二十六話 希美からの―― 『ありがとう』
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暗闇のなか、武瑠は息を切らしながら必死に走っている。
「かぐらぁぁぁ、たすけてくれよぉぉぉ……」
どこからか、沢部利春の呻き声が響いてくる。
「やめてくれッ! もう追ってこないでくれぇぇぇッ!」
その声は、耳を塞いでもどれだけ遠くに逃げても、どこまでもついてくる。
怨み 辛み 妬み
武瑠はこの負の感情から逃れたいのだが、
なぜ 助けてくれなかったのかと
なぜ 自分が死ななければならないのかと
なぜ お前は生きているのかと
声は執拗に責めてくる。
「ちがうッ! 俺だって助けようとした、助けたかったんだッ!」
うそよ
不意に耳元で囁かれた声に驚き、武瑠は尻餅をついた。
「だって、あなたは私を見捨てたじゃない」
暗闇から赤浜佑里恵が現れた。
着衣は乱れ、恨みがましい目で見下ろしてくる。
「ち、ちがう、あれは……」
先が続かなかった。
病院ではバケモノに物怖じしてしまい、連れ去られる佑里恵を見ているだけだったのは事実である。
口ごもる武瑠に、佑里恵は澱んだ恨みの瞳を向けてくる。
「あれはなに? あなたは……アンタは私を見捨てたッ! 何度も――なんどもたすけてって言ったのにッ!」
「そ゛う゛だよ……」
佑里恵の隣にもうひとり。
そこには、病院前で死んでいた遠野が立っていた。
「ぎ み゛だ ち゛が もっと゛、もっどはやぐぎでぐれれば ぼぐもだすがったがもしれないのに゛……」
話すたびに血を吐き出す遠野。
そして、首にぱっくりとした咬み穴が開いて血が滴り落ちる。
「う、うわあああああッ!」
武瑠は尻を引きずりながら後退る。
かぐら……
よく知る声の方へ武瑠は走る。
手招きしているのは篠峯聡美だった。
「篠峯、生きていたのか!」
嬉しさのあまり聡美の手を取ろうとした武瑠だったが、触れることは出来ずに身体をすり抜けてしまった。
前のめりに倒れた武瑠に、
「生きてるわけないじゃない……私は死んだの。あなたも確認したんでしょ?」
聡美は悲しげに笑う。
「う、あ、あ、あ……」
武瑠は身動きが出来ない。
まるで金縛りにあっているかのように身体は動かず、言葉を出すことも出来なかった。
「信じてたのに。私、神楽が何とかしてくれるって信じていたのに……」
近づいてくる聡美。
その姿が、徐々にコウモリ顔のバケモノへと変わっていく。
「そんな……。来るなッ、来るんじゃねえッ!」
棒を振り回すが、その攻撃はすべて躱されてしまう。
「どこだ!? どこに隠れたんだッ!」
いきなり姿を消してしまったバケモノに焦る。
そんな武瑠の腕を誰かが掴んだ。
「や、矢城さん?」
心臓が止まる思いだったが、それは矢城希美の手だった。
彼女は困った顔で微笑み、武瑠の手を包むように握った。
「武瑠くん、ありがとう」
「ありがとう? なんでさ? だって俺は……」
戸惑う武瑠に、希美は優しく微笑んだ。
「私ね、あの時……。きっと、武瑠くんが私を見つけてくれたあの時に、樹希と一緒に死ぬはずだったんだよ。 武瑠くんのおかげで、少しだけ命が伸びたんだと思うの。だから――ありがとう」
「そ、そんなのおかしいだろ。少しくらい命が伸びたからって……」
武瑠の言葉に希美は首を振り、
「ううん。そのおかげで、私は神楽くんの事を「武瑠くん」って呼べる時間が出来たんだよ! 大好きな人の近くにいられる時間をもらったの。だから、ありがとう!」
