五十二話 貴音の『告白』――大好きな人のために――
□◆□◆
◇
瓦礫をどけて現れた平たい石を前に、武瑠は額の汗を拭った。
天井の一部だったのだろう。人間二人を並べたくらいの大きな石だが、皆本と2人ならば除けることも出来そうだ。
前に出てきた貴音が、膝をついて壁と石の隙間を覗き込んだ。
なんとか腕を通せるほどの穴から、あちら側の通路が見えている。
「向こう側が見えてる……。タケっ!」
壁に手をついて見上げてきたその表情は明るい。
「ああ。もう少しだ、あとはこの石をどかせば……」
「神楽、ちょい待ち~。――やっぱり、そう簡単にはいかないっぽい~……」
武瑠の言葉を遮った皆本は難しい顔をしていた。
さらに土砂をどかしての発見は思ったよりも深刻らしい。
予想していたよりも石は縦長で深くまで埋まっており、撤去にはまだ時間がかかりそうだ。
この石壁をどかせば地下通路から出られると思っていただけに、気落ちしそうな雰囲気が流れる。
だが貴音が声を上げ、
「向こう側は見えているんだよ! こんな石ころ、パパッとどかしちゃおうよ! タケ、まさかもう疲れたなんて言わないよね?」
悪戯っぽく目を細めた。
「誰に言ってるんだ? これくらいで疲れるわけないだろ。俺はいつもの練習……『地獄の貴音メニュー』をこなしてるんだぞ? 体力は有り余ってて仕方ないつ~の!」
「地獄のってなに!? まるで私がイジメてるみたいじゃない! 口を動かさずに手を動かしなさいっ!」
貴音は手で土砂を掻き出す武瑠のケツを叩く。そして、満面の笑みで皆本にも喝を入れた。
「お、俺は何も言ってないのに~……」
皆本はケツを擦りながら作業に戻る。
それを見て満足そうに頷く貴音。
バスケットボールの試合中によく見てきた顔だった。
体力的にも精神的にも苦しくなる時間帯に、貴音は満面の笑みで皆に喝を入れて励ます。
屈託のない彼女の笑顔で、何度奮い立つことが出来たかわからない。
武瑠と皆本が気合いを入れて引くと、石壁が少し動いた
もう少し掘ればなんとか人ひとり通れる穴が出来そうだ。
武瑠は掘り出した土砂や瓦礫を捨てる貴音を見上げた。
「貴音、もうすぐお前が通れるくらいの穴が出来るから、先に行って和幸と佳菜恵ちゃんを連れてくるんだ。その間にもう少し穴が大きくなるから、向こうから七瀬さんを引っ張ってくれ」
気絶している桃香を運ぶには、こちらから押すのと同時に向こうからも引っ張ってくれた方が早い。
この中で一番小柄な貴音を先行させた方が効率が良かった。
「うん、わかった。桃香だけは、自分でくぐらせるわけにはいかないもんね」
貴音が頷いた時、逃げてきた通路から風が――いや、空気の波がどっと押し寄せてきた。
遠くから水の流れてくる音も聞こえる。
「これはもしかして~……ま まずい、海水が入ってきた~! はやく掘らないと溺れ死んじゃうぞ~!」
青ざめた皆本が掘る手をさらに速くした。
「皆本っ、どういうことよ?」
焦る皆本に由芽も不安を隠せない。
「大きな地震だったし、島が少し沈んじゃったんでしょ~っ! 船着場の扉が壊れたんだよ~!」
「そ、そんなことってあるのかよっ!」
驚く武瑠に皆本は「手を動かす~ッ!」と叱った。
「どうなったのかなんて今は確かめようがないけどさ、音だって聞こえるし、海水が入ってきたのは間違いないんだよ~!」
皆本の言う通り、通路の奥から押してくる空気と共にゴゴゴゴ……という音が近づいてきている。
時間はあまりなさそうだ。
「ねえっ! あっちに行けば、私たちが逃げ込んだ酒場まで続いてるよ!」
貴音がもう一方の通路を指差した。
武瑠たちがいるのはT字路の真ん中。
一方は瓦礫に埋もれ、もう一方からは海水が押寄せてくる。
「どのくらいで行ける~?」
「多分、走れば3分くらいで行けると思うっ!」
「それじゃあ海水の速度に勝てない~っ!」
一瞬輝いた皆本の顔に、また焦りが戻った。
皆で必死に穴を掘るなか、突然皆本が手を止め、
「神楽~……」
穴を広げる武瑠の肩に手を置いた。
見上げた武瑠に、皆本は渋い顔で首を振る。
間に合わない……
表情がそう言っていた。
なんとか穴を広げることは出来たが、人が通るにはまだ小さすぎる。
しかも、押寄せてくる海水の音はそこまで迫っている。
皆本の絶望を受け入れたような表情に、貴音と由芽がへたり込んだ。
だが、武瑠は穴の大きさをジッと見る。
いけるかもっ!
