最終話【後編】 未来への『希望』
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希望の島の惨劇から約二年後……。
◇
60Fのランプが点灯し、エレベーターのドアが開くと彼女は足を踏み出した。
足音がわからないほど毛並みの良い絨毯の上を5歩進み、高級感あふれる木目調の開き扉のノブを握る。音もなく開いたドアの向こうには、そこに座れば気持ち良く身体にフィットするソファーが、黒く低い机を囲むようにコの字に並んでいた。
その奥にある高級机の向こうで、ガラス張りの壁から『下界』の街並みを見下ろしている男がいる。
「佳菜恵くんか」
その男が振り返った。
「はい会長。報告書をお持ち致しました」
白衣に身を包む若狭佳菜恵は、分厚く重なった紙を机の上に置く。
男が茶色い椅子に身を沈めて速読のような速さでそれを読んでいる間、佳菜恵は無表情でガラスの向こうにある『外界』を見ていた。
「順調ではないか。 このペースでいけば『計画』はすぐにでも実用化出来そうだな」
報告書をシュレッダーにかける男の表情は実に満足そうである。
対して、佳菜恵は無表情のままだ。
「うかない顔をしているね佳菜恵くん。この結果では不満かね?」
男の問いに佳菜恵は答えない。
用事は済ませたとばかりに背を向けた佳菜恵は、
「あなたの希望……『夢』が叶う大きな一歩になりましたね」
ひと言だけそうつぶやいた。
いつもは話しかけても答えない佳菜恵。男は一瞬目を丸くしたが、夢が叶うという言葉で上機嫌になったのか、
「佳菜恵くんは、この国の現状を知っているかね?」
いつもの話を意気揚々と語りだした。
眉をしかめる佳菜恵。だが、不本意ながらこの話は聞かなければならない。
幾度となく聞かされている話だが、今の佳菜恵にとってはこの話をする男の嬉しそうな顔だけが、生きる目的となっているのだから……。
――この国が抱える一番の問題はエネルギー問題だ。
資源に乏しいこの国は、外国からの輸入に頼らなければなにも出来ないのが現状である。
今は外国からの借金はないが、国民からの借金を積み重ねれば宇宙まで届くと言われるほどの借金大国でもある。
しかし、経済的に〝裕福〟だと思われているこの国は、他国から足下をみられることも多い。
資源を輸入する際〝プレミアム価格〟と言われて、他の輸出国より割増料金を請求されてしまう事もあるのだ。それでも、この国にとって必要な資源なのだから買うしかない。
世界屈指の技術力を持っているこの国。
もし資源の輸入が滞ってしまえば、製造業は機械を稼働させることが出来ない。それは『製品』を生産することが出来ないことを意味する。
世界中で評判が良く、必要とされるモノを作り出せる技術はある。しかし問題もあった。
他国の製品と比べて価格が高すぎるのだ。
価格の高い材料やエネルギーを使って生産しているのだから仕方のないことなのかもしれないが、これでは競争に勝つことは出来ない。
せめて人件費を安くしようと工場を海外へ移転するが、これでは国内の生産が滞ってしまい、『リストラ』というかたちで人員が削減、高い技術力を持った人間が職を失ってしまう事になった。
すると、その人材を海外企業が雇い入れ、高い技術力が海外に流出してしまう事に繋がってしまった。
海外企業からしてみれば、割高な給料を支払ったとしてもこの国の技術と経験を学ぶことが出来、なおかつ莫大な費用が掛かる『開発コスト』を大幅に削減することが出来れば、支払う給料など『はした金』なのだ。
結果としてこの国の技術に近い安価な品物があふれ、ますます競争に勝てなくなっていくという悪循環が生まれてしまった――。
「わたしは『愛国者』だよ……」
男の言葉を、佳菜恵は背中で聞いている。
この男は、トニトゥルスを使った『発電施設』を計画している。
人間を焦げつかせるほどの電力を生み出すトニトゥルスを研究し、何万、何千万体ものトニトゥルスを利用した『生体発電』だ。
