正義の少年
とても辛そうな顔だった、そうとだけ言っておこう。
そのときの彼の顔は、少女にしか見えなかった。闘病していた少女の首を、無残にも大人の強い力で絞めた彼は、いったい、どんな顔をしていたのか。それは誰も知らない。
唯一彼の表情を知った少女はもう物を喋ることもない。ただ言うならば、死体として残された少女の表情は、もう動くことなく、引きつるように笑っていた。それは最後の意地だったのだろうか、それとも、本当に幸福だったからだろうか。それは誰も知らない。
連絡をして、少女の亡骸を丁寧に屠る必要があった。未知の病が少女の体中を巣食っているため、へたに触っても、バラしてもいけない。彼は無線に手を伸ばすと、病原体の少女を確かにこの手で殺したこと、死体を持ち帰って、科学者の手に引き渡すことを頼んだ。少女の体内のウィルスは、科学者の手によって研究されるだろう。その結果として、病気に効く唯一無二の薬が作られるか、あるいはウィルスに侵されている人間がごく少数であることを受けて、存在をなかったことにされるだろう。
これで、一安心だ。
彼は煙草を咥えた。
そして、突き飛ばされた。
何事か、と思って振り返ると同時に、ああ、少年よ、一足遅かったな、と哀れに思うのだ。
――君の最愛の少女は、今、俺が殺した。
少女の死体を目にして悲痛なまでに少年は泣き叫ぶ。たしかに悲しいし、守れなかった罪悪感で痛いのだろう。彼は少年の声が変わってしまうまで泣き叫ぶ様子を、ただじっと見ていた。
暗い路地裏、電子に支配されたビルとビルの隙間で起こる出来事とは、かくも人間味に溢れたものだったのか。まだ青く表示された空の下で、泣き続ける少年を見ながら、彼は、あぁ、雨が降ったならば最高なのに、などと考えるのだ。
なぜ殺したのか、そう問われればなんと答えようか。ふ、と思いついたその瞬間に。
「……お前が」
少年は初めて、少女以外の人物へと感情を向けた。
「お前が、殺したのか?」
何を? などと問うのは無粋だろう。彼は黙って、そうだ、と重々しく告げた。
「あいつは、生きたがっていたのに! 綺麗な空の下で、笑って、ピクニックがしたいって! 俺はまだ! その願いを叶えてやれていなかった!」
がらがらと鳴る喉で無理やり叫ぶ。それは少女のささやかで、それでいて大きな願いだった。電子のシアンで作られた綺麗な空の下、人工のプラスチック草の上でのピクニックとはいえ、ずっと閉じ込められていた少女からすればとても美しいものに思えたに違いない。
可憐で哀れな少女と、勇敢で凛々しい少年と。二人は、手を取り、願いを叶えるために、白い牢屋から逃げ出した。
彼女たちを応援する人々が増えてきていた。
手を差し伸べる人が増えていた。
けれど、そんなことはもうどうだっていい。
彼が、今まさに、少女を、その手で、殺めて、しまったの、だから。
「俺たちが悪で、少年は正義。政府という巨悪から、逃れる小さな勇者のお話、か……」
いかにも、ネットの住人たちが喜びそうな物語だ、と呟く。実際、彼らは遠い昔に憧れ、しかし現実には訪れなかった夢物語を彼らに重ねてしまっていた場面もあったのだろう。
「残念なことに、俺たちは眼球を据えるための土台を一つしか持ってないからなぁ」
「ふざけんなっ!」
ご、と鈍い音を立てて、少年の拳の骨が、彼の頬にめり込む。どうすることもなく、彼はそのまま地面に倒れ、頬を擦り、赤く傷を残した。
痛いとも思わなかった。
ぽたりと、頬に水滴が落ちる。ようやく雨のご到着か、とまた同じように来るであろう衝撃に備えて、とっさつむっていた瞼を開けると、少年が泣いていただけだった。
ぼろぼろと、みっともなく、鼻水も垂らして、泣いていた。
ピントがぼやけているが、後ろの方に、少女の死体が見えた。少年が下手にどうにかする前に、早く仲間が回収しないかなぁ、などとぼんやりと考える。
その間も、彼は何回も、何回も、殴られ、押され、罵られる。殺すこともなかったじゃないか、なども言われたが、仕方がない。それが一番の安全策だと言われたのだから。血液を出さず、絞め殺すか、電気で殺すのが一番いいだろう、とそう命令されたのだから。
「お前にも! 大事な人がいるだろ!」
歯を食いしばって、拳でまた殴りつけられる。そしてようやく、彼は口を開いた。