嬉しそうに笑う。
「……ダメだ」
武瑠のつぶやきに希美が戸惑う。
「逃げよう、今ならあのバケモノはいないッ! 今のうちに逃げようッ!」
手を引くが希美を動かすことは出来なかった。
まるで、大木に縛り付けたロープを引いているのようだ。
「それこそだめだよ。武瑠くん、わたし、もう行かなきゃ……」
希美は寂しそうに笑う。
「行くって、どこに……?」
武瑠の問いに答える前に、希美の首から大きな爪が突き出てきた。
鮮血が武瑠の顔を朱く染める。
希美を吊り上げて暗闇のなかから出てきたのはあのバケモノ、希美の命を奪ったあの『大形』だった。
恐怖よりも怒りが先に立つ。
「お前だ……。お前らのせいでみんなが、みんながああああああッ!」
拳を固めて殴りかかるが、逆に太い腕で弾き飛ばされてしまう。
うつ伏せに倒れた武瑠を嘲笑うかのように、『大形』は爪に希美を引っ掛けたまま背を向けた。
「待てッ、待てよッ! 矢城さんを離せぇぇぇッ!」
暗闇へ消えていく『大形』。
起き上がろうとする武瑠だが、身体が動いてくれない。
搾り出す声もむなしく、『大形』は希美と共に消えた。
口惜しさのあまり、額を何度も、強く地面に打ちつける。
もっと俺に力があれば……
「ちくしょお……ちくしょおおおおおおッ!」
武瑠の叫びはむなしく――深い暗闇に吸い込まれていった……。
◇
地震のような揺れを感じて武瑠は目を開いた。
「神楽ッ、大丈夫なの!? 神楽ッ!」
由芽が泣きそうな顔で、武瑠の肩を揺らしている。
「武瑠、しっかりしろよッ! 大丈夫だよな? 俺がわかるよな!」
直登も心配そうに覗き込んでいた。
「直登……それに、物部――さん?」
武瑠は、いつもより重く感じる頭を押さえた。
なんでふたりが俺の部屋にいるんだ?
記憶がはっきりしない。
直登に支えられて上体を起こした武瑠は周りを見回した。
当然、自分の部屋ではない。
「どこだよここ。俺、なんで寝てるんだ?」
伸び放題になっている草むらで、いつの間にか眠っていたらしい。
「なんで寝てるって……ほんとに大丈夫か?」
「頭打っちゃったのかな? 頭痛とか、他にもどっか痛い所はない?」
朝の寝起きのような武瑠の態度に、直登と由芽はさらに心配そうな顔をする。
「そういえば身体中が痛いような……。それよりも――」
まぶしいな
武瑠は目を細めた。
太陽は雲に隠れているのでそれほど眩しいわけではない。
しかし、夢で見た暗闇との差で明るく感じるのだ。
「なんか変な夢を見ていたような……――夢?」
“夢”という言葉を口にした途端、武瑠の顔が険しくなった。
「矢城さんはッ!? 矢城さんがバケモノに襲われてるんだ、早く助けに行かないとッ!」
起き上がろうとする武瑠を、直登と由芽が必死に押さえた。
「なにすんだよッ! 邪魔するなッ!」
振りほどこうとする武瑠だが、ふたりは離れない。
「武瑠落ち着けッ、今はまだダメだッ! 隠れてなきゃ危ないんだよッ!」
「そうだよ神楽ッ、お願いだから落ち着いて!」
必死にしがみつく直登と由芽。
「お、落ち着けだぁ?」
このふたりは何を言っているんだ?
仲間の命が危ないというのに、落ち着いて何になるっていうんだよ!
矢城さんを見捨てろとでも言うつもりなのか!?
強引にふたりを振り切って立ち上がった武瑠の前に、いつのまにか皆本がいた。
なんだ? 皆本も俺の邪魔をするつもりか?
