第三十二話 『アガサの涙』
――コンコン
扉を叩くと思いのほか軽やかな音が鳴った。
さっきはノックもせずにこの部屋に入ったので、知らなかったのだ。
数十秒待つ。
だが、返事はない。
鍵が開く気配もなかった。
つまり、それはその部屋の主が俺に入室を許可しないという証左。
「アガサ、俺だ。ユウトだ」
扉越しに呼び掛けるが、それでも返って来る答えはない。
俺は舌を湿らすとそのまま喋り始めた。外からでもきっと彼女には届く。
「お前の親父さんから大体のことは聞いたよ。カーミラさんは新しく来たお母さんなんだってな。そりゃ、ギクシャクもするよな……」
ふと扉向こうの息が詰まるのが分かった。俺は瞬きを一つし、話を続ける。
「あと、これも聞いた。お前が知ってるのか分からんが、カーミラさんとマリアさんはそんなに仲が良くなかったんだってな。……まあ、お前が嫌われる原因も少し分かるかも」
――ドンッ!!
突然、扉が揺れた。そして、くぐもった喚き声が続く。
『私は悪くないッ!!』
激しい彼女の情操に毛が逆立つが、それでも俺は退かなかった。負けじと大声で叫ぶ。
「ああ、確かにお前は悪かねぇよ。全部周りが悪いよなッ!」
途端、扉を蹴る音が止んだ。俺はその反応に手応えを感じ、そのまま舌を動かした。
「カーミラさんはホント自己中な人だよなぁ。母親なら娘にどんな罵声を浴びせられようと、無償の愛を注ぐべきだよな」
『は、はあぁ……?』
明らかに動揺するような声が聞こえる。
俺は板一枚隔てた向こう側のアガサを見据えた。どうやら策は上手く働いているらしい。
俺が立てた作戦は至って単純だ。それは彼女の主張を言葉に表し、形とすること。
それも容赦のない直接的な表現で。
「バロンさんも父親の資格なんかねぇよ。娘が自分の伴侶と上手くやれてないってんなら、ブン殴ってでも奥さんを改心させるべきだろ。いつまでもマリアさんとの過去をメソメソ引っ張ってさぁ、なんかホントみっともねぇよなあ……」
普通の人間は過ぎた極論に忌避感を示すものだ。
例えるならば、「犯罪者は、全員処刑せよ! 皆殺しにせよ!」なんて主張に共感が集まらないのと同じ。
皆、罪を憎みはするが、それを有無を言わさぬ断罪にかけることには尻込みしてしまうのだ。
そして、かの中二病少女もその例に漏れず。
『や、やめ……』
後ずさりするように彼女が扉から距離を取り始めたのが分かった。
俺はここで逃がすわけにはいかないので、更に踏み込む。
恐らく、彼女が一番敏感になっているコンプレックスへ。
「そんでもって極めつけはマリアさんだ。有り得ねぇよ、お前みたいな一から十まで世話しないといけない子供いんのに……。それが轢かれて手前勝手に死ぬとかさあ。マジ無責任もここまで来ると笑けてくるよな」
『やめろ……!!』
明確な怒気が語調に込められていた。やはり、マリアさんの存在が彼女の素直になれない枷となっていたか。ならば、後は詰めるのみ。
俺はなるべく彼女の神経を逆立てるように、舌を回した。
「ホント、お前以外の奴らはみーんな無能だ! 馬鹿ばっか! 全員さっさと首でも吊っておっ死ねば色々とスッキリすんのになああ!!」
「やめろよッ!!」
突然、扉が勢いよく開いた。
そして、そこから金切り声を上げつつ飛び掛かってきたのは白髪頭の母を亡くした少女、アガサ。
俺は彼女から手加減無しの正面蹴りを食らい、後方に吹っ飛ばされる。
「いって!」
床に後頭部を打ち付け、仰向けになった瞬間、ズシンと質量を感じた。
霞む目を上に向けると、そこには自分の腹の上に馬乗りになる少女。
悔しさと怒りと悲しみをない交ぜにした形相でキッと俺を睨むと、彼女は腕を振り上げた。
そして、勢いよく平手打ちが炸裂する。
――ばしん! ばしん!