「いる。家族が」
急に口を開いた彼に、少年は驚き、一瞬手を止める。そして、先ほどよりは幾分か柔らかめに殴ると、暴行の手を止めた。話せ、という無言の促しと察知した彼は、身の上を話しだす。
「とくにドラマチックなこともない。俺と妻と娘と息子の四人家族だ。それでも大事な家族だ。ああ、両親や同僚もいるな。そう、それから、えーと、あれだ、ああ、あった。他人より不幸な点を挙げるとするならば、未知の病にかかって死にかけている」
息子が、な。
と、ぽつりぽつりと言葉をこぼすように、曖昧な間隔で彼は話す。彼女を殺したとしても、特効薬ができるとは限らない。できる望みの方が薄いだろう。
「道案内をした男の子を覚えているか? それが息子だ」
少年は怪訝な顔をする。そんなもの、覚えてなんかいない、というように。とくに少年の記憶力や感傷が希薄なわけでもないだろう。毎日毎日、人間は様々な人間と会い、別れていく。その一人ひとりの顔を識別して記憶するなど、海馬にとっては苦労ものだ。だから、特別な相手、何度も顔を見た相手ぐらいしか覚えていない。
男にとって、少年と少女は、息子を死の淵へ追いやった憎むべき悪なのだ。かつて親切心で道案内をして、その際にどういう系以下は知らないが、少女からウィルスが感染、病を発症してしまった――。
しかし彼には、今、少年を殺そうという気持ちなど微塵もなかった。少女を失った空虚に苛まれろ、というわけでもない。単純に、そういった気持ちがすべて抜けてしまったのだ。もしかすると、今まで自分が持っていたのと同程度の憎悪を向けられてしまったからかもしれない。
持っていたものだから、持っている少年の気持ちがわかってしまうのかもしれない。
そして彼はかつての少年であるために、テレビのヒーローに憧れる時期もあっただろう。
彼にとって少年は悪で、少年にとって彼は悪なのだ。
眼球が二つもあるのに、向いている方向は一つだけ。だからこんなことが起こるのだろうし、誰もがみんな、他人の靴に足を当てはめることができるのならば、諍いなどは起こらない。
「正義もなにもないんだよ。正しさなんて、誰かが主張すればその時点で産声をあげるのさ」
皮肉ったように火のついていない煙草をかじりながら彼は言う。そうしてもう一度、少年は拳を振るう。わからないからか、それとも理解を拒もうとしてしまうからか、なんにせよ少年は拳を振るう。
泣きながら、何度、拳を振り上げ、振り下ろしただろうか。そう多くはなかった。人の声が遠くからしたからだ。言うまでもなく、先ほど彼が呼んだ仲間だろう。意識が逸れた瞬間に、彼は少年を脇から抱き上げた。宙に浮く足、ばたつかせても届かない。
彼は少年を地面に置くと、少年から、少女から距離を置いた。
「彼女を殺したのは、俺だ」
少女の死体を指さして、それから彼自身を指さす。左の人差し指で。
「悪いのは、息子を助けたいと思った俺で、俺こそが悪者で、人殺しの、犯罪者だ」
右の手は、ズボンの横につけられたホルスターへ伸びる。
「悪者は、滅びるべきだ。そう思うだろ? 正義の少年」
武骨な黒い鉄の塊が右手に握られる。安全装置はとうに外されており、それをゆっくりと持ち上げていく。
遺書は残してきた。罪をすべて被れば、手術代やそのほかの療養費も政府が出してくれる。この悲しい少年少女の物語の悪役は、彼一人となるのだ。それですべてが綺麗に収まる。
最愛の少女を殺されてしまった少年は、嘆き悪役を殴り糾弾する、悪役は己の犯した罪の重さに気付く――そして。
ああ、なんて綺麗な終わり方。
強者に立ち向かう弱者の、悲劇だけれど英雄譚。ネットにて語り草にでもなりそうだ。
「これで、悪は滅びる。なにもなくなるんだ」
震える右手が、銃口を口元へ運ぶ。
「俺が、俺だけが、悪役で、姑息で、卑怯で、忌み嫌われる、胸糞悪い、悪役、なんだ」
歯で銃の先端を噛むことで無理やり固定する。引き金に手をかける。このままうまくいけば、脳幹を損傷させることができるだろう。
そして彼は、そのまま、人差し指を。
「…………死にたく、ねぇよぉ……」
周囲に、銃声が響き渡った。
正義のヒーローって言葉が嫌いなぐらいには厨二病を患ってます。
悪役なのになんであのキャラ好きなの? って言われて、イラついて書きました