Vol.6 人と人
由紀彦は丸めた新聞紙を手にゴキブリと格闘していた。
「だからさ」
沈黙を破ったのは新聞紙が床に叩き付けられる音ではなく、宏美の言葉だった。
「エゴなんじゃないの、そういうのってさ」
「そういうのって」
由紀彦がそう訊き返すのと、ゴキブリが冷蔵庫の裏に姿を隠し切るのはほぼ同時だった。
「ああくそ、逃げられた」
「えー、早くやっつけてよ」
顔中から不安の色を隠さずに宏美は言った。
「で?」
「で、って」
「話。続き、聞かせてよ」
興味があるのかないのか、由紀彦は殺虫スプレーを冷蔵庫の裏に巻き散らしながらそう尋ねる。死にもの狂いのゴキブリが飛び出してくるような気がして、宏美は眉間に深い皺を刻む。
「だからね、人って結局は一人じゃない?」
「いきなり極論だな」
殺虫スプレーによって台所中が白く煙る。思わず由紀彦はその根源から顔を背けた。
「慣れてるだけ。誰かと一緒の生活に。望む望まないは置いといて、人と関わらずに生きられる人なんていないもの」
「理屈が支離滅裂なんだけど」
「茶化さないで。最後まで聞いてよ。そう、でもね。例え望んでないとしても、誰か友達がいなくなれば、自分は当然心配するじゃない? このドラマの主人公みたいに」
「まぁ、そりゃそうだな」
「心配するのは個人の自由。だからそれはいいんだけど、この主人公、失踪してた恋人を見つけて殴るじゃない? こんなに心配かけて、とかそれらしいこと言ってるけど、それって、あたしに言わせればすごいエゴ」
「それの」
由紀彦が何かを言おうとしたその時、直進するのもままならないのか、もがきながらゴキブリが再びその姿を現した。それとほぼ同時に、バンッという威勢のいい音とともに由紀彦の新聞紙が振り下ろされた。
「それのどこがエゴなんだよ」
人間の縄張りを荒らすという、あまりに一方的な罪を犯したゴキブリは、懲罰としてその短い生命を終えた。それに対して十字を切る者も、救いの神も、少なくともこの部屋にはない。
「この物語、心配するっていう行為が押し付けがましいものとして描かれてるじゃない? それが鼻につくのよね。陳腐な言い方だけど、心配ってのは無償の愛の産物でしょ? そもそも、心配してた相手に暴力を振るうって行為が、もう矛盾なのよね」
「冷めてるな。みんながみんな、そう思ってやしないし、そんなに理屈通りに動けやしないんだよ」
「そう」
聞いているのかいないのか、宏美は由紀彦の言葉に反応を示さず、彼の方を指差した。
「そのゴキブリみたいなものよ」
「は?」
宏美は、今や変わり果てた姿で潰れているゴキブリを指差しているようだった。
「子供の頃って、ゴキブリなんて気持ち悪くて仕方なかったじゃない?」
「今でも気持ち悪くて仕方ないけどな」
「でも今は、それさえも生活の一部なのよ。実際、由紀彦はゴキブリを見た瞬間に退治しなきゃ、って思ったでしょ」
「俺はゴキブリと一夜をともにする趣味はないからな」
「北海道って、ゴキブリがほとんど出ないらしいわよ。東北もそうなのかな。まぁ、それは分からないけど、ずっと北海道で生活してた人を本州に呼んでゴキブリを見せたら、絶対気味悪がると思うわ」
自信満々に独自の理論を展開する宏美とは対照的に、由紀彦は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「奥歯に物が挟まったような言い方だな。なぁ、要は何が言いたいわけ?」
「当たり前になりすぎてるって話よ。このドラマの場合で言えば、隣に誰かがいるのがね。だから心配と暴力が直結しちゃうのよ」
「それこそ、やけに暴力的な論理じゃないか?」
それに、せめてゴキブリじゃなくもう少し可愛らしいものに喩えてほしかった、と思う。
「心配って言うよりも、不安って呼んだ方が正しいんじゃないかしら。誰かが自分の元から離れていってしまいそうな不安を、心配と錯覚してるような気がするわ。だから、心配って感情なんて本当は」
「あー、分かった分かった」
これで話は終わりだ、とでも言うように手をひらひらと振ってみせる由紀彦。
「それにしても」
喉をくくっ、と鳴らしながら由紀彦は言った。
「ナンパされて家まで付いてくるような女から、そんな話が聞けるとは思わなかったよ」
由紀彦はさも面白そうに笑うのだった。
「だって、隣に誰かがいるのが当たり前なんだもの。少なくともあたしにとってはね」
随分遠回しで自信に溢れたアプローチ。由紀彦はニヤッといやらしい笑いを浮かべ、宏美に迫った。
由紀彦に押し倒されるような形で、ベッドに倒れこむ宏美。
──ママ、心配してるかな?
押し寄せる快感に小さく声をあげながら、宏美はそんなことを思った。