それで今の電気料金を十分の一まで下げようという計画だった。そうすれば、「電気製品」の開発はさらに促進されることになるだろう。
例えば、ガソリンで動いている車が全て「電気自動車」になれば、重油や軽油を使っていたモノを「電気」でまかなうことが出来るようになれば、「化石燃料」の輸入額は激減するだろう。
良い製品を安価で製造できるようになれば生産拠点を国内に戻し、競争にも勝てるようになり注文も増える。
それは「技術の流出」に歯止めをかけることもなるにちがいない。
新技術など、先の定かでない『開発』に多くのお金をかけることを渋るというこの国の体質も改善され、さらに素晴らしい技術の誕生にも繋がっていく。
夢のような話だが、この男ならやるかもしれないと佳菜恵は思う。
希望の島での――――あの『事件』から二年足らずの研究で「実用化」が見えてきた。
問題は、この男は「トニトゥルス」の事を隠したまま実用化しようとしていることだ。発表の際には、それっぽい「新技術」をでっちあげるつもりでいることだ。
そのために、政府内部の――それも、重要人物たちを大勢抱きかかえている。
人間のやる事に「絶対」はない。まして利用する相手がトニトゥルスならば、想定外を超える想定外を考えなければならないし、国民へ知らせるのは「絶対」であるべきなのだ。
「施設は三重の壁で覆う。何かあってトニトゥルスが逃げ出したとしても、死者は二百人にも満たないだろう。それで経済が満たされ続けるのならば、安い犠牲だとは思わないかね?」
佳菜恵はそんなことを平気な顔で言ってのけるこの男に虫酸が走る。
そして――科学の知識が豊富である事と、ある事情を利用され、それを知りつつトニトゥルスの研究をさせられている自分に吐き気がする。
それでも佳菜恵は、この研究を止めるわけにはいかなかった。
「――どうかね、佳菜恵くんもそう思わないか?」
自信と自慢に満ちた御託の後、この男は必ず同意を求めてくる。
いつもならば何も言わずに立ち去るのだが、この日の佳菜恵は違った。
「それが、和幸を巻き込んだ言い訳ですか?――オジさま……」
ゆっくりと男へ――『高内財閥』の会長である高内將貴へと振り返る。
初めて反発されたことよりも、「和幸」の名を聞いたことで、將貴は無表情になった。
「和幸か……」
つぶやいた声に哀愁はなく、むしろイラ立ちがこもっている。
「あの程度の『試練』に耐えられなかった男に、なぜわたしが言い訳をしなければならないのかね?」
その声にはあきらかな怒りが含まれていた。大切に想っていたわけではないという事は、和幸を『息子』と言わないことからも伝わってくる。
「建部くんを――。キミには『高崎くん』と言った方がいいのかな?」
建部というのは、教育実習生のフリをして学園に潜入してきた高崎の本名だ。
この建部が、クラスの修学旅行先が『希望の島』になるように細工した。
勤務していた学園が希望の島への見学が許された第一号になったのは本当に偶然だった。そうでなければ、建部は別の学校へ行っていたに違いない。
希望の島到着後、佳菜恵は『高崎』から「会長の手伝いをしてほしい」と頼まれた。
彼は詳しい事情を教えてはくれなかったが、佳菜恵はいつも家族共々いろいろとお世話になっている將貴への恩返しとして、ちょっと手を貸しただけのつもりだった。
佳菜恵がしたことはただひとつ。
船員に扮して、『高崎』以外にいたもう一人の工作員と共に、希望の島にいる間は〝妨害電波を発生させる〟こと――
トニトゥルスの事を知ったのは、突然バケモノに襲われ、一緒にいた工作員が死んでしまうという『事件』になってしまった後だった。
大学では『遺伝子工学』を専攻していた佳菜恵。
その聡明さから、將貴には何度も「わたしの研究所に来ないか」と誘われていたのだが、佳菜恵は教師になるという夢を捨てきれず、やんわりと断っていた。しかし――――