「そこをどけよ皆本ッ!」
そう言う前に、武瑠は皆本に殴り飛ばされていた。
草むらに倒れる武瑠に由芽が駆け寄る。
「み、皆本!……くッ!」
何か言いかけた直登だったがその言葉は飲み込んだ。しかし由芽は抗議する。
「なにすんのよ皆本ッ。神楽はケガ人なんだよ!」
だが皆本は、由芽を無視して武瑠へ近づく。
「神楽~、目ぇ覚めたか~?」
しゃがんで武瑠と目を合わせ、にこりと笑った。
「みな――もと?」
なぜ自分が殴られたのかわからない。
ジンジンする頬を押さえて、武瑠は呆気にとられていた。
「やっとヤツらを振り切ったとこなんだ。騒ぐとまた見つかっちゃうからさ、今は……ていうか、休めるうちは休んだ方がいいよ~」
武瑠の肩をポンと叩き、皆本は立ち上がった。
「休むって……じゃあ矢城さんは? 彼女のことは助けなくてもいいっていうのかよッ!」
「まぁだ寝ぼけてるのかな~……」
下から吠える武瑠に皆本は目を細めた。
「矢城希美は死んだよ。神楽は目の前で見たんだ、当然知ってるでしょ~?」
直登が、皆本を睨んで立ち上がろうとした由芽を制した。
皆本は武瑠を見つめる。
「矢城は神楽のお荷物にならないように……、神楽が生き残れるようにってあの場に残ったんだ。そんな彼女の想いがあったからこそ神楽はこうして生きている。忘れたなんて言わせないよ~」
口調こそいつも通りだが、その目は真剣だ。
「矢城さんが死んだだって? そんなバカなッ! 彼女は……」
たけるくん
頭の中で希美の声が響いた。
そして、武瑠はすべてを思い出した。
郵便局での事、さっき見た夢のことを……。
「――あ。あ――ああああああああッ!」
頭を抱える。
「お、俺は――俺は……」
<バケモノが来ちゃったら守ってくれるんでしょ?>
<そんなのあたりまえさ。ちゃんと守ってやるから安心しな!>
希美は嬉しそうに笑っていた。
「俺は、矢城さんを助けられなかった……。助けられなかったぁぁぁッ!」
額を何度も地面に打ちつける。
「お、おい! やめろ武瑠ッ!」
錯乱する武瑠を、直登が強引に引き起こす。
勢いあまったふたりは、背中から草むらに転がった。
青い空 流れる雲
目に入るすべてが滲んで見える。
「なにが……」
額を滲ませる血も気にせずに、武瑠は腕で目を覆った。
「なにが守ってやるだ――なにが――安心しろだ……」
唇を、ちぎれるくらいに噛みしめる。
「神楽……」
「た、武瑠……」
心配してくる由芽と直登の声も、今の武瑠の耳には入らない。
「おれは――俺は……」
<神楽くんの事を「武瑠くん」って呼べる時間が出来たんだよ!
大好きな人の近くにいられる時間をもらったの。だから……>
ありがとう
夢の中で、希美は屈託のない笑顔を見せた。
「なにも……。俺は何も出来なかったじゃないかぁぁぁぁッ!」
自分に好意を持ってくれていた希美。
その想いに応えることも
守ってあげることも出来なかった
逆に、希美に命を救われた。
その恩を返すことも償う事も
もう――なにもしてあげられない。
涙が溢れて止まらない。
武瑠は泣いた。
人目もはばからず、全身を震わせて泣いた。
バケモノが近くにいるかもしれないと言われたことを思い出した。
だから両手で口を塞ぎ、声を押し殺して泣いた。
武瑠の嗚咽が漏れるなか、皆本が話しかける。
「矢城が俺たちのところに来たときさ、あいつ必死だったよ~。神楽を助けてくれって、すごい気迫で訴えてきたんだ。そん時は一瞬渋っちゃってさ。そしたらさ、自分だけでも戻るって言い出して……。最後は、笑ってたよな~。あんな矢城の笑顔、初めて見たよ……」
皆本は震える武瑠の肩に手を置き、
「矢城は後悔なんてしてないと思うよ~。神楽が助かった事を、きっと心から喜んでいるんじゃないかな~。だからさ、忘れなければいい。矢城希美っていう女の子がいたことを、神楽がずっと憶えていてくれる……。それだけを、彼女は望んでいるんじゃないかな~」
笑顔でそう言った。
すすり泣く由芽の嗚咽が漏れた。草むらに座り込み、手で口を覆いながら泣いている。
直登も、涙を流しながら拳を固めていた。
忘れないさ
絶対に忘れないよ、矢城さん――
武瑠は希美を――矢城希美という女の子を心に刻みつけた。
ありがとう 武瑠くんっ!
希美がもう一度
最後に見せてくれた、あの最高の笑顔を届けてくれたような気がした――。
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読んでくださり ありがとうございました。




