第十話 『GPSの無い世界。やっぱ人工衛星って神だわ』
俺はぽけーっと口を開けたまま突っ立っていた。
周りを背の高い木々に囲まれている。そこは針葉樹や広葉樹、熱帯林、シダ、コケなどあらゆる種類の植物が乱雑に共生していた。
――コージ……コージ……コージ……
何処からかサッカー日本代表監督のような虫の鳴き声が聞こえる。
――シムシムオー……シムシムオー……
……ここはスタジアムか何かだろうか?
生物学的に見て珍しい光景だが、それよりも驚くべきことが先ほど起こった。
何と俺が空中から落下し、地面に激突する直前、反重力が働いたのだ。
その奇妙な力が働く瞬間、俺は身体の内で何らかのエネルギーのようなものが爆発したような感覚に襲われたことを覚えている。
まあ、それはただの勘違いだろう。
しかし、まあそのお陰で俺は、こうして無事に生きている。
危うく、トマトのように中身を周囲にぶちまけて閲覧注意の激ヤバ画像になるところだったぜ。
「っと……、落ち着いたら急激に尿意が……」
俺はさっきからトイレを我慢していたのを思い出して、その辺の草むらに失敬する。
「うほっ!」
急に寒気がして、ゴリラのような声が出てしまった。
恐らく、男性諸君は一度や二度経験したことがないだろうか。
放尿した後、突然、身体が寒さに襲われる現象。
そう。アレに、起因する喘ぎ声なのだ。
断じてホモなどではないから安心してほしい。
俺は下着が汚れぬよう、しっかりブツを水切りする。そして、ガンマンが自分の愛銃をホルスターにしまうが如く、クールにズボンの中にしまい込んだ。
「さて、これからどうするめぇか……」
舌をちろっと出しながら、周囲を見渡す。
辺り一面木々の満員電車。視界は五十メートル先も碌にままならない。
さっきここに落下してくるとき、街のような所が見えた。
だが、こうして方角が分からないと、そこに行く算段もつけられない。
打つ手無しの状況。
ただ、いい加減に歩くことも出来るが、そんなことは愚か者のやること。
無駄に体力を削って、野垂れ死んでは全てがご破算だ。
「よいしょっと……」
俺は手ごろな切り株(何故か、根本からぼきっと折れていた)に腰掛け、瞳を閉じる。
そして、耳を澄ます。これでも聴力には自信があるのだ。
途端に先ほどまでは意識の裏側にあった自然の音が前面に出張って来る。
さわさわさわ……と葉が風に揺られ、こすれ合う音がする。周囲は木々の大合唱だが、時折、鳥とも虫ともつかぬ奇妙な鳴き声もした。
だが、どれも人の出す騒音とは違う。
俺はさらに意識を深い所まで落とし込んだ。
すると、みるみるさっきまで大部分を占めていた自然の音が小さなノイズとなっていく。
今日は調子が良いな……?
妙に耳が冴えわたる感覚に不可思議を覚えながらも、俺は意識を研ぎ澄ますことに集中する。
暫くして、今までは聞こえなかった新たな音が僅かに聞こえ始めた。
――ごとごとごと……
それは何か重いものを地面の上で転がすような音だ。
一定のリズムでもって、地を駆けている。
俺はこの音を聴きながら、一つの仮説を立てる。
――荷馬車か……?