と、人を殴ったことも無いような頼りない掌打音が何度も部屋に響く。
「ぐっ! ふっ!」
しかし、容赦なく目や鼻など弱い部位に飛んでくるものもあり、俺は致命傷とならぬよう手でガードするので精一杯だった。
指の隙間から見えた彼女の目元はすっかり赤くなっている。
ずっと部屋の中で泣いていたらしい。そして、その頬にはまた新たな涙が伝い始めている。
「私だってッ! 私だってッ!!」
綺麗な雫を散らしながら、彼女は嗚咽とも叫びともつかぬ声を上げる。
彼女の爪が頬を掠り、血が流れた。つと流れた一筋の紅に、ビクリと彼女の手は動きを止めた。
そして、ぽすんと小さな拳が俺の胸に落ちる。
「私だって、何とかしなきゃって思っとるとよ……? あのおばさんにもお父さんと仲良くしてほしいって思っとるんよ……?」
「おばさん?」
彼女の言葉の一部に俺は眉を吊る。
が、彼女は視線を落としたまま
「まだあの人をお母さんとは認めたくないの……」
と答えた。
――静寂
俺はふっと息をついた。これにてサービス残業は終わりだ。
「――そっか、それがお前の本心か……。なら、良いんだ……。言い過ぎたよ、ゴメンな……」
ゆっくりと上体を起こすと、アガサの頭をポンポンと叩く。
「うぇ……ぅ……うううああああ……」
彼女は床にぺちゃんと座ったまま、堰を切ったように泣き出す。
俺は、その隣に座って、彼女が落ち着くまで何も言わずに見守るのだった。
彼女にカーミラさんを受け入れる器が出来ているのは確認した。
ならばあとは、バロン男爵の頑張り次第だ――
※※※
既に太陽の半分が地平線の彼方に沈み、夜が差し迫らんとする刻限。
段々、冷え込み始めた屋敷のテラスで一人の吸血鬼が物思いに沈んでいた。
バロン男爵はすぐ後ろで綺麗に並べられたティーテーブルに目を向ける。
ふと思い立ってそこの椅子に腰かけた。
ポッドに残っていたアールグレイの茶を一口。
すっかり冷え切ったその口づけに脳裏をある婦人の姿が掠めた。
苦笑いと共に首をゆっくり振る。
「いかんな、私は……自分の妻を悪く言うものではなかろうに」
誰にも聞かれぬ懺悔が口をついて出た。チン、とソーサーにカップを置いてまたパイプに火を点けた。ウッドストック製の感触が手に心地よい。
適量のニコチンが憔悴した気持ちをじんわりと慰めていく。
深く煙を吐き出した。一瞬、風が吹いたのかその白煙が霧のように広がる。
「昔、ここでよく午後の茶会を開いたものだっけか、マリア……」
男爵はとうに空になった椅子に向かってそう語りかけた。
徐々に霧が晴れていく。すると、そこには――
「そうやったねぇー。でも貴方、すぐ煙草に手を出すから台無しやったとよ?」
そう少々訛り気味の返答を返すのは今は亡き前妻――マリア。
男爵はすっと目を細めた。疲れ切った頭はとうとう幻覚まで見せ始めたらしい。
まったく、自分は本当に女々しい奴だ。
ある種願望を押し付けたような気がして、罪悪も覚えたが、今はどうしてもその幻惑に縋りたかった。
彼は小さく笑い、幻覚のマリアとひと時の対談を楽しむことにする。
「ハハハ、これは君と結婚する前から愛用していてね。父上から爵位を継いだときに貰ったんだ」
「へぇー、そうなん? 知らんかったぁ……」
彼女は興味津々といった様子でそのパイプを観察した。
そんなに顔を近付けない方が……
迫る彼女を手で退けようとしたが、既に遅し。彼女はいつもの癖ですんすんとやってしまった。
「うっ?! ゴホゴホゴホ!!」
口を押えて苦しげに咳き込む。煙を直に吸い込んでしまったらしい。
天然な彼女の奇行に男爵は思わず、けたけた笑ってしまう。
「むぉー、なによー! それで笑うとか信じられんのやけど……」