希望の島で『あんなこと』になってしまった佳菜恵は、『公』には存在していない。
戸籍上『死亡』となっている佳菜恵には、もうどこにも行き場などなかった。
もし佳菜恵の生存を知る者がいれば、それは『トニトゥルス』のことも知っていると將貴は判断する。
どんな手を使ってでもその人間を『始末』するに違いない。それが出来るだけの力をこの男は持っている。だから、両親にすら連絡をすることが出来なかった。
「建部くんがあんなにも使えない男だったのはわたしの誤算だったが、あの程度のことで死んだ和幸には心底呆れたよ……」
佳菜恵の眉がぴくりと動く。
「あいつにも高内の家の者として、それなりの教育はしてきた。他の者たちを扇動し、利用すれば生き延びることは出来た。それが出来たはずなのにあいつはそれをしなかった……。がっかりを通り越して、もうどうでもよくなった」
「和幸はその教えを心底嫌っていたのです。人を利用するのではなく、友達として、仲間として共に生きていきたいと、あの子の想いはそれだけでした……」
「そんな甘いことを言っているから、死ぬことになったのではないのかね?」
將貴の冷たい目に、「やはりこの男には何を言ってもムダなのだ」と、佳菜恵は諦めの息を吐いた。そして、自分の『計画』を実行することにしたのだが、その前に――
「オジさま、ひとつだけ教えてくださいませんか。二年前、私以外に生き残った三人……。三島さんや皆本くん、それに神楽くんはどうされたのですか?」
「今日はよく口が動くのだね。キミはまだそんなことを気にしていたのかね」
將貴は不機嫌な息を吐いた。
佳菜恵にとってこの質問は重大なものである。
あの日、島から脱出した佳菜恵たちを救助したのは將貴が手配した船だった。
船員たちが何も知らないフリをしたのは、佳菜恵たちから正確な情報を得るためだ。
他にも生存者がいるならば消しておかなくてはならない。
佳菜恵がそれを知ったのは、見えていた港へ入港してから高内系列の病院に連れていかれた後だった。
大風見の遺体からトニトゥルスのサンプルを回収していた佳菜恵は、これを公表されたくないのならば自分たちに手を出すなと交渉するつもりだったのだが、そうはいかなかった。
自分が時間を稼ぐ間に、武瑠たちを密かに逃がそうとしたのだが――――。
あれから、武瑠たちについての情報を將貴は語ろうとしない。
武瑠たちをどうしたのか……
佳菜恵はこの二年間ビルから外へ出たことはない。
実際にトニトゥルスと接触した佳菜恵の経験は貴重だと、無理やり研究者にさせられ、地下にある研究施設と今いる会長室、この往復を繰り返すだけだった。
十数名いる研究者たちは外の情報には頑なに口を紡ぐし、エレベーターは会長室と直通になっているので逃げだすことも出来なかった。
だからこそ、なんとなくわかっていることなのだが……。
「もう一度伺います。私の生徒たちをどうされたのですか?」
怒気を孕む佳菜恵に対し、
「政府は、国民に『生存者なし』と発表したそうだ……。佳菜恵くん、これで十分かね?」
將貴は馬鹿にしたように口を弛めた。
佳菜恵は左右のポケットから、それぞれ小さなガラスの小瓶と、なにかのスイッチを取り出した。
「これがなんだかわかりますか?」
言うと同時にスイッチを押す。
こもったような低い音がしたかと思うと、一瞬遅れてビルが激しく揺れた。
「佳菜恵くん、な、なにをしたんだッ!」
激しい揺れに、將貴は机にしがみついて声を荒げた。
「地下の研究施設を爆破させていただきました……」
「なんだと!?」
言葉の意味が解らないという顔をする將貴に、
「全てのトニトゥルスを処分しただけですわ。爆薬に手を加えておきましたので、あの醜いバケモノたちも研究データも、跡形もなく燃やし尽くしてくれるはずですわ」
佳菜恵は初めて満面の笑みを見せた。
「き、キミにそんなことが出来るはずがないッ! 地下には他の研究者も大勢いるはずだッ、彼らを巻き込んでそんなマネー―出来る――はずが……」