だとしたら、幸い。すなわち、これを繰っている御者も居るだろう。
つまり、この音がする方向に向かってゆけば、人里に出るに違いあるまい。
「ビンゴビンゴ!」
俺は顔をほころばせながら、その方角を見る。
まだ、沢山の植物に遮られ何も見えないが、そこを抜ければ、住民と接触が図れよう。
上手くことが運べば、今日からでも冒険者として栄えあるスタートを切れるだろう。
「思いついたが吉日! 可及的速やかに参りませう!」
そう言うと俺は草を掻き分け、先を行き始めたのだった。
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俺——こと、古谷悠人が四苦八苦しながら鬱蒼と生い茂る大森林を探索している時間。
神の治める国で、とある女が青い顔をしながら廊下を歩いていた。
彼女は白いシャツを羽織り、その上に黒のカッタージャケット、下にはタイトなスカートを穿いていた。
シャツが豊満な胸に圧迫され、扇情的な印象を与える。
だが、縁なしの神経質そうな眼鏡が近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
彼女は昇降口のような階段を登ると、その先にあった鉄扉を押し上げ、地上に出る。
全く視界の利かない霧が立ち込めているが、彼女はそれを意にも介さず、歩を進めた。
少々、早足気味で。
彼女の頭の中では、とある決意が形になりつつあった。
そして、霧が晴れる。広い神殿跡のような所に出た。彼女はそこの中心付近に佇む、一人の老人を見つける。
「ラクス様」
そう声を掛けると、この天界の主——ラクスが髭に埋もれた顔を彼女に向けた。
「おお? ご苦労であったな、我が使徒アリエルよ」
彼は鷹揚と部下の仕事を労う。これもここの主として君臨する者の余裕だろう。
アリエルと呼ばれた女性はきょろきょろと彼の周囲を見回す。
「あの四人の男女はどうされましたか?」
「うむ。ついさっきフェルヘイムに旅立ったの」
「左様でございますか……」
フェルヘイム——それは大樹ユグドラシルにより繋がれる九つの世界の一つだ。
その他の世界は彼女ら天界族が暮らすヴァルハラ、そして先の若い男女が生前住んでいた人間の世界、ミズガルズなどがある。
そして、彼らが旅立ったのは他でもないとある目的のため。
「彼らならば成し得るだろうか……?」
ラクスは目を細めて遠くを見た。その目元に刻まれた幾多の皺の数だけ、冒険者を送り続け、失敗に終わって来たのだろう。
つい先ほど彼はまた新たな四人の冒険者をフェルヘイムに送り出した。
ラクスが彼らに託したものは、今度こそ悲願を達成してほしいという大きな期待なのだろう。
「きっとあの四人なら成し得ると思いますよ、我が主」
「だと、良いのじゃが……」
「今晩は肉じゃがに致しましょう」
「君、今テキトーに決めたじゃろ……」
不自然な調子で会話を進めようとするアリエルにラクスは怪訝な顔をする。
喉仏に引っ掛かった魚の骨が気になるような微妙な表情。
「何か申し開くことがあるのではないかの?」
すると、彼女の作り笑顔にヒビが入った。図星を突かれ、観念したように肩を下げる。
「ラクス様、例の男をフェルヘイムに取り逃がしました」
申し訳ありません、と言って、彼女は深く上体を折る。突然の謝罪にラクスはぼさぼさの眉をハの字に曲げた。
「逃げられた……? あの、地下迷路から……? 一体、どうやって……」
「壁を通り抜けて、逃げられました」
彼の疑問に、彼女はハキハキと即答する。
「壁を通り抜けたじゃと? それは魔法を使ったということかね?」
「おそらく……」
推測に過ぎない答えを返しながら、彼女は「これを」と言ってラクスにあるものを差し出した。
それは比較的小さな木箱で、今は中身が無くなり、随分軽くなっている。
ラクスはそれを彼女から受け取り、ようやく得心のいった顔をする。
「なるほど……。四大精霊を取り込んでしまったのか……」
やっちまたな、という表情の老人を見て、彼女は再度陳謝する。
「申し訳ありません。私が目を離した隙に……」
「確かに、これは失態だな……。一緒に封印されておった魔物共はどうなりおった?」
「全てフェルヘイムに逃げられました」
「ほう……それは、大失態じゃな……」
ラクスの語調に僅かに怒気が混じる。気付けば、天界の空を雷雲が覆いつつあった
ごろごろ、と遠くで轟音が鳴る。
普段は穏やかな上司だが、怒らせると、とんでもないことになる。
彼女はラクスの怒りが爆発する前に大声を上げて、会話の主導権を握った。
「事態の収拾は私が行います!」
「天界人の貴様に何が出来る」
「私が……、フェルヘイムに下ります」
そう言った瞬間、嵐の気配が遠のいていった。冷や汗を流しながら、目の前の老人と目を合わせる。
どうやら、目論見は上手くいったらしい。
先ほどまで厳しかったラクスの緑眼は、穏やかさを取り戻している。
「ふん……面白い」
ラクス老人の落ちくぼんだ瞳が怪しく光った。
こんな時、GPSがあったら、さぞかし便利でござろうな。
因みに、筆者はGPAがヤバいでやんす。