第三十一話 『この身、犯せし罪を一生憎む』
一つ問答をしよう。
これは仮定の話であり、全てフィクションなのでそう気負わず考えて欲しい。
あなたには現在、付き合っている恋人が居る。二人が恋仲になって、もう数年は過ぎている。とても円満な仲だ。
ある日、貴方 (ここでの貴方は男性を想定する)は自分の家で昼食を作っていた。
献立はカレーライス。具材は四角に細かく刻まれ、よく煮込まれつつある。
さて、ここであなたはあることに気付いた。
カレー粉が無いのだ。
何とも間の抜けた話で、カレーの具材は買っていたのに、肝心の素を買い忘れていたのである。
あなたは困った。
カレー粉を売っているコンビニは近所にあるが、火を扱っている状態で外に出るわけにもいかない。
どうしよう。
すると、あなたの視界にとある人物が入る。
相部屋している恋人がソファに座ってテレビを観ていたのだ。
お玉を持ったままのあなたがキッチンから彼女を呼ぶ。
そして、こう頼んだ。
『あそこのコンビニでカレー粉を買ってきてくれないか?』と。
普段から貴方のことが大好きで仕方ない彼女。
勿論、二つ返事で了承してくれた。
そして、彼女はヒールを引っ掛けてお遣いのため家を出ていく。
きっと、大事なあなたのために急いで帰って来るだろう。そして、二人は一緒に最高の夕食を堪能できるはずだ。
……本当ならここでメデタシメデタシと締めたいが、残念ながら事態は最悪の方向にシフトする。
彼女を送り出してから数時間後。
依然、家を出ていった恋人は帰って来なかった。
おかしい。彼女が向かったのは五分とかからないコンビニのはず。それがどうしてこうも時間がかかるのか。あなたはそのコンビニへと向かった。
何だか、辺りが騒がしい。人だかりが出来ている。警察車両や救急車などが沢山止まっていた。
そこであなたが目にしたのは、コンビニに正面から突っ込んだ巨大なダンプカーだった。
後に救急隊員から聞いた所によると、店内で買い物をしていたあなたの恋人はその事故に巻き込まれ即死だったという。
さて、この場合、事故の責任は紛れもなく、このダンプの運転手にある。
アクセルとブレーキを踏み間違えたか、あるいは酔っ払い運転をしていたかは定かでない。
しかし、紛れもなくこのドライバーは犯罪者として法的処罰の対象となるだろう。
ここで一つの疑問が浮かぶ。
あなたの恋人を殺したのは誰か?
実は考え方によってはこの事故の加害者は二人いることになってしまうのだ。
一人目の犯人Xは誰の目にも明らかだが、事故車両の運転手。
だが、その二人目というのは一見して分からない。恐らく、当人にしか把握できないことだ。
そう、第二の犯人Yとして挙げられるのがあなた自身なのだ。おっと、狼狽えないで欲しい。
今回の事故に関してあなたを断罪する法律も検察も誰一人としていない。
あなたには何の罪もないのだ。
しかし、これだけは言える。
『あなたが彼女を買い物に行かせさえしなければ、彼女が死ぬことは無かった』のだ、と。
※※※
俺はまた例の扉の前に立っていた。そこには依然鍵が掛けられており、部屋の主は頑なに外界との接触を拒んでいる。
目を閉じて、先ほどのバロン男爵との会話に思いを馳せた。
初めは彼がいきなり「マリアは自分が殺した」などと言い出すので当惑したが、何のことは無い。
彼女は交通事故に巻き込まれて死んだのだ。
その日は二人の結婚記念日だったらしい。マリアさんは夕飯の材料の買い出しに行くため、市街地アデレードへと向けて出立した。仕事のあった男爵は屋敷の入り口で彼女を見送るだけだったという。
それから数時間後のことだった。男爵の屋敷に彼女の訃報が届いたのは。
夢かうつつかも分からず、現場に駆け付けた彼が目にしたのは大きな馬車の車輪に潰されたマリアさんの遺体だったという。
御者によると突然、馬が暴れ出し、違法速度で街中を駆け回っていたらしく、その街路の先に運悪く彼女が居たとのことだった。
彼は大いに悲しんだ。人的ミスでは無かったとはいえ、御者は禁錮刑に処された。
だが、それで男爵の傷が癒えることもなく、彼は延々と己を呪った。
自分がマリアを行かせなければ、と。
『吾輩が彼女を殺した』という発言は彼の本心からの声だったのだろう。
その後に二言三言何かを言ったと思うが、自分がかけた言葉はそんな彼に残酷に響いたのではないか、と今は少し後悔している。
だから、これは俺の罪滅ぼしでもある。
俺は目の前でこちらを睨み付ける巨大な眼玉の前で息を呑んだ。気合を入れろ、と。
※※※
――バシンッ!!
全ての家具が取り払われた広い部屋。
大きく乾いた音が響いた。
「っ……」
今しがた強く頬を叩かれ少し顔を腫らした女性が無言で鏡を睨んでいた。
その部屋には彼女以外の人物は居ない。誰も彼女を殴ることは出来なかった。
だが、一人だけそれを可能とするものが居る。
その女性は再度右腕を振り上げた。そして、風を切るようにしてもう一度『己の頬を殴った』
――バシンッ!!
さっきよりも大きな衝突音が部屋中にこだまする。
もう十分なほど自らの身を鞭打ったが、それでも腹の底に沸々と湯がく怒りは収まりそうになかった。
諦観したような顔で力を失い、彼女は鏡に寄りかかる。キュキュキュと表面で摩擦音がなった。
「ほんと馬鹿ね……。もうあの子のことは受け入れようと決めていたのに……」
そして、彼女は再度鏡に映った自分の顔を見る。白髪に金の瞳。少しクマの出来た目元。
目つきの険しさを除けば、何もかもがあの女――マリアに似ている。
それを確認した女性――カーミラ婦人は懊悩とため息をついた。
「因果なものね……私もあなたも」
反射する人物は紛れもなくカーミラ自身の姿。だが、彼女の瞳に今映っているのは、在りし日のマリアという女性の面影だった。
自分もあの子のように明るく振る舞えるば良いのだろうか……。そうすれば、彼女の娘とも上手いやり方を模索出来るのかもしれない。
彼女は自分の頬に両手をつけてみた。そして、むにーっと横に広げ、無理矢理、笑顔を作る。
あの男と結婚して以来、ついぞ作っていなかった表情だ。
そうやって鏡に現れた顔は――
「――やっぱり似合わないわね……」
そう言うと、カーミラはまたいつもの無表情に戻ったのであった。素早く踵を返して、その場を離れる。
部屋を出るときに、ふと振り返る。遠くから見るといよいよあの女に似て見えた。
彼女はひたと虚像を見据える。
そして、誰にともなく呟いた。
「私、やっぱり貴女のことが嫌い」
と。
鏡向こうの幻想は何故か、穏やかな微笑をこちらへ返しているように思えた。