湖にて
底が暗く、見えない湖。私は、腰までその中に浸かっていた。まだ足は付くが、どんどんどんどん深くなっていくだろう。この湖の中心、もっとも深いところには一体何が眠っているんだろうか。……結局のところ、ロマンチックなものなどなにもなく、泥やゴミが大多数なのだろう。
しかし私は知っている。
その汚い泥やゴミのなかに、貴方が眠っていることを。
浮かび上がらないように、丁寧にガス抜きのための穴を開けられて、沈んでいる貴方がいることを。
好きよ、と呟いても貴方は答えてくれないわ。
嫌いよ、と呟いても貴方は黙ってくれないわ。
「今でもね、貴方の声が聞こえるのよ」
私はそう言って、さらに深く湖へと沈んだ。
耳鳴りのように、最期の貴方の言葉がリフレインする。
「■■■■■■」
血にまみれた顔で、呟いたその一言。私の目をじっと見つめて、笑って言ったその言葉。
「■■■っ■■」
やめて、私を責めないで。
思い出すたびに、聞こえるたびに、心を黒く蝕まれるようで……耳を押さえて、また一歩進む。冷たい水が身体を刺していく。あぁ初夏のはずなのに。どうしてこんなにも水は冷たいのだろうか。
「縛らないで、私は貴方に縛られたくないの。ねぇあれは本当に私のせいじゃないのよ、どうして最期であんなことを言ったの?」
思い出すのはあの日の夜。
ストーカーが狂った愛を私に囁いた日。
貴方は赤く染まっていた。
染まっていた。
「■き■っ■■」
「……ごめんなさい、私はあのとき逃げてしまった。貴方を助けようともしなかった」
まだ耳を押さえながら、私は沈んでいく。
私の周りの水が、赤く染まっていく。私の体は、洗い流されていく。表面上だけ綺麗になる。それでも私の手に染みついた鉄の臭いは消えないし、私の内面は赤黒いまま。冷たい水は、表側しか綺麗にしてくれない。冷たい水は、裏側を針でつつくように責めたてる。
「■き■った■」
過去形で投げかけられたあの言葉。最期の瞬間、貴方は私の恋人ではなかった。ごめんなさい、私は酷い女だったよね。恋人を助けようともしないで、勝手に逃げてしまって……。
でも。
褒めて?
二回目は逃げなかったよ?
ちゃんとね、相手をしてあげたの。
「話をしましょう」
そう言って、あのストーカーに水だけを与えて、話を聞いたわ。そのときには、貴方が好きだった花が力を貸してくれたの。狭いベランダなのに、大きな鉢植えで育てていたよね。
私は、ビニールに包んだ花を取り出す。それは固まった黒い花。古びた血の付着する紫陽花の花。
紫陽花の毒で、腹痛を起こしたところをザックリと。
「■きだった■」
私は酷い女。
ごめんね、冷酷な女で。
「私は、生きてイタいの」
涙で歪んだ景色の中で、私は告げる。
紫陽花の花を湖面に浮かべた。
紫陽花は沈んでいく。
少しずつ、少しずつ。
少しずつ。
血は流れて行き、薄い青色が姿を現した。
けれど沈んでいく紫陽花は、暗い水底へと沈んでいく紫陽花の色は――――
「好きだったよ」
幻聴がやけにはっきり聞こえてきた。