小さな鼻を赤くしながら、彼女はむくれる。上目遣いに睨んでくるその表情は、しかし彼にはニヤニヤ出来る要素のひとつでもあった。
「いやいや、そうやって何でもかんでもまず臭いを嗅いでみようとするのは流石にねぇ」
「だって気になるもん」
「気になるって……」
子供のような言い訳をする彼女にバロン男爵は呆れたような顔をつくった。
すると、馬鹿にされたと思ったマリアが一計仕掛けてくる。
「因みに、今までで一番臭かったのは君の靴下だぞっ☆」
ビシッと自分を指差す彼女に男爵はムカッとする。
「君の料理だってたまに変な臭いがするじゃないか……! アガサの失望した顔を君は見たことがないのかっ?!」
「あああー!! 聞こえなーい! 聞こえなぁーい!!」
両耳を押さえて、バカっぽく『聞か猿』をする彼女に男爵は噴いてしまった。
「はぁっ……!」
破顔しながら、ため息をつく。今度は良い意味でのため息だ。
「まったく! 君と居ると退屈しないなぁ! 懐かしいよ、ホント……」
肩を僅かに震わすバロン男爵を見て、マリアはそっと両耳から手を離した。
そして、ふふ、とたおやかに笑む。
「ねぇあなた……カーミラちゃんと仲良くやれてる?」
その一言に彼の顔がふと陰る。
「あ、ああ……。まあ、何とかな……」
「そっかー。私はスクールに居た時、あんまり彼女と仲良く出来なかったからなぁ。でも、夫のあなたはちゃんと逃げずに向き合ってね?」
「君は……彼と似たようなことを言うんだね」
ん?と彼女は首を傾げる。すると、男爵は苦笑しながらもう一度パイプを吸った。
天井に煙の輪を作りながら、一人の若者の顔を思い出す。
――それは、逃げているだけではないんですか……?
自分のせいでマリアが死んでしまった、そう語った時、彼は思わしげな顔で言ったのだ。
それは自らに言い聞かせているような言葉にもとれたが、彼自身にも大きな衝撃をもたらした。
あの後、暫く、黙り込んでしまったのを覚えている。
何故なら、それが紛れもない図星だったから。
「へぇー、面白いこと言う子も居るんだねー」
「君も言っているじゃないか……」
「あ、ホントだぁ……」
てへへ、と彼女は舌を出しながら自分の頭を撫ぜる。その茶化したような態度に男爵は少しばかり不満げな顔をした。
「ま、分かっているさ……。現状に甘んじても得られるものは何も無いだろう? それに、僕にはもう二人も子供がいるんだ……」
静かに語ると、マリアが「おおー! よく言った!」と手を叩く。彼女はそうやって暫くニコニコ笑顔を彼に向けると、「さて……!」と言いながらすっと立ち上がった。
陽があと少しで完全に沈む。
彼女も地平線の向こうへと帰るらしい。
「もう気は済んだかな? 最後に言い残すことはあるかね? バロン一等兵!」
腰に両手を当て、軍隊の将校のようにふふん、と胸を張る。
が、陽気な彼女と違い、彼は頬を固くしていた。
言い残したこと? 沢山ある。今この場では言い尽くせないほど大量に。
「うあ……」
言葉に詰まりながら、彼は立ち上がりマリアに手を伸ばす。その身体に指が届くまであと少し——
――しかし、彼が彼女へとたどり着く前に陽は消えてしまった。それはマリアの消失も意味する。
「――」
胸に虚空を開けられたような喪失感が再度襲ってくる。
「元気でな、マリア……」
彼は別れの言葉を呟くと、固く拳を握った。
爪が肉に裂傷を刻み、血が落ちる。相当な痛みだが、今はそれよりも勝る苦痛に苛まれている。それは瞬く間に神経を侵し、冷静な判断と思考を狂わせる。
そして、吐き出すように漏れてしまったのは、ただただ己の欲望に忠実な切なる願い――
「行かないでくれ……」
――という。