この振動がなによりの証拠だとわかっているだけに、將貴の震えが止まらない。
「今日は、記念すべき研究成果を報告するために全ての研究者が集まる数少ない日です。この日をどんなに待ったか……。彼らが一人でも生きていれば、また研究が再開されてしまうかもしれない。そんなことはさせないッ、絶対にさせないッ!」
スイッチを投げ捨てる佳菜恵。
最上階のこの部屋はかなり大きく揺れているのだが、彼女が揺らぐことはない。まるで足と床がくっついているのではないかと思うくらいにしっかりと仁王立ちしている。
「佳菜恵くん……キミは、わたしの考えを理解していたのではなかったのかッ! トニトゥルスがこの国を救う『鍵』になると理解していたからこそ、この二年間研究に没頭していたのではなかったのねッ!?」
「研究に没頭していたのは今日という日のためです。オジさまの理想が実現可能となり、希望に満ち溢れたあなたの目の前ですべてを奪い去る……。それが、絶望のなかに残された私の希望だったのです」
「バカなことを……」
將貴は立ち上がり、満ち足りた表情を浮かべる佳菜恵を睨む。
「お前はなにをしたかわかっているのかッ! 世界を相手に勝ち続けていける未来を……この国の未来を奪ったんだぞッ!」
その顔はまさに鬼の形相だが、佳菜恵は冷ややかに受け止めていた。
「国民を騙した一時の栄光が何になるのですか? どんな対策を用いても、人間のすることに『綻び』はつきもの。必要な〝電力〟を生む何千万体ものトニトゥルスが放たれるような事態になれば、それはこの国の終わりを意味するのですよ?」
「今はトニトゥルスだけがこの国の希望だったのだッ! そんな先の事はこれからの者たちが心配すればいいことだろうッ!」
「後始末は後世に押し付ける……。そんな考え方がこの国の衰退を招いてしまったのだとなぜわからないのですか。あなたのような人が、結果として国を滅ぼすのですッ!」
「黙れッ、わたしは『愛国者』だッ! わたしこそがこの国を救う『救世主』なのだッ!」
「……可哀相な人ですね。その自信過剰な身勝手さによっておば様の心は離れ、和幸にも見放されたというのに……」
「なにをッ!」
將貴は佳菜恵に掴みかかるが、揺れる床に足を取られてあっさりと避けられてしまう。
「情けない格好ですね。オジさま、希望の島が沈む時はもっと激しく揺れたのですよ?」
床に這いつくばった將貴を佳菜恵は見下す。そして――
「これが何かはご存知ですよね?」
小さなガラスの小瓶を見せた。なかに入っているのは小さな黒い粒。
「それは……」
目を見開く將貴。
「そう、最後のトニトゥルスの卵です。これを――」
「なッ、やめたまえッ!」
將貴の制止も聞かずに、佳菜恵はそれを呑み込んだ。
「バカな事を……。何を考えているッ!!」
驚愕する將貴に、佳菜恵は再び微笑んだ。
「だって、不公平じゃないですか。和幸が、みんなが恐怖に打ちのめされたというのに、オジさまだけトニトゥルスの恐ろしさを知らないなんて……」
佳菜恵の変化はすぐに始まった。身体が震えだし、皮膚が破れるほど筋肉が膨れ上がる。
「これは私が遺伝子操作したモノです。子宮に定着してトニトゥルスを孕むのではなく、私自身がトニトゥルスになるという特別製……」
身体中から血を流し、変化していく激痛と苦しみのなか――――佳菜恵は微笑んでいた。
「大丈夫、コレには『時限爆弾』を仕込んであります。私がトニトゥルスでいられるのは約三分、それを過ぎれば細胞単位での崩壊が始まり、塵となって消えていきます。でも――」
開いた佳菜恵の眼は赤く、不気味に輝いている。
「それだけの時間があれば十分ですよね? オジさま」
勝ち誇った美砂江。
だが、將貴は喉を震わせて笑いだす。
「まったく――。まさか、キミがそこまでするとはね……」
佳菜恵を見据えたまま立ち上がり、机へと向かう。
「なにがおかしいのかわかりませんが……、死んでくださいッ!」
