第十八章 学
僕だけの秘密の場所を、彼女が偶然見つけだしてからというもの、毎日その場所に来て、さらには学校でもしつこくからんでくる。まったく、おかげで毎日疲れる。
「森沢さん!」
今日も彼女はやってきて、僕は心の中で今日こそ言おう、と決めた。
数学の勉強をいつも通り終わらせ、彼女は満足げだった。
「本当に、まったく。君のせいで疲れてしまった。僕はいいが、君はもっと先生と交流するべきだ。そんなんじゃ、二年生になって内申点があまり望ましいものとはいえないようになってしまうぞ。それじゃあ、もう今日は帰れ。日も大分暮れてきた」
そう。毎日来てもらうのはかまわないが、学校でくらいは先生と交流するべきだ。そうでないと、二年生になってから困る。
すると彼女は、少ししゅんとして、素直に返事をしたあと、ブルーのハンカチを差し出してきた。
「ありがとうございました。これ、お礼に」
手作り感がかなりある。
「これは、君の手作りか?」
「はい! 一所懸命作ったんです。あ、別に、森沢さんのために作ったわけじゃないです。あげる人がいなかったから、森沢さんに……」
最後まで聞いていなかったが、手作りなのか。手作りでここまでできるというのは、なかなかのものだ。
「あの・・・…」
「ん?」
「それ早くしまったほうが……」
「ん、そうだな」
僕はそれを丁寧にたたみ、ポケットにしまった。大切に。
「よくできている。ありがとう」
率直な感想と、礼を言った。すると彼女はなんだか赤くなりながらカバンを持ち、言った。
「帰ります」
「気を付けて帰りなさい」
「はい……」
彼女は走って行った。夕陽が彼女をきれいに照らしていた。僕は、また明日もどうせ来るのだろう、と一人くすくす笑いながら、荷物をまとめた。
「僕もそろそろ帰らないとまずいな」
今日はどうやら家族みんなで外食に行くらしい。理由は、臨時収入があったからだそうだ。僕は急いで家に帰った。
いつも通りバスに乗った。いくつかのバス停を過ぎながら、福山さんが乗ってこないだろうかという期待をしている自分に気づく。
……まったく、いったい自分は何を考えているんだろう?
すると、僕の隣に誰かがすっと座った。
「また隣、よろしくね」
福山さんだ。彼女は控えめに笑顔をこちらに見せ、すぐに数学の教科書のまとめの部分を、何度もつぶやき始めた。僕がそうするように言ったのだ。まさか真面目に実行するとは思わなかったが、なんだかそれを見ているとうれしくなって、口元が緩むのを一生懸命こらえた。
バスが学校前のバス停に着き、みんながバスから降りて行った。福山さんはある人物を見つけると、こちらに一瞥もくれずにそちらへ向かって走って行った。長野だ。長野はもともと足がとても速いが、歩くときもみんなより少し早い。しかし、福山さんの場合、そこまで走るのも得意ではないようなので、ちょこちょこと慌ててついて行っている。長野はそれをおもしろがり、だんだんスピードを上げた。彼女は抗議の声を上げながら、慌てて小走りで彼の背中を追いかける。
その光景を見ながら歩いていると、無性にイライラした。なぜこんなにイライラするのか、僕にはさっぱりだったが、彼女が自分以外の男の背中を追っていると思うだけで、なぜか複雑な気分になるのだ。
休み時間、なんとなく教室から出てみると、福山さんが数学担当の飯田先生に一生懸命わからないところを直そうと、質問しているのが見えた。僕は思わず感心し、そのまま見ていたが、長野に声を掛けられ、振り向いた。
「おいおい、なんでそんなにらみつけてくるんだよ」
長野に指摘され、平静を装った。まさか、自分でも長野が驚くほどにらんでいるつもりなど、全くないのだ。
「で、最近どうなんだ」
「福山さんとのことか?」
「あぁ」
僕たちは教室に戻りながら話した。
「君がそういうことを聞いてくる理由がさっぱりわからないが、まあいいだろう」
僕は福山さんに一週間前ほどから福山さんに数学の勉強を教えていること、福山さんに手作りのハンカチをもらったことを話した。
「なかなかおもしれぇじゃねえか」
そう呟くのが聞こえた。
長野はにやっと笑った後、じゃあな、と言い、自分の席についた。
……あいつ、何を企んでるんだ?
そう思いながらちらりと長野に目をやった。するとちょうど目が合い、長野はウィンクしてきた。
放課後、いつも通り僕はあの場所へ向かう。今日はいつも以上に晴れていて、空には雲一つなかった。
広場に着くと、僕はいつも通りカバンから「月影祭司(英国原作版)」を取り出し、読み始めた。
読み始めてから三十分ほど経った。日が暮れ始め、夕陽は広場をオレンジ色に照らしていた。なぜか気が落ち着かなくなり、無意識に頭に浮かんだ言葉をつぶやいた。
「遅い」
……誰が? 誰が遅いというんだ?
「あぁ、そうか」
つぶやきながら、本をカバンにしまった。
無意識に福山さんを待っていたんだ。彼女がいつもこのくらいになると来るのに、いつまで経っても来ないから……。
カバンを持ち、帰ろうとした。すると、なぜか足は出口の方に向かず、結局もといた場所にまた座ってしまった。
……何を考えている?
僕は一度自分の頬をぺちんと叩いた。
……彼女のせいで毎日一人の時間を奪われていたんじゃないのか? 一人で本を読みながら、頭に浮かぶ様々な疑問符を消していく。それが一番の楽しみじゃなかったのか? それに、今日は何か用事があったのかもしれない。また明日来るだろう。僕の思考を邪魔しに。
僕はさっと立ち、今度こそ帰り道へ向かって歩いて行った。
それから毎日、僕はよくそんなことがあった。それなのに彼女は、一度もあの場所へ来なかった。
なぜこんなにも彼女のことを……?
この疑問だけはどうしても解決できない。
「長野」
しかたがないので、親友を頼ってみよう。
「どした?」」
国語の教科書に読みふけっていた長野は、教科書を置いてこちらを見た。
「最近、異常なほどに彼女のことが気になるのだが」
「彼女って?」
少し躊躇したが、すっと息を吸って、言った。
「福山さんのことだよ」
「あぁ」
長野はにやりとして言った。
「それは、恋だな」
全身に雷を受けたような衝撃が駆けぬけた。一気に疑問符が払拭された。
「おい、何赤くなってんだよ」
気付かなかったが、頬が妙に熱くなっていることに気付いた。
「あ、あぁ。ありがとう」
そう言い、僕はすぐに席へ戻った。
……この僕が、恋? 恋愛など全く無関心だった、この僕が?
本当に意外過ぎて、笑いが込み上げてきたが、慌ててそれをこらえる。でも、これが本当に恋ならば、それはとんでもないことに足を突っ込んでしまったことになる。まわりの女子の話を聞いていればわかる。いわゆる「彼氏」に対する悪口は、本当に恐ろしいものだった。福山さんがあんな悪口を言うとは、とても思えなかったが……。
親友の答えに納得してしまっている自分に気付き、さらに頬が熱くなった。僕はどうにか別のことを考えようと、「月影祭司」を取り出し、読み始めた。これも恐らく、現実逃避と呼ぶのだろう。でも構わない。今はゆっくりと、本に没頭していたい。