思いつくと同時に貴音の手を取った。
「貴音! お前だけでも逃げるんだっ!」
力なく座る貴音が目を丸くした。
「な、なに言ってんのタケ。そんな小さな穴じゃ通れないよ?」
「ああ、俺たちは通れない。でも貴音なら……こっちから押し出せば通り抜けられるかもしれないっ!」
貴音は小柄だ。
146cmで痩せ型の彼女なら、なんとか通れるのではないかと思ったのだ。
「このままじゃ全員死んじゃうんだ。貴音だけでも逃げてくれ!」
その言葉に、貴音は眉を吊り上げた。
「バカなこと言わないでッ! タケを置いて逃げられるわけないじゃないッ!」
手を振りほどこうとするが、武瑠はその手を放さない。
「神楽、ナ~イスな判断だ~!」
皆本がにこりと親指を立てた。
「ま、最善の判断ね。みんなで死ぬより、貴音だけでも助かるならそうした方がいいもの」
スッキリしたような笑顔を見せた由芽。気絶している桃香を膝まで抱き上げ、
「助けてあげられなくてごめんね桃香。でも私も一緒だから、ひとりじゃないからね……」
愛おしそうにその髪を優しく撫でる。
「皆本……由芽も、ふたりとも何言ってるの! そんなこと出来るわけないじゃないッ!」
武瑠は怒鳴る貴音の肩を掴み、自分へと振り向かせる。
「頼む貴音ッ。逃げて、三島さんや直登たちとこの島を脱出……」
「いやッ!」
言い聞かせようとする武瑠の胸に、貴音が飛び込んだ。
「そんなの、そんなの絶対に嫌ッ! わたしタケと一緒にいるッ!」
「バカなこと言うなッ! 死んじゃうんだぞッ!」
武瑠は押し離そうとするが、貴音はしっかりとしがみついている。
「貴音ッ!」
声を荒げる武瑠。
「好きなのッ!」
貴音はしがみついたままそう叫んだ。
「――え?」
思わぬ言葉に、武瑠の動きが止まる。
貴音はゆっくりと武瑠を見上げた。
「……好きなの。わたしはタケのことが好き。――ずっと、ずっと前から好きだったの……」
涙でくしゃくしゃになりながらの告白だった。
言葉を失う武瑠に、貴音はさらに訴えかけてくる。
「タケに好きな人がいるのは知ってるよ。でももう助からないなら……このまま死んじゃうんなら……最後はタケのそばにいさせてー―お願い……」
再び、武瑠の胸に顔を埋めた貴音が嗚咽を漏らす。
「そ、そんなこと……」
動揺する武瑠。
思いもよらぬ告白だが、思い返せば心当たりがないこともなかった。
どこへ行くにしても何をするにしても、貴音はいつも武瑠のそばにいた。とはいっても、そのほとんどはバスケ部に関係していることだ。
買い出しや合宿、練習試合だったり……。
貴音はいつも武瑠の隣を陣取り笑顔を見せていた。
それは武瑠にとって日常のことであり、当たり前のことだった。
しかも、武瑠は直登が貴音に想いをよせていることを知っている。
武瑠にとって、貴音は心からの『仲間』であったし、自分は一颯に想いを寄せていることもあり、貴音に恋愛を意識することはなかった。
あるモノに気がついた武瑠は、そっと貴音の頭に手を添えた。
「俺のことをそんなふうに想ってくれていたのなら、なおさら貴音を死なせたくない……」
「え?」
耳元で囁かれた貴音は顔を上げる。
そこには、強い意志を持ってある一点を見つめる武瑠の目があった。
「皆本っ、一つアイデアが浮かんだ! 上手くいけば助かるぞっ!」
「あらら~、いい目をしちゃって~。期待しちゃってもいいのかな~?」
輝く武瑠の表情に、皆本は希望が戻ってきたような気がした。
「約束は出来ないけどな。アレを使ってみる!」
武瑠が指差したのは曲り角の壁下にあるスイッチボックスだった。
皆本の推測通りならば、スイッチを押せばトニトゥルスを封じ込めるための壁が下りてくるはず。
それで迫り来る海水を防ごうというアイデアだ。
「ちょ、ちょい待ち~。アレは下りてくる壁の外側にあるってわかってる~? 壁がゆっくり下りてくるなら戻って来れるかもしれないけどさ、もし一気に落ちてきたら~……」
皆本は最後の言葉を濁した。
スイッチは、下りてくる壁から3mほど離れた所にある。
トニトゥルスを閉じ込めようというのだから外側にあるのは当然だろう。
皆本の言う通り、一気に壁が下りて――――落ちてくるのなら、戻ってくることは出来ないかもしれない。
スイッチを押した人間は海水にのまれて死ぬだろう。
それは武瑠にもわかっていた。けれども――。
「やってみなきゃわからないし、やってみるしかないんだよっ!」
このままでは全員が死んでしまう。
自分は犠牲になってしまうかもしれないが、少なくとも三人を救うことが出来るかもしれないのなら、やってみる価値は十分にあると武瑠は考えた。
「だ、だったら~、俺が……」
「皆本はダメだッ!」
武瑠はスイッチへ行こうとする皆本の腕を掴んだ。
皆本は戦力の要である。
彼がいなければここまで生き残ることは出来なかったであろうし、これから行動するにあたっても必要不可欠な存在だ。
皆本なくしては、島からの脱出どころか生きることさえ危うくなってしまう。
それは皆本も十分に承知していることだろう。
だからこそ、
「くッ……」
皆本は言葉を飲み込んで、武瑠から視線を逸らした。
「そんな顔するなよ皆本。上手く戻って来れる可能性だってあるんだ。俺は生きることを諦めたわけじゃないんだぞ」
皆本は笑顔を見せる武瑠に一瞬戸惑ったが、
「神楽、お前って……やっぱりすごい奴だな~」
深くため息を吐いた後、不器用な笑顔を見せた。
「こんな状況なんだ、多少の無理はするさ」
ぽんっと皆本の肩を叩いて武瑠は背を向けた。
あとは頼む!
背中がそう言っているように皆本は感じた。
スイッチへと向かう武瑠。
後を追った貴音がその手を引いた。
「待ってタケ。私が、私がスイッチを押すよ!」
貴音は真剣な眼差しを送るが、武瑠はその手を乱暴に振りほどく。
「なに言ってんだッ、そんなことさせられるわけないだろッ!」
怒鳴ったが貴音も引かない。
「戻って来れない時のことを考えたら、私が押しに行くのが一番良いのっ! そんなことタケだってわかってるでしょッ!」
貴音がこんなことを言い出した理由を、武瑠は察している。
「ダメだッ! ダメだダメだダメだッ、そんなの絶対にダメだぁッ!」
だから、それを言わせないように声を荒げた。
いきなり、貴音が武瑠の胸ぐらを掴む。
そして一気に自分へと引き寄せた――――。
武瑠はふわりとした貴音の香りを感じる。
貴音を黙らせようとしたその口が封じられていた。
唇には柔らかな感触
目に映るのは閉じられた貴音の目蓋。
気にしたことはなかったが、貴音のまつ毛は長かったのだと初めて気がついた。
ゆっくりと唇が離れる。
乾燥している武瑠の唇は貴音にくっついていたため、粘着力の弱いテープを剥がす時のように、少しだけ引っ張られた。
「タケ……」
貴音は潤んだ瞳を武瑠へと向ける。
「もしタケがいなくなったら、みんなはどうなるの? 一颯と直登はケガをしていて満足に動けないんだよ? 桃香だって……。高内は心臓が悪いし、男手が皆本ひとりじゃ、みんなを移動させるのは無理だよ」
呆然と立つ武瑠を、優しく諭すような言い方だった。
貴音の突飛な行動に誰もが驚いたが、由芽がハッと我に返る。
「だ、だったら私が行けば……」
言いながら立ち上がった。
瞬発力なら器械体操とバトミントンで鍛えた足腰がある。
ボタンを押してサッと帰ってくるだけなら、貴音より速い自信があった。
だが貴音は首を振る。
「もし失敗しちゃったらどうするの? トニトゥルスを出産させて桃香を助けるんでしょ? それは私には無理だもん。由芽も行かせられないよ……」
貴音は言いながら一歩踏み出す。
武瑠は反射的にその手を取った。
合理的に考えて貴音の言っていることは正しいかもしれない。
しかし、それを認めるわけにはいかなかった。
「もし壁が一気に落ちてきたらどうするんだよッ! 貴音が戻って来れないかもしれないじゃないか! 俺の方が成功の確率が……」
「タケが戻って来れる保証もないでしょ!? それに、タケが言ったんだよ『やってみなきゃわからない』って!」
今度は貴音が言葉を遮って、武瑠の手を乱暴に振りほどいた。
「時間がないのよタケ。……わかってるわよね?」
貴音は哀しげなその瞳を、武瑠からその後ろへと向けた。
次の瞬間に、武瑠は皆本によって後ろから羽交い絞めにされてしまう。
「なッ!? 皆本、お前なにを……ッ!」
もがく武瑠だが、皆本を離すことが出来ない。
「すまん神楽……」
悲痛に満ちた声で、皆本はさらに力を込めた。
「皆本、嫌な役をさせてごめんね……」
一歩二歩と、貴音はスイッチの方へと下がっていく。
「ダメだ貴音ッ、おれが行く! くっそ、離せッ! 離せよ皆本ッ!」
怒鳴る武瑠に対し、皆本は「すまない」と繰り返すだけ。
単純な力では武瑠は皆本に勝っている。
しかし皆本は、力が入りにくいポイントを押さえて動きを封じてくる。
その技の前に、武瑠はもがくことしか出来ない。
スイッチボックスを開けた貴音が振り返った。
「タケ、もし上手くいってちゃんと戻って来れたらさー―」
そこで一度口を固く閉じ、
「その時は『よくやった』って褒めてよね!」
少し悲しそうな笑顔を見せた。
そして、思い切ってスイッチを押す。
ズズ……と隔離壁は重い音を立てて下がった。
「なんで? なんでちゃんと下がってこないのよ!?」
すぐに戻ろうとした貴音の足が止まる。
隔離壁は20cmほど下がったところで止まっている。
急いで戻り、何度もスイッチを押すが壁は下りてはこなかった。
閉鎖されてから70年以上も放置されてきた研究施設。
当然メンテナンスなどされているはずもない。
錆びついてて動かないのか、電気系の接触が悪いのか……。どちらにしても壁が下りてこないのならば、ここにいる全員の『死』が確定してしまう。
「なんなのよ! はやく下りてきなさいよッ!」
一心不乱に、貴音はスイッチを連打する。
ズズズ……と壁は少しずつ下がってくるものの、このままでは間に合わない。
迫ってくる海水はもう目視できる所まで来ていた。
まともにほどこうとしても皆本には敵わない武瑠は、皆本もろとも瓦礫へと突っ込んだ。
そして一瞬力が緩んだ隙に皆本を振り切り、
「もういい貴音ッ、俺と代わるんだ!」
貴音へと走る。
「タケ、もう少しなのっ! もう少しで……」
スイッチを連打しながら振り返った貴音と目が合う。
そこで突如、武瑠の視界が遮られた。
タガが外れたかのように、隔離壁が一気に落下したのだ。
それは一瞬の出来事で、とても戻って来れるような時間はなかった。
「そんな……ウソだろ? 貴音、貴音ぇぇぇッ!」
武瑠は隔離壁を叩く。
持ち上げようとするが「人」の力でなんとかなるようなモノではなかった。
皆本は瓦礫に横たわり、放心したように隔離壁を見ている。
由芽も口を手で覆い、目を見開いていた。
「まってろよ貴音ッ、いま助けてやるからなッ! 俺が、俺が絶対に助けてやるからッ!」
武瑠だけが壁に張り付き、無駄とも思える努力を続けている。
◇
「これだけ厚くて頑丈な壁なら、タケたちは大丈夫そうね……」
壁にもたれた貴音は、浅く息を吐いた。
武瑠のことだから、今頃は自分を助けようと壁を叩いたり叫んだりしているのだろう。
けれども、武瑠の声も隔離壁を叩く音も聞こえてはこない。
貴音は寂しさを感じながら、膝を抱えてその場に座る。
「最後の時っていうのはこんなに呆気ないものなのね。どうせこうなっちゃうのなら、もう少しタケと見つめ合う時間をくれてもいいじゃない……」
運命というものに愚痴る反面、満足げに微笑む自分に気がついた。
ゴゴゴ……と、暴れる闇が嫌な音を立てて流れてくる。
「なんでだろう? これから死んじゃうのに、あまり怖くない……」
恐怖がないわけではない。
しかし、思っていたより心が穏やかな自分に貴音は驚いていた。
「――あ、そっか……」
はにかみながらそっと自分の唇に触れる。
勢い任せではあったが、ずっと好きだった武瑠に想いを伝えることが出来た。
それに――
「タケに――キス……しちゃった。――ごめんね、一颯……」
親友の一颯も武瑠のことが好きだということは知っていた。
一颯は何も言わなかったが、武瑠を見る目が自分と同じだということには随分前から気付いていた。
そして、武瑠は自分ではなく一颯に想いを寄せていることも……。
誰よりも武瑠のことが好き。
しかし、一颯も一生付き合っていきたい親友だ。
「でも先に好きになったのは私の方なんだから、これくらいは許してよね」
ペロッと舌を出してごまかし笑いを浮かべる。
「タケ。一颯のこと、ちゃんと支えてあげるんだよ――」
貴音はそっと目を閉じた。
「――じゃないと、化けて出てやるんだから……」
最後にもう一度、大好きな武瑠の顔を思い浮かべ――――
闇に巻き込まれていった。
◇
「ぅわぁッ!」
壁の向こうからの強い衝撃で、隔離壁に張り付いていた武瑠は吹っ飛ばされた。
床に転がったがすぐに上体を起こす。
数秒の激しい揺れのあと、再び微振動が戻ってきた。
「た、貴音? そんな――そんな……そんなああああッ!」
起き上がった武瑠は壁を叩く。
床と壁の隙間から海水が滲み出し、足下に水たまりが広がってきた。
それが貴音の涙に見えてしまう。
この厚い隔離壁の向こう側に貴音がいる。
暗く冷たい水の中 たった一人で……。
なぜこんなことになってしまったのか?
武瑠は大きな原因となった皆本を睨んだ。
皆本は由芽と瓦礫をどかし、穴を広げていた。
「み、皆本……お前、なんてことしてくれたんだ……」
「悪いことはしてないでしょ~? この穴掘って広げないと、抜け出せないんだからさ~」
震える武瑠に、皆本は背中で答えた。
「穴の話じゃねえッ! なぜ邪魔をしたッ!? 俺がスイッチを押すはずだったのに、なんで貴音を行かせたんだッ!」
そう怒鳴るが、皆本は穴を掘る手を休めない。
「あれは佐藤が正しい~。あのままだと俺たち全滅だったわけだし、佐藤のおかげで俺たちは生きてる~。だから――」
変わらず背中を向けて話す皆本に武瑠の怒りが頂点に達した。
皆本のTシャツを掴んで強引に引き起こす。
「だからなんだッ! 早くここから逃げ出そうっていうのか!? 俺が行けば戻ってくることだって出来たかも……」
拳を上げた武瑠の手が止まった。
皆本は――泣いていた。
「――だから、俺を殴ってもいいぞ~」
涙を流して、怒る武瑠の目を見つめてくる。
武瑠は言葉を失う。
皆本が邪魔をしなければ、今も貴音は生きているはずだった。
なのに、皆本は貴音の死を悼みもせずに逃げることだけを考えている。
そう思ってしまったのだ。
けれど、それは違う。
皆本は武瑠を押さえている時に、何度も「すまない」と謝り続けていた。
貴音の死を悼まないような人間であるわけがない。
武瑠は、一瞬でも皆本の人間性を疑ってしまった自分が恥ずかしかった。
現実的に考えれば、貴音が言ったことは正しい。
彼女は、武瑠を救いたい気持ちと同時に、一人でも多く助ける為に自分はどう行動するべきかを考え――実行した。
結果として、犠牲者は最小で済んだと言えるのかもしれない。
「神楽、皆本を殴るならさっさとやっちゃって! 気が済んだらこっちを手伝ってよね!」
穴を広げていた由芽が、潤む瞳で武瑠を見上げた。
涙を拭う間も惜しんで穴を広げていたのだ。
「せっかく貴音が助けてくれたのに、私たちが生き埋めになっちゃったら……。貴音がうかばれないよ……」
そう言って穴掘りに戻った。
小さな地震は未だ続いているし、天井からは砂や小石が降っている。
いつまた天井が落盤してもおかしくはない。
武瑠は震える拳を下ろし皆本を放す。
そして、無言で瓦礫の撤去作業をはじめた。
「うっ……」
武瑠から嗚咽が漏れた。
涙で手元がよく見えない。しかし作業は止めなかった。
由芽の言う通り、ここで自分たちが生き埋めになってしまえば貴音の犠牲が――努力と覚悟が無になってしまう。
生き残るための最大限の努力をしなければ貴音に申し訳ない。
武瑠に「絶対に諦めない」という精神を教えてくれたのは、貴音だったのだから――。
□◆□◆
読んでくださり、ありがとうございました。