後を追った佳菜恵は、無防備な將貴の背中を狙って『トニトゥルスの爪』を振り下ろす。
「なッ!?」
佳菜恵の赤い眼が見開かれる。
將貴を貫くはずの大爪は、見えない壁によって弾かれていたのだ。
「わたしの演技は見事だったかな? トニトゥルス研究をするビルに出入りするこのわたしが、なんの防衛策もしていないとでも思っていたのかね?」
高級そうな椅子の背もたれに、將貴はゆったりと身体をあずけて指を組む。
「慢心だったのか……。 わたしはね、キミを説得できると思っていた。もうすでに『教師』ではなく、生徒たちをも全員失ってしまったキミだが、『研究者』としてトニトゥルスの可能性を知っていけば、必ずやわたしに賛同してくれる……。そう信じていたのだよ」
この時、ほとんど『トニトゥルス』となった佳菜恵に將貴は、一瞬だけ哀しげな表情を見せた。
「和幸を失った分、親族である佳菜恵くんには期待していたのだがな……」
將貴が話をしている間も、佳菜恵は一心不乱に〝見えない壁〟を壊そうとしている。――いや、ソレはもう『佳菜恵』ではないのかもしれない。
獣のような咆哮と、海へと沈んだギガンストルムを彷彿させる容姿。
『人間』だった佳菜恵の面影はもうない。
「それは『トニトゥルス』を管理するために開発した特別製だ。 防弾ガラスなどとは比較にならん。どんなに暴れようが、キミの力では傷一つ付けることは出来んよ。それと――」
〝見えない壁〟を殴った『佳菜恵』の腕が折れて弾かれる。その腕は体から離れて床に落ちると、〝塵〟となって消えていった。
佳菜恵の宣言通り、細胞の崩壊が始まったようだ。
「爆弾の発見が遅れたのは残念だが――地下にいた『研究者』と『トニトゥルスの卵』。佳菜恵くんがここに来る前に、避難が完了したそうだ」
勝ち誇った顔を見せ、將貴は椅子を回して佳菜恵に背を向けた。
それでも……まだ『希望』が失われたわけじゃないッ!
微かに残る意識のなか、佳菜恵は〝彼ら〟の顔を思い浮かべて微笑んだ。
佳菜恵の最後の一撃は“頭突き”。
想いのすべてをぶつけたその強打は、〝見えない壁〟にヒビを入れた。
「ば、ばかなッ!」
慌てて振り向いた將貴。
その目に映ったのは、特別製の強化ガラスに入った放射状のヒビと――
――塵となって消えていく『トニトゥルス』の姿だった。
◇
『高内財閥が電気事業に参戦!! この国を救う一手とは!?』
そんな見出しの新聞が世間を騒がせていた。
建築工事の現場で座っているある青年が、その記事を真剣に読んでいる。
誰かがその彼を呼んでいるが、記事に集中している青年はその声に気付かない。
「おいっ!」
声と同時にヘルメットを叩かれた。
「あ、はいっ、すみません!」
慌てて立ち上がった青年は、年配のベテラン作業員に頭を下げた。
今は昼休憩だし、怒られるような事をした覚えもない。ずれたヘルメットを直す彼は戸惑っている。
「え……と、なんですか?」
なにやらニヤニヤしている先輩が気になるようだ。
「なんですかじゃねえよ。今日も彼女が来てるぞ、早く行ってやんなっ!」
先輩はもう一度、今度は少し強めにヘルメットを叩いて去っていく。
「毎日毎日愛妻弁当、うらやましいねえ。ウチの母ちゃんも弁当届けてくんねえかなぁ!」
そんな冷やかしを受けた青年の顔が赤くなる。
そして、手を振る女性へと駆け寄った。
「ごめん、新聞読んでたら気付かなくて……」
ヘルメットを脱いだ青年に、女性は笑顔で弁当の入った包みを手渡した。
「ううん。今日もご苦労様!」
この笑顔があればどんなに辛くても頑張れる。青年はそう思っている。
女性は口に手を当てて男に顔を近づける。そして一颯は――
「ねえ武瑠くん。読んでた記事って……アレの事?」
――そう、三島一颯は小声で、うつむき気味の武瑠に尋ねた。
「うん。佳菜恵ちゃんが言ってた事ってこの事なんだろうね……」
新聞をそっと広げた神楽武瑠。
高内財閥会長――高内將貴氏が語ったこの国の未来!!
強引な手腕だと批難を受けながらも、常に『成果』を出し続けてきた高内將貴氏が、先日の記者会見で電気事業に参戦すると発表した。
主力となるのは〝ミドル電源〟
ミドル電源とは、一般的に電力需要の変動に応じた出力変動が可能な発電のことである。天然ガスやLPガスなどでの発電がこれにあたる。
原子力発電などの、コストが低く・常に出力一定(逆をいえば出力をコントロール出来ない。その為、電力需要の低い夜間は料金を安くして提供している。)である、いわゆる〝ベースロード電源〟とは違い燃料の調達や設備にコストがかかってしまうことが問題点である。
このたび、高内氏が発表したのは『生物発電』。
刺激を与えると電気を発生させる〝微生物〟に人工的な手を加え、これをミドル電源として活用する計画だ。
ミドル電源とはいうものの、発電コストはベースロード電源よりもはるかに低く
なっており、驚くべきなのはその『電気価格』。電気代は従来の十分の一になるらしい。
将来的には一般家庭への供給も視野に入れているが、当面の間ターゲットとするのは工場などの『ものづくり産業』となる。
しかし、この恩恵ははかりしれない。『性能・利便性』でははるかに勝っているものの、『安価』な海外製品に押され気味だったこの国の産業にとって――――。
武瑠は記事に目を落としながら、あの日――希望の島から脱出したその日を思い起こす。
病院へと運ばれた武瑠たちは手当てを受けた。
その後、手術をして腹部の銃弾を取り除いた皆本がいる、普段はVIPな人達が使用する特別病棟の一室に集まった。
ようやく一息つけたところで、生きているという喜びを実感していたのだが、そこで佳菜恵から自分たちの命にかかわる危険に晒されるかもしれないという事を聞かされた。
高内財閥にとってトニトゥルスのことは秘密事項であり、それを知っている自分と武瑠たちをこのまま帰すというのは考え難いという。
今後の運命は、和幸の父――高内將貴の手中にある。
佳菜恵は身の安全を武瑠たちに保証すればトニトゥルスの事は口外しないと、和幸の父、高内將貴に持ち掛けたらしい。
武瑠たちは、渋りながらもそれを了承した。
もしトニトゥルスの事を口外するような動きがあれば、口外する前に始末されてしまうだろうし、自分たちの家族まで犠牲になりかねないからだ。
それに、マスコミに流したところで公表されることはないだろう。
高内財閥が政府関係者だけではなく、マスコミにも大きな影響力があるというのは、いわば『公然の秘密』である。公表される前に握り潰されてしまうに違いない。
それだけの力があるというのは、ほとんどの国民が知っている……。
武瑠たちは佳菜恵の説得に応じたのだが、將貴の決断は――
佳菜恵を除く、武瑠たちの『抹殺』だった。
しかしそれを予想していた佳菜恵に、病院から姿を消していた政木から連絡が入る。
政木は個人的なツテを頼って、身元不明の若い遺体を三体盗み出した事を報告してきた。
部屋に現れた殺し屋を振り切り、地下のボイラー室に逃げ込んだ武瑠たちは、通気ダクトを使って逃げる間にボイラー室を爆破して『死の偽装』をした。
幸いなことに病院関係者一名の協力もあり、武瑠たちは逃げきる事が出来た。
この病院関係者は皆本の銃弾を取り除いた執刀医。
彼が、幼い頃に離婚して家を出た『由芽の父』であったのを知ったのは後の事である。
命が助かった武瑠たちだが、自分たちの家に帰ることもできない。將貴が、それぞれの家族を見張らせていたからだ。
それは武瑠たちの偽装がバレたわけではない。
政府から子供の死を知らされた親のなかには説明に納得が出来ない者も少なくなかった。『遺族』のなかから、島での出来事を探る者が出てこないかを監視するためだ。
戸籍上は死んでいることになっている武瑠たち。
政木は「こんなこともあろうかと」と、ニセの戸籍を用意していた。
「今の仕事を辞めて、証人保護プログラムの職にでもついたら~?」
そう言った皆本に、「それもいいかもな!」と、政木は杖で身体を支えながら笑っていた。
―――あれから二年。
『あの人たちの好きにはさせない!神楽くんたちの事も、トニトゥルスの事も、私が何とかします!』
力強くそう言った佳菜恵とは、病院で別れたきり一度も会っていないし直接連絡も出来ていなかった。
年に一度か二度。『高内』とは縁を切って怪しげな仕事をしている政木が、佳菜恵との連絡を取ってくれている。
だから、佳菜恵が武瑠たちの死の偽装がバレていないのを確認した時、そっと微笑んだ事を武瑠たちは知らない。
武瑠たちは偽りの名前で生活してきたのだが……
「皆本は……あいつはなにか言ってた?」
小声で訊いてきた武瑠に一颯は頷いた。
「『動く時がきたみたいだね~……』って。……武瑠くんっ!」
一颯の強い目に、武瑠はふたりとも自分と同じ考えであることを確信した。
『生物発電』は〝微生物〟によるものではなく、〝トニトゥルス〟というバケモノによるものだという事は彼らだけが知っている。
「ああ、世の中に知らせよう! トニトゥルスの事、島での惨劇……。絶望のなかでも希望を持って助け合ったみんなのことをっ!」
力強く言った武瑠。
一颯は突き出された拳に自分の拳を重ね、もう一度力強く頷いた。
高内將貴が動き出したという事は、佳菜恵の『計画』は失敗に終わったことを意味している。しかし同時に、このタイミングならば武瑠たちが動き出しても『家族』が危害を受けることはないだろう。
『高内』側が手出しをしてしまえば、それは武瑠たちの正しさを証明してしまう事になりかねないからだ。
インターネットなどを利用したゲリラ的な戦いになるだろうが、ここで自分たちが『生き返る』ことで世間の注目を浴び、全てを公表すれば、偽善的な將貴の考えや行動も、しだいに明らかになっていくだろう。
そして、『発電』にはトニトゥルスを使うつもりだということも広く知られるに違いない。
だが、それをすることによってどうなるのだろうか?
多くの命を奪い、『希望の島』と同じ惨劇が起きる可能性のある恐ろしい計画だと非難する声の一方で、トニトゥルス発電による利点を考えればむしろ賛同する者も現れるかもしれない。
武瑠たちの住むこの国は、どこへ向かって進んで行くのだろうか――――。
◇
生活を豊かにする大きな技術には、必ず大きな危険がつきまとう。
使用する側はその危険を理解しているのだろうか?
危険が牙を剥いた時、それに対処出来るのだろうか?
何気なく使っている便利な技術。生活に必要であればあるほど、危険を制御しながら活かしていかなければならない。
その努力を怠ってしまった時には豊かな生活が一変し、『トニトゥルス』のようなバケモノが人々を襲うだろう。
それは凄惨で悲しく、大切な人や愛する者を奪っていくかもしれない。
だからこそ皆で考えていくべきなのだろう。
考えが違うからこそ、皆で議論するべきなのだ。
それを継続していこうとする姿勢そのものが、
未来への『希望』なのだから――――。
□◆□◆ お わ り 。
□◆□◆
読んでくださり ありがとうございました。
これにて『トニトゥルス~希望と惨劇の島~』は完結となります。
最後まで投稿し続けることが出来たのも、応援して下さった読者の皆様のおかげです。本当にありがとうございました!
物語の設定に関しては、私の勉強不足のためツッコミどころも満載かと思います。
……申し訳ありません。
今はただ、初投稿の作品を完結出来て「ホッ」としております。
最終話【後編】でお気づきの方もいるとは思いますが、この物語はエネルギー事業の安全性をテーマにしております。今回でいえば原子力発電です。
トニトゥルス=放射能
ご存知の通り、放射能というのは身体や心を蝕む大変恐ろしいものです。女性には身体だけでなく、お腹のなかにいる胎児や、これから授かる命にまで影響を与えかねません。(特に女性の読者様には、気分を害してしまった展開がありました。そういった方々に心よりお詫び申し上げます)
私個人としましては、
〝原発はあったほうがよいか?〟と問われれば NOと答えます。しかし、
〝今の日本に原発は必要か?〟 と問われれば きっとYESと答えるでしょう。それでも、事故が起きてしまった時の惨劇を考えると……。
原子力発電というものが〝主力〟ではなく〝一時的〟なものとなるような、新しい技術が誕生することを願ってやみません――。
長々としたあとがきで失礼いたしました。
最後になりましたが、ブックマークや評価をつけてくださった皆様。ほんとうにありがとうございました!




