二十九話 野宮と間下と『黒い船』
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桃香たちが建物の崩壊に巻き込まれた。その頃……
「暑ちいなあ~……」
海上のボート上で、額の汗を拭った野宮は恨みがましい目で太陽を見上げた。
さっきまでは灰色の雲がかかっていたのだが、今は流れてくる白い雲に負けないよう元気に輝いている。
暑さの原因は太陽ではない。
季節はまだ春なので海の上では肌寒いくらいなのだが、慣れないボート漕ぎのせいで全身汗だくになっていた。
野宮と間下が乗っているボートは、船に積まれていた緊急用の脱出艇だ。
他にも折りたたまれたゴムボートも幾つか収納されていたのだが「のんびりと浮いているだけでは助からない」と、櫂付きのボートを選んだのだった。
「湧斗、手が止まってるぞ。とにかく漕がないと、どこに流されるのかわかったもんじゃねえよ……」
野宮は櫂を握り直すと、後ろで櫂を握ったままうつむく間下に声をかけた。
島を脱出しようと漕ぎ出したのだが、港を出て20メートルも進まないうちに海流によって進みたい方向とは逆に流されてしまったのだ。
「う、うん……」
覇気のない返事に、野宮は大きなため息を吐いた。
「まだ気にしてんのか? 柚木は死んじまってたんだ、そうやって落ち込んでても仕方ないだろ」
「わかってるよ一成。わかってるけど……」
間下は柚木芽衣子を探していた。
野宮には大反対されたが、好きな子を助けたかったのだ。
◇
――間下と芽衣子は同じ美術部に所属している。
1年生の時から仲良くしていた相手だっただけに、3年生のクラス替えで同じクラスになった時は互いに喜んだものだ。
間下が芽衣子を異性として好きになった2年生の時。残念ながら、当時の芽衣子には彼氏がいた。
卒業生で美大へ進学した先輩。芽衣子も同じ美大に通うために、精一杯の努力をしていることを知っていた。
だからこの想いは胸にしまい、間下は芽衣子を応援していた。
芽衣子の笑顔が大好きだった。
彼女からも、友人としては誰よりも好かれていると思う。
だから今の関係を壊したくはなかった。
だが間下は見てしまったのだ。その先輩が別の女性とデートしていたのを……。
そのことを芽衣子に言おうとしたのだが、彼女の笑顔を前にどう告げればよいのかわからない。最悪「なぜそんな嘘を言うの!」と嫌われてしまうかもしれない。
そう思うと何も言えなかった。
そして――芽衣子は泣くことになった。
「美大で新しい彼女ができた」と、芽衣子は一方的にフラれることになってしまったのだ。
浮かない顔をした彼女に話しかけた時に、間下はそのことを聞かされた。
涙をためながら平静を装う芽衣子に、
「僕は……僕なら、きみを泣かせるようなことはしないっ!」
思ったことを口に出してしまっていた。
芽衣子は困った顔をして……何も言わずに帰った。
その日から芽衣子の笑顔が消えてしまった。
部活で会ってもよそよそしく、会話もほとんど出来なかった。
傷心につけ込むようなことをしてしまったのかと罪悪感に駆られた間下。
「武瑠に相談してみろよ」
野宮に相談すると、女っ気のない自分よりも適役だと武瑠を推薦された。
面識はあったが、それほどよく知るわけではない相手からの相談に武瑠は驚いていたが、
「もし下心だけで言ったのなら卑怯者だと思う。でもさ、ずっと好きだったんだろ? 本気で柚木さんを大切に想っているならさ、“傷心につけ込む”事にはならないんじゃないか?」
と真剣に答えてくれた。
その言葉は間下に勇気を与えた。
芽衣子の笑顔が大好きで、その笑顔を自分が取り戻してあげたい
この気持ちに嘘はない。
そして二度目の告白。そして彼女の答えは――
「少し――考えさせて……」
それが一週間前のことだ。
でもその日以来、芽衣子は少しずつ笑顔を見せてくれるようになっていた。
フラれてもかまわない。間下は芽衣子が笑顔でいてくれればそれでよかったのだ。
この島に着いた時、芽衣子から話しかけられていた。
「島の見学が終わった後の自由行動の時に、時間――もらえるかな?」
了解すると、はにかんだ彼女から笑顔がこぼれた。
野宮は言った。
「女はバケモノに孕まされるんだぞッ、柚木がそうだったらどうするんだッ! 湧斗は、殺される前に柚木を殺せるのかよッ!」
間下は言葉に詰まってしまう。
学校の倉庫では、水城尚央からバケモノが産まれる瞬間を目にした。
アパートでは、河添春来を喰っていた能海実鈴に襲われた。
本当に恐ろしかった。
尚央に咬まれて傷を負った安部歌奈を殺したのも、野宮は「安全を第一に考えてのことだ」と正当化した。
バケモノの種がどのように体内に入るのか判らない。
犯されるのかもしれないし、映画のように傷口から侵入するのかもしれない。
それを考えると、野宮の行動にも一理あると思ってしまう。
