがスプーンを差し出してきた。
「美味しいと思いますよ!」
テーブルの地獄絵図とは対照的に、天使の如き笑顔を彼女は浮かべる。
そっと差し出されたスプーンが怪しく光っていた。
「あ、ああ……! 美味しそうだ……とって、も……」
生唾を呑み込む。ゆっくりと椅子に座った。
すると、さらに汚料理との距離が縮まる。
す、すごい瘴気だ……! 呼吸をするだけで肺が腐ってしまいそう……。
まったく、腐海とは言い得て妙である。巨大なダンゴムシがその辺を這っていそう。
もう一度テトの方を振り向いた。
「お腹いっぱい食べて下さいね♪」
エンジェルは目尻を下げて見守っていた。純粋さとは時に残酷である。今、それを痛感した。
もう逃げられない。
だから、覚悟を決めた俺は、
「じゃ、じゃぁいただきま~す」
上ずった声をあげる。
銀スプーンを紫の液中に突っ込んだ。『シュウウゥ……』とかいう音がして、白煙が立ち上がる。今、絶対なんかの化学反応起こったよね?! てか、少し溶けたんですけど?!
「はぁ……はぁ……」
口から途切れ気味の呼気を吐き出しつつ、溶解しかかったスプーンを持ち上げる。
一杯分のヘドロが高度を上げる。そして、俺の口がある水平線上へ。
あとは、これをスライドするだけっ……!
「うわああああああああああああああああああ」
よせば良いのに、俺はそいつにむしゃぶりついた。
魂が震えた。
牛乳を拭いた後の雑巾みたいな香りが鼻腔を満たす。遅れてこの世のモノとは思えない何とも形容し難い味覚を感じた。同時、全ての感覚神経が焼き切れる。
舌が痺れ、指先が、手足が、自由を失う。
耳が――遠くなる。視界がぼやけ――、意識が――、体温が――
「……おいしーよ、テト……」
その言葉を最後に俺の心拍は停止した。
やっぱり、糞マズィイ……