それほどまでに恐ろしい経験だったのだ。
芽衣子が無傷でいてくれることを心から願っていた。
彼女だけは自分が助けてあげたい。
その一心だったのだが……
彼女はすでに死んでいた。
「死体を確認したし、産まれたバケモノも殺したよ」
途中で出会った真治はそう言った。
信じられない思いで、間下は銭湯へ確認しに行った。
そこで、腹が破れ、血にまみれて絶命している芽衣子を見つけたのだった――。
◇
「おい湧斗、本気でまずくなってきた。櫂を動かせッ! とりあえず島に戻らないと!」
野宮の大声で、間下は我に返った。
ボートはさらに流されている。
このままでは、大海を漂流することになってしまうだろう。
「だ、だから言ったんだよっ。手漕ぎボートなんかで本島まで帰れるわけないって!」
「うるせぇッ! 湧斗だって、こんな島にいるのはもううんざりだって言ったじゃねえかッ!」
ふたりは、言い争いながらも必死に櫂を動かす――しかし、島はどんどん離れていく。
事前に渡された島のパンフレットには、海流のことが書かれてあった。
それを読んでいればこんなことにはならなかったのかもしれない。
いま読んだとしても後の祭りではあるのだが……。
「――? あれは……」
波間の向こう。
何かが見えた気がした間下は揺れるボートから身を乗りだした。
目を細めてみるが、波できらめく太陽光が邪魔をしてよく見えない。
「なにサボってんだ湧斗ッ! 状況わかってんのか!? さっさと漕げよッ!」
「状況はわかってるよッ! それより……」
怒鳴る野宮を一喝して、もう一度目を凝らした。
「やっぱりだっ。一成、あれ見て!」
「そんなヒマあるわけないだろッ!」
野宮は大粒の汗を流して櫂を動かし続けている。
「いいから見てよ、船だよ! 船がこっちに向かってきているんだっ!」
「ほ、ほんとかよ! どこだっ? どこに船がいるって!」
野宮は櫂を放して、間下が指差す方へ目を凝らす。
波間の向こう。
黒い粒だったものが、近づくにつれそれが船体だと認識できた。
黒塗りの高速艇が二隻、波を走破しながら向かってくる。
「おお~~~い! こっちですっ、助けて下さ~い!」
間下は両手を大きく振って船を呼ぶ。
野宮もワイシャツを脱いで大きく振った。
「助かった。助かったぞ湧斗っ!」
涙声の野宮の言葉に、間下も涙を拭って頷いた。
高速艇がふたりのボートのそばで停船した。
見るからに異様な形の船だった。
デッキ部分は黒いドームに覆われていてどこが入り口なのかもわからない。
呆然とするふたりの前で船体上部のハッチが開き、男が上体を現した。
ヘルメットに迷彩服。すべてが黒で統一されている。
映画に出てくる特殊部隊ような格好だ。
その姿に戸惑うも、野宮は男に声をかけた。
「助かったよ! 島にわけわかんねえバケモンが現れやがって、なんとか逃げ出したところだったんだ!」
間下も続く。
「まだ島にクラスメイトが残っているんですッ、助けてあげて下さい!」
男はふたりに返答することなく、ヘルメットについた通信機で誰かと話をしている。
「あ、あの、聞こえてますよね? 僕たち……」
なんだか様子がおかしい。
言いようのない不安に駆られた間下の語尾は、聞き取れないほど小さくなった。
「おいッ、聞こえてんだろ! 返事くらいしろよッ!」
野宮が怒鳴るが、男はそれも無視する。
「なんなんだよッ、たすけてくれるんだろ? こっちはヘトヘトなんだ、早く中に入れてくれよッ!」
男がゆっくりと動いた。船内へ半身を戻す。
そして戻ってきた時、男が手にしていたのは自動小銃だった。
「え? な、なに?」
間下の顔は引き攣り、背筋に冷たい汗が流れた。
自動小銃なんてものは映画でしか見たことがない。それが本物なのかどうかもわからないうちに――
パラララ……
乾いた音を聞いた。
異物が全身を貫いていくのを感じる。
銃って、こんなに地味な音なの?
なぜ? ではなく、それが間下の最後の思考だった――。
◇
完全密閉された船内に窓は無く、進行方向や周りの景色はモニター画面に映し出されている。
「大風見隊長、目撃者二名を射殺しました」
通信機から感情のない声がもれた。
「ボートは沈めておけ。死体の始末も忘れるな」
大風見と呼ばれた筋肉質の男は、淡々とした口調で命令を出した。
外から再び多くの乾いた音が響いてきた。
「最初から我々に任せておけば……。あんな若造にやらせるからこんなことになるんだ」
舌打ちした大風見は、
「はやく済ませろッ。巡視船が来る前に、島に上陸するぞ!」
口早に言い、モニター画面に映る『希望の島』を見た。
「あの若造がどうなっていようと知った事ではないが、バケモノが相手とは面白い。ついでだ、サンプルも我々が回収してやろう……」
暗い船内で、楽しそうに口もとを吊り上